喜源テクノさかき研究室: 2019年5月アーカイブ

今月の書評-59

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気持ちの良い春の日が続いておりますが、みなさま如何お過ごしですか?
センセは昨日は千曲川の河原に散歩に行ってまいりました。
現在、河原ではハリエンジュ(ニセアカシア)の花が満開で、良い香りを放っています。例によってヨシキリの連中がキリキリキリキリとやかましく鳴いていますが、肝心のヨシ(あるいはアシ)は芽吹き始めたばかり。カッコウも未だ里に降りてきていません。でも、鳴き始めるのももうじきだと思います。研究室の裏の電信柱のてっぺんでカッコウが鳴き始めると、いよいよ本格的な坂城の初夏の到来となります!

さて、先日、国立科学博物館の研究チームが、北海道礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した今からおよそ3500 年くらい前の縄文人骨から得られた核DNA の詳細な分析に成功した!との発表がありました。そのうちまたNHK のサイエンスゼロで篠田教授が解説すると思います。

で、基本的には従来のmtDNA 分析やYDNA 分析結果を「より詳細に」裏打ちした、というカンジでした。

面白かったのは、従来から縄文人は酒が強くて顔にはシミが出来やすい、と言われてきましたが、今回もそれらを裏付ける結果となったようです。また、脂肪の代謝に関連する遺伝子に変異が生じており、その結果、高脂肪食に対応できたと考えられる、とのことです。つまり、アザラシやらトドやらの海獣の狩猟を生業としていた可能性が遺伝子分析から示唆できた、ということです。

一方で、現代の漢民族よりもウルチなどのツングース系民族、韓国人、台湾先住民であるアタヤル族(別名タイヤル族)やヤミ族などとより近い、という点も興味深いです。
出土したのが礼文島ですし、時代は縄文後期ということからウルチの血が混じっているのは不思議ではありませんが、台湾先住民との関連は意外でした。

今月の書評-37」でご紹介した金沢大学の核DMA 分析による結果では縄文人と東南アジアの古代人骨との関連が指摘されていましたので、その文脈で考察可能かな?とも考えます。
一方、mtDNA からの結果では台湾先住民と縄文人との関連が見いだせないので、やはり縄文人、一筋縄ではいかない連中のようではあります。

韓国人との関連に関しては、縄文時代に縄文人が朝鮮半島に移り住んだ結果が反映されているのかも知れません。


船泊遺跡-1.jpg
赤味が強い方が船泊の縄文人に近い。 国立科学博物館より
http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf
10年ほど前に唱えられていたマリタ人(MA1) との関連は低レベルであるのにも注意!
個人的には、船泊出土が東京に代表されてるのにちょと違和感がある・・・。


船泊-2.jpg
同、分析された縄文女性の復元模型 国立科学博物館より
http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf

個人的には、もっともっとモンゴロイド的要素が少なかったと思ってる。
個人的には、スリランカのヴェッダ人あたりに、よっぽど似てたと思ってる。
個人的には、間寛平のお母さんかな?とも思ったりしてる・・・。






坂城散歩道-26

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本日、下界では、ナンカ、雹(ひょう)とか霰(あられ)とかあって大変だったらしいですが、ここ坂城では無風の快晴状態。で、バイクで和平(わだいら)~傍陽(そえひ)に抜ける林道を走ってきました。地元では「ここを走らなきゃオフライダーじゃないだー!」とまで言われる個所です。で、まだまだ連休も続きますので、走ってきました。


赤土の小道-1.jpg
例の、「赤土の小道」です。
ここ数日は雨が降ってないので、ツルツルじゃない。
前回とは異なり、いとも簡単に通り抜けることができました。


和平のてっぺん.jpg
和平のてっぺんはこういうカンジ。
手入れの行き届いた農地が広がってます。
気持ちが良いです。


和林道入り口.jpg
右は、一昨日登った鳩ヶ峰に通じる本来の登山道の入り口です。
でも、私有地なので進入禁止。
だもんで、一昨日は、不動建線の横から侵入しました。
本来はここから入るべき道ですが、入れてくれないのだから仕方がない・・・。

左に折れると、真田の傍陽方面へ抜ける林道入り口となります。
本日は、ここを走ります。


和林道入り口-2.jpg
入り口はこういうカンジ。

傍陽口終点まで一気に走りましたので、行きの写真は撮ってません。
だもんで、帰りの写真を載せていきますね!


