喜源テクノさかき研究室: 2019年2月アーカイブ

今月の書評-49

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縄文時代の幕開けが大体今からおよそ1 万年前くらいとして、丁度その頃に最後の氷河期が終了を迎え、時代は温かくなりつつありました。

現在では典型的な北方型モンゴロイドの形質を示すC2 のハプロタイプを持つ連中ですが、氷河期の最中、その数は少なかったようです。
また、驚くべきことに、当時のC2 の連中は、ことさらに「朝青龍」のような顔立ちではなかったことも指摘されています。

要するに、最終氷河期が終了して気候が温かくなり始めたころになって初めて彼らは数を増やし、典型的な北方型モンゴロイドとなって勢力を拡大し始めた、というのが真相のようです。そして、その要因となったのがトナカイの家畜化であった可能性があります。
実際、現在のツングース民族には「オロチ」だの「オロチョン」だの「オロッコ」だの似たような名称が多いわけですが、これ全て「トナカイ」に関連する名前です。

で、氷河期が終了し、あのマンモスも絶滅しつつある状況で、トナカイの遊牧を発明した連中が生き残り、北東アジアで勢力を拡大した、ということなのでしょう。

因みに、飽くまでも大型獣の追っかけを追及した連中が、アメリカ大陸に渡った人々なのかも知れません。

となりますと、「朝青龍」のような典型的な北方型モンゴロイドの形質は、事によると、トナカイの家畜化と関係があるのかも知れません。以下、おなじみのセンセの妄想です。

北方型モンゴロイドに典型的な形質である短躯、一重瞼、平たい顔面、小さな鼻、薄毛、乾燥した耳垢などなど、これらが極寒~乾燥の環境への適応であることに合理的な矛盾は感じませんが、なぜこれらの適応がマンモスを追っていた氷河期の真っ最中には生じず、氷河期後に生じた可能性があるのか。


センセのお答え

「寒気に暴露する時間がむしろ増えたから!」


トナカイ-2.jpg
RUSSIA BEYONDより https://jp.rbth.com/society/2016/09/22/632145
朝青龍のお母さんと子供の頃の朝青龍。     ・・・ではありませぬ。


要するに、大型獣を狩猟する場合は、仕留めたら オ・シ・マ・イ。
夏場に一頭のマンモスを仕留めれば、たらふく食べた後は乾燥肉にする。
これで冬場でもOK 牧場!
冬は、マンモスの糞を乾燥して作った燃料を燃やしながら寝て暮らす。
くさいけど・・・。

一方でトナカイの飼育はそうはいかない。
毎日世話をしなくてはならない。
そのために、そりも発明!
そりに乗って厳寒の大気に身をさらす厳しさよ!!!
耳はちぎれ、鼻ももげる。
湿った耳垢を持ってたヤツは耳の中が東証一部上場。
じゃね~よ!凍傷にかかって大変だ!

北方型モンゴロイドの特徴の一つは、歯が大きいこと。
シノドントと呼ばれる、シャベル型の歯だ。
連中、トナカイの皮をなめすため、毎日毎日かみかみしなくちゃならない。
スンダドント型の小さな歯ではやってらんない。
あごも丈夫になって、あご筋が通るエラの部分も張り出したニダ!


実際、世界的にみても、稲作や畑作が発明されると人口も増えるようになりますが、人々はむしろ重労働に携わらなくてはならない羽目に陥ることとなります。
動物の家畜化に成功することで人口も増えましたが、動物の生活パターンに自らを合わせなくてはならない生き様に陥る結果ともなりました。

これは現代でも同じで、満員電車に揺られて2時間もかけて通勤する生活を数万年も送れば、人類は満員電車に適合するようなスリムな体系に変化するかも・・。

今から楽しみですねっ!