傍陽終点.jpg
傍陽口の終点はこんなカンジ。手前は地蔵峠に向かう県道35 号線となります。
ここからU ターンして、和平方面に向けての写真を載せてきます。


傍陽看板.jpg
50 万?安い安い www。いくらでも請求してちょうだい!・・・って、もちろんうそですがな~(カネオくんの声で)。


途中-7.jpg
よゐこのみなさん、分かりましたか?「ハ~イ!」 by Yoiko。


soehi 途中-4.jpg
傍陽口からの直線は大体こんなカンジ。フラットで簡単です。


途中-6.jpg
けれどもこんな大き目の石が敷き詰められている個所がずいぶんある。
もうちっと小さければな~と思いますが、オフロードバイカーの声なんて、国会には届きませぬ・・・。

新天皇に直訴するかな!


soehi途中-5.jpg
傍陽口からは、しばらくの間、小川に沿って走ります。
ちょいと雰囲気が良いですが、まともな魚とかはおりませぬ・・・。


soehi途中-3.jpg
ここで分岐し、和平方面へ登ります。
傍陽口からここまではフラットな直線で、簡単な道ですが、ここから和平までは登りとなり、道幅も狭くなり、ガレが激しくなり、さらにブラインドコーナーが連続するようになります。


soehi途中-2.jpg
途中で「やらかしそう」な場所があります。
先行する誰かが明らかにやらかしてます。
センセじゃありませぬ。


soehi途中-1.jpg
和平口の道はこんなカンジ。
基本、ガレはもっとひどいです。


ぬかるみ.jpg
和平に戻ってきた。
例の、「ぬかるみの小道」だ。
ここをバシャバシャ一気に通り抜ける。


和平てっぺんの道.jpg
「赤土の小道」に通じる道。
見晴らしも良い。
真正面は虚空蔵山。
左の山は鳩ヶ峰。


第二研究所.jpg
最後に5 月4 日の第二研究所の様子。
芝桜がきれいですね!


傍陽地図.jpg
最後に感想を一つ。

この林道は坂城と真田を結ぶ路線として有名な道ですし、また、生活~産業のためにも重要な道かと思われます。
実際、これまで林道とか走っても、林業関係者のケットラに遭遇することは時折あるものの、普通車に遭遇することはめったにありませんでした。けれども、本日は道路わきに停めてある車を含めて総計6~7 台に遭遇しました。

林道で対向車をやり過ごすためにしばし待った経験は、本日が初めてです。

もちろん天気の良い連休の一日、ということもあったからだと思いますが、それ以前に、上記の理由から、この道は一般車両の往来が比較的多い林道かと思われます。

で、傍陽口からのフラット直線区間は良いとして、和平口のガレ+アップダウン+ブラインドコーナー連続区間での車両との遭遇は、あまり心地よいものではありませぬ・・・。

傍陽口では小川に沿って走りますので、ちょいと雰囲気も良いかな?というカンジもしますが、小川に魚もおりませんし、並走もすぐに終わります。

水晶線や不動建線のような「深山幽谷」の雰囲気は皆無ですし、んんん、センセとしては、「つまらない林道」と言わざるを得ませぬ・・・。

それよりも、「赤土の小道」から「ぬかるみの小道」を通って真田方面入り口までの「和平農場」のフラットな道の方がよっぽど楽しい!
で、センセは行き帰り共に、セローくんと共に突撃し、大いに「泥んこ遊び」してまいりました!

おかげさんでバイクだけじゃなく、ブーツもジャンパーもズボンも泥だらけとなりましたが・・・。



坂城散歩道-25

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令和元年5 月2 日、新たな天皇の即位を祝し、和平高原から鳩ヶ峰~大道山=堂叡山(地元ではどうえいざんと呼ぶ)まで、登ってきたというか遭難しに行ってきたというかいろいろして参りましたので、ご報告いたします。

朝は少し曇りがちでしたが、昼過ぎからは快晴となり、まことに気持ちの良い一日となりました。・・・あれがなければ・・・。

さて、後日にバイクで走ることも想定し、不動建線入り口の横にある林道から峰すじに侵入するルートを考え、探索がてら、とりあえずジムニーで和平まで登りました。

鳩入り口.jpg
右に下りると、「坂城散歩道-15」で紹介した不動建線となります。
今回は左を登ります。

登り口は比較的急で、雨が降るとヌタってバイクで登るのはちょいとキツイ気がしますが、ヌタってなければ問題ないと思います。
左サイドは手入れの行き届いた農地となっており、電柵が張り巡らされてます。


分岐-1.jpg
10:30 に出発。左側への分岐が何本かあります。これは最初の分岐。
ここを左に折れてみました。


電柵.jpg
電柵農地となって、抜けられませぬ・・・。


分岐-2.jpg
三本目くらいの分岐。ここを左に折れると・・・。


謎の鳩広場.jpg
謎の広場に出ます。運動会ができそうなくらいです。
反対側には傍陽(そえひ)側を走る林道がつながっているようです。

ここから峰すじの登山道が接続してますが、ちょいと見つけるのが困難です。


鳩看板-1.jpg
これがそう。ここから登ります。

けれども、先の林道をそのままドンドコ真っ直ぐ行く方が楽です。
途中で峰すじに接っするところが何か所かあります。


峰道-1.jpg
最初はこういうカンジ。取り立てて特徴はありません。


千曲川方面.jpg
若葉を付け始めたカラマツの梢の合間から、坂城の町が顔を覗かせます。


平行に走る林道.jpg
途中、平行に走る林道と接したので、ここから登ることにした。
これが間違いのもとでした・・・。


林道の分岐.jpg
分岐してる。左側が山なので、当然左に行った。


いばらの道.jpg
倒木だらけ・・・。おまけにトゲトゲのイバラだらけで、手は血だらけ・・・。だらけの三連荘・・・。

軍手をつけて倒木の間を何度も越えながら、漸く登頂した。

大人しく峰すじの登山路を登れば良かった、と後悔しましたが、帰りはさらにひどい展開となるのであった・・・。


鳩山頂.jpg
鳩ヶ峰山頂に到着!12:30 でした。ここまで2 時間かかりました。


鳩弁当.jpg
例によってお弁当の写真です。
前回とはおにぎりの向きが異なります。気が付いた?

ここからさらに大道山を目指します。


大道山への道-2.jpg
初めのうちはこんなカンジ。鼻歌混じりで歩けます。
鼻歌は、Stan Kenton の「Opus in Pastels」だ。


謎のキノコ-2.jpg
謎のキノコ・・・。なんだべ???


カモシカの糞.jpg
至る所にあるカモシカの糞。


郭の跡.jpg
所々にこういうカンジで石が転がっている。
たぶん、村上義清の頃にはここら辺も山城として用いられていたのかと・・・。


鳩看板-2.jpg
途中の看板。峰すじから林道横引線に下りられる。帰りはこれでミスをした・・・。

鳩ヶ峰から大道山までの道は、最初のうちは鼻歌混じりのピクニックですが、途中には相当に急な長い下りが続く個所があります。
下るのも大変ですが、帰路はこれを登らなくてはなりません。これが、林道に抜ける誘惑となります・・・。

この急坂で、大道山から登ってきた一組の夫婦と出会った。文字通りの這う這うの体であった。


三十六童子碑.jpg
こういうのがあったので、山頂は目前だ!
三十六童子というのは、不動明王の眷属です。

ん? 眷属って、なに? どう読むの? ググってください。


石像-1.jpg
大道山の頂上です!お地蔵さんではなく、神様仏様の石像が並んでます。


石像-2.jpg
石碑もある。


石像-3.jpg
もう一丁!不動明王です。


大道山頂上からの眺め.jpg
頂上からの展望が素晴らしい!
地元の有志の方々が、眼前の樹木を切り開いてくれたのでしょうね!感謝!

令和元年おめでとうございます!


鳩北アルプス.jpg
本日は北アルプスもバッチリ!
鳩ヶ峰から大道山頂上までは1 時間+アルファくらい。
現在14:00 。
ということで、ここから戻ります。


林道分岐-2.jpg
先の林道横引線の看板のところから、林道側に下りた。
道は良い。


鳩ヌタ.jpg
例によってイノシシのヌタ場。
ツチガエルかアカガエルかの卵がたくさんあった。


林道分岐-3.jpg
しばらく歩くと再び分岐。右は山沿い。左はさらに下るようだ。
分からないので、とりあえず左を下ってみた。


下山道-1.jpg
ご覧の通り、道は良く、鼻歌混じりで下って行った。鼻歌は、ヘレン・シャピロの「悲しき片思い」だ。

が、なんか変だ・・・。

どんどん山から離れるばかりか下り方が早い!
このまま進めば和平の頂上(ジムニーを停めてあるところ)からずいぶん離れることは必定だ!ヤバイっす!