今月の書評-48

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さて、日本列島でご先祖さま達が縄文の春を大いに満喫していたころ、大陸では様々な動きがありました。まずは旧石器時代の東アジアのホモサピエンスの拡散からお話して、弥生人に至る流れに持っていきたいと思います。

今月の書評-37」でもお話したように、YDNA のハプロタイプを追っていくと、縄文人のD を持つ連中が真っ先に東アジアに到達したことが分かります。今から大体4 万年くらいです。
その後、3 万3000 年くらい前に、C のハプロタイプを持つ連中が、東南アジアのスンダランドから各地へ拡散し始めました。一部はオーストラリア大陸へ、他の一部は中国大陸を北上し、満州~シベリア地方へと広がり、その後、さらに一部がベーリング海峡を通って北アメリカ大陸に到達します。

下の図はC タイプの拡散図です。アジアではシベリアに集中しています。
図は、現在のC の分布であることにご注意ください。

YDNA C.jpg
さらに4 万年くらい前にON が分岐し、2 万5000 年くらい前、今の四川省あたりからアジア各地へ広がり始めました。

下の図の紫色がO のハプロタイプ。水色のN がそこから派生しているのが分かります。満州からシベリアのアムール川にかけて、C3 (現在ではC2 に分類)が広がっています。

C and O and N.jpg

さて、常日頃からこのブログを読んで下さっているIQ のすこぶる高い皆様方としてはすでに明らかとは思われますが、このC2 (上図ではC3 と表示)のYDNA を持っている連中が現在のツングースやモンゴル人などの典型的な北方型モンゴロイドを代表する人々であり、O の中でもO2 (上図ではO3 )のタイプを有している連中が、現代中国の主流を成すいわゆる漢族を代表する人々です。

では、N とは誰のことだ?

このN のハプロタイプを有する連中は、実は極めて興味深い足跡をユーラシア大陸に残した人々なのです!彼らに関しては、また後程に・・・。



今月の書評-47

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さて、日本列島最古の水田跡が、佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡。紀元前930 年頃のものと言われています。今からおよそ3000 年前のものですね!
その次に古い水田跡は、あの有名な博多の板付(いたづけ)遺跡から出土。ここからは水田跡以外にも、環濠集落や甕棺、青銅の矛と剣など、弥生時代を彩るものが数多く出土しています。菜畑遺跡も板付遺跡も、当然ながら、北九州です。

菜畑遺跡.jpg
菜畑遺跡 Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1


で、いきなりの水田談義で始まった今回のブログですが、弥生時代開始の合図が「水田耕作の開始」と定義されますので、やはりここから始めなくてはなりません。
で、「今月の書評-32」でも指摘しましたように、すでに縄文時代においても「農耕」は存在していたわけで、しかも、米作りすら行われていたのも確実視されています。

Q:じゃ、縄文時代の米作りをもってして弥生時代の始まりだ!
   とは言えないのはなぜか。
A:それは、縄文時代の米作りは水田耕作によるものではなく、
   陸稲(りくとう=おかぼ)によるものだからです。

Q:じゃなぜ、水田耕作をもってして弥生時代の定義とするのか?
A:それは、水田耕作による稲の栽培法というものが縄文式陸稲栽培とは
   大きく異なるものであり、それが北九州に現れたことから、
   縄文文化とは全く異なる文化を有する連中が、
   半島を介して、
   この時期に日本列島に出現したことを意味するものだからです。

事実、水田耕作に伴う様々な付帯物(土器、石器、その他)もまた従来の縄文式とは全く異なるものであり、さらに、出土する人骨の形質~DNA の特徴もまた、縄文人とは大きく異なります。
そして、これらの新しい文化をもたらした連中は大陸由来であり、その後に日本列島を席巻した結果、現在の日本人が出来上がったというのが結論です。

で、なぜ分かり切ったようなことを今更ながらにクドクドと述べているのかと言えば、「現代日本人は縄文人が直接に進化して生じたものであり、我々が話す日本語は縄文語が進化したものであり、稲作は日本で発明されて朝鮮半島に伝えたものであり・・・・・。」とか言う連中が、数は少ないとはいえ、未だにいるからです。
あるいは逆に、戦前の国家史観の反動からでしょうか、朝鮮半島における古代日本の影響力を全く無視するような見解も見られます。

弥生時代を調べ始めると、必然的に朝鮮半島との関連が非常に重要であることに気づきます。その時、現代の国家~民族~国境を念頭においてイメージすると、大きく道を誤ることとなります。ましてや政治的~思想的~感情論的な視点からの解釈の結果、事実が捻じ曲げられる可能性すらありますので、センセも大いに気を付けたいものだと思います。

今回はこれまでっ!



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