で、結構歩いた後で、先ほどの分岐点まで引き返した。


鳩林道看板.jpg
先ほどの分岐点には、こういう看板が何気なく置かれていた。
矢印通りに行けば元に戻るが、山沿いの分岐に沿って歩いて行った。
すると・・・。


ガレ道-1.jpg
道が相当に荒れている・・・。
さらに・・・。


ガレ道-2.jpg
こんなカンジになってきた。
これを乗り越えてさらに先に行ったところ、この先は完全に崩壊しており、この林道は完全に途切れていた。

で、再びここから引き返しただけでなく、元の大道山の看板まで戻る羽目に陥った。この時15:00 。

結局、峰すじの往路をそのまま戻ることとなり、足腰の負担もさることながら、日が落ちるのも不安材料となってきた。水筒のお茶も残り少ないし・・・。


鳩林道終点-2.jpg
ようやく林道入り口まで戻ってきた。樹木の影も長くなっている。
帰りは下りもあって、時間も来た時よりは短くすんだのは、幸いであった。


鳩林道-1.jpg
ジムニーに戻ったのが17:00 くらい。
昼食時の休憩以外に休みらしい休みを取らず、ほとんど歩きっぱなし。
6 時間くらいぶっ通しで山道を歩いた勘定となる。ヤレヤレ・・・。


鳩さくら.jpg
最後に、和平から下界に下る途中で撮ったさくらの写真を一枚。
この風景に疲れもいっぺんに吹っ飛んだ!


鳩地図-1.jpg
本日のルート。
恐らく、本日、大道山から間違って下ってしまった林道は、「坂城散歩道-17」で紹介した大道山登山口につながる道なのではなかろうか?
また、この林道は、大道山頂上の下から芝峠につながり、ひいてはこれが水晶林道と接続しているのではなかろうか?
さらに、この道は、和平方面からの林道と本来は接続していたが、先に見てきたように、道が崩壊したため、現在はつながっていないのではなかろうか?

などと色々考えているセンセです。
結局のところ、バイクで走って確かめなくてはなりませぬ。


鳩地図-3.jpg
「坂城を取り巻く山々を全て踏破してやろう!」というセンセの良からぬ企みも、ずいぶん進んでまいりました。和平と黒柏木(くろかしゃぎ)を結ぶ線が切れてますので、そのうち接続したいと思います。これは朝飯前だと思いますが、令和元年中に全線開通となるでしょうか?

・・・今日のような調子では、達成前に本当に遭難してしまうかも・・・。

まだまだ続く連休です。
みなさまにも良い日が続くことを祈ります。

ではっ!


今月の書評-58

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令和元年5 月1 日のブログです。

西暦2000 年、すなわち平成12 年とちょと古いのですが、Molecular Biology and Evolution 誌に、Wang L. らによる大変興味深い論文が掲載されました。


要約すると、

● 中国山東省の臨淄(りんし)という町で、現代の住民、2000 年前の住民の骨、2500 年前の住民の骨から得られたmtDNA を用いて分析を行った。
● それぞれのハプロタイプを比較したところ、三者間で有意差があった。
特に、2500 年前のものと2000 年前のものの間に顕著な差が見いだせた。
● これらを現代のユーラシア各地の住民のmtDNA と比較したところ、2500 年前の住民は、現代の山東省の住民よりもむしろ現代の欧州の住民により近いことが明らかとなった。2000 年前のmtDNA は現代の中央アジアと近かった。

というものです。
上田氏は、最後に、「今月の書評-54」で紹介した紅山文化の「ヒスイの目を持つ女神」にも触れ、ヒスイの青さから、これは欧州系の女性を表した可能性を指摘し、mtDNA の結果と併せ、欧州系の連中が、当時、極東の地にまで進出していた可能性を示唆しています。

この「ヒスイの目を持つ女神」=欧州系説は、他の色々なところでも指摘されています。


さて、馬や戦車、あるいは小麦の伝播など、古代中国に欧州系の影響が及んだことは歴史的~考古学的には既に明らかですので、ことさら驚くべきことにも思えないかも知れませんが、DNA 分析によって生物学的~人類学的にも明らかな証拠が出てくると、これは驚愕的と言ってよいと思います。
また、色々なヒトが指摘していますが、この結果に歴史的推移並びに山東省の地政学的状況を重ね合わせると、この時代に中原で生じていた地殻変動のようなダイナミズムが「倭人」の形成にも深く関わっている可能性が見て取れます。

今月の書評-34」でご紹介した金平譲司氏などは、これらに自らの言語学的研究結果を加えて、現在、ご自身のブログで興味深い成果を展開しつつあります。
(専門的過ぎて、センセはしばしばついて行けませんが・・・)


このような文脈の中でしばしば言及されるのが、羌(きょう)族です(中国読みはチャン族)。羌という文字は「ヒツジにヒト」で構成されており、遊牧の民であったことは明らかです。で、当時、中原の北西の辺縁に住んでおりました。

で、当時の都市国家であった「商=殷」にいじめられていたようで、奴隷としてこき使われたり、祭祀の際には人身御供として首をはねられて神に捧げられていた証拠も残っています。


「釣れますか?」
    などと文王
       そばにより


の川柳で有名な太公望呂尚(たいこうぼう・りょしょう)ですが、元は羌族の出身であったようです。
で、恨み重なる商ですので、周による商の滅亡の際には大いに働き、戦功により現在の山東省の地である斉(せい)の国に封じられます。

その斉の首都が、先に述べた臨淄(りんし)です。
当然、一族郎等引き連れて移住したことでしょう。

となりますと、先のDNA 分析結果との整合性を考えると羌族は欧州系の連中であった可能性がありますが、現在の羌族(チャン)はチベット系の民族です。

では古代の羌族は?また歴史上の羌族と現在のチャン族とは同じ連中か?
などと様々な憶測が生じます。

「当時の羌族はトカラ語を話す西域由来の連中であり、羌の文字は現代中国語ではチャンと発音されるが古代ではクランと発音されたのであり、クランはトカラ語では「二輪馬車で行く」の意味であり、なんだかんだで元々は欧州系の連中であった」という説もある一方で、羌族自身の伝説や歴史書、あるいはその後の展開などから当初からチベット系であったという説も有力で、本当のところは分かりません。

本質的には、mtDNA 分析結果と羌族とを無理に結びつける必要はなく、単に、春秋戦国の頃の混沌とした時代、東西南北の様々なDNA を持っていた連中が中原を巡って争い、文化とDNA の混交がこの時代に大いに生じた、と捉えておけばよろしいかと・・・。


最後に、例の「ヒスイの目を持つ女神の面」ですが、目を青いヒスイで表現したからといってそのまま欧州系だ!というのもなんなんでは?とも思います。
もしもその連想が許されるなら、有名なアステカのヒスイで作られた王様の面を見て「古代アステカの王は緑色の肌をしていた!」とか「青汁の飲みすぎだ!」とか「アステカの王は緑膿菌による敗血症で死んだのだ!」とか言ってもよいかと思います。

ヒスイの面.jpg
メキシコ遺跡の旅 岩田穆(あつし)氏より http://www.ai-l.jp/HtMexico/chap6bodyindex-Mexico.html


でも、くだんの女神像は、ヒスイの象嵌だけでなく、造作からも、やはり、欧州人を模したものだと思います。
というのは、目だけでなく、鼻根部の形状が北方型モンゴロイドとは根本的に異なる作りになっているからです。女神像は、明らかに、欧州人の碧眼と鼻根部に強い印象を受けて作られたように思えます。

今の時代でも、時々、そのようなインパクトに絡め捉えられて、たくさんのお金を支払ってまで自分の顔を作り直すヒトがいますが、大概成功せず、どうにもならない結果に陥るのが多いみたいです。

くだんの女神像を見つめていると、センセは、昭和30 年代にパンチの効いたヒット曲をとばし、さらに40 年代にもヒットを放って一旦返り咲いたけれども、その後に色々作り直した結果、今がある、というあの方、を、思い出してしまいます・・・。


こうざんぶんか-1.jpg
● さんの面・・・かな?







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