喜源テクノさかき研究室: 2019年4月アーカイブ

今月の書評-57

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大型連休も4日目に突入した本日は、平成最後の日でもあります。

一昨日は、今年初の林道を気合を入れてセローで走ってきました。
おかげさんで太ももバリバリ・・・。未だ痛みが引きませぬ。
で、本日は小雨も降ってるし、大人しくブログの更新に励みたいと思います。



世界史の授業で必ず習う「殷墟」ですが、数多くの殉葬例などと並んで印象に残るのが、「戦車」の遺物です。因みに、センセが若いころは殷は殷でしたが、最近では国としての殷は「商(しょう)」と読み書きするのが普通になってますので、以降、商と書きま商。殷墟は殷墟です。

殷墟-1.jpg
中国バックパッカー観光旅行記より //beibaoke.info/henan2014-3/   

 
この時代の戦車は二頭の馬に引かせたもので、車体には御者一名と戦士2~3 名が乗りました。一台の戦車に対して歩兵がおよそ100 名程度付随し、乗(じょう)と呼ばれる一つの攻撃単位を構成しておりました。

戦車上の戦闘員は、弓または矛(ほこ)とか戈(か)とか戟(げき)とか呼ばれる武器を装備しておりました。矛は槍に似た刺突(しとつ)用の武器で日本人にも分かりやすいですが、戈と戟は日本人にはなじみのない武器だと思います。

中国の武器.jpg三国志武器マニアより //blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50203727.html


矛とか.jpg
これは矛と戟 中国のヤフオクみたいなところから引っ張ってきました。http://pai.sssc.cn/item/128545


戈と戟は、戦車上の兵士が相手方の歩兵をなぎ倒したり、または相手の戦車上の兵士を絡めとるための武器です。日本の戦(いくさ)では戦車は全く登場しなかったので、これに類する武器もありませんでした。
似たようなものとして(日本の)戦国時代の十文字槍がありますが、用途が異なります。



で、ここでは戦車や武器の話をするのではなく、これがどこから来たのか、というお話をします。

戦車の発明の前には馬車の発明があったのは明白で、馬車の発明の前に車輪の発明があったのも明白です。
車輪の発明の前には「コロ」があったのも明らかだと思いますが、コロから車輪への発想には大きな段差があると思います。

土器を作る時の「ろくろ」が車輪に転じた、という説もあります。

もちろん本当のところは分かりませんが、車輪はおおよそ紀元前5000 年くらい前にメソポタミアで発明された、というのが一般的な見解です。
車輪の発明=荷車の発明でしょうから、当初はメソポタミア地方で牛やロバなどに収穫した小麦などを引かせていたのでしょう。

一方、今月の書評-55」でお話したように、紀元前4000 年くらい前に南ロシアで馬が家畜化されました。当初は食肉用として飼っておりましたが、そのうち荷車を牽引する動物として使われるようになり、さらには馬車を用いて戦(いくさ)をする発想が生まれた、という流れは自然だと思います。
この場合、南ロシアから中央アジアにかけての広大なステップが、このような発想をもたらす要因であったのも明白です。

その後の欧州系の拡張に伴って、馬と馬車、あるいは戦車、というハイテクが、ユーラシア大陸全域を席巻するようになります。下図はウイキからです。

戦車.jpg
チャリオット(古代戦車のことです)の伝播 数字は紀元前


ここで大事な点は、南ロシアから中原に至る道がひどく「風通しが良い」点です。後のシルクロードに相当する地域ですが、いまだO2 (漢民族)も多くの部族の一つにすぎなかった時代、欧州発のハイテク技術だけでなく、言語やDNA などの流入~混交も相当あったとみて間違いない、と思います。






今月の書評-56

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大型連休目前!新元号も目前!

ソメイヨシノが花を落としつつある一方で八重桜はいまだつぼみのまま、という状況の坂城ですが、みなさまいかがお過ごしですか?
大型連休中、センセは、すがすがしい新緑に覆われる坂城の里山のバイク巡り~登山を計画しています。

相変わらずのパターンですが、これぞまさに灯台下暗し!

渋滞の高速道路を這う這うの体で抜けて目的地に到着したかと思えば今度は多くの人出でごった返す観光地で過ごすパターンの ordinary people の休日と比べ、充実感の次元が違うと考えるセンセです。



さて、今からおよそ1 万年前に終わった最終氷河期から数千年にかけて、カンブリア爆発の如く、その後の歴史時代を彩る数多くの民族が誕生しました。
この時点ではいまだ特段に卓越した連中もなく、中国大陸においては、図で示したように、大変大雑把ではありますが、このようなカンジで割拠しておりました。

古代アジアの民族分布.jpg

ここで大事な点は、後の時代に大拡張を遂げる(現代でも進行中)YDNAO2 を有するいわゆる漢民族もまた、その他の連中と大差ない一部族に過ぎなかった、という点です。
彼らを取り巻く様々な民族の中には欧州系の連中あり、チベット系の連中あり、さらにはトルコ系~モンゴル系~N 系(電車じゃありませぬ)~オーストロアジア系~ツングース系に加え、朝鮮半島南部には、恐らく、というか確実に、縄文系の連中までおりました。従いまして、たやすく想像できますが、様々な文化が相互に伝達~影響しあったはずです。そしてまた、そのような文化の伝達に伴って、最終氷河期を経て一旦様々に分化したDNA は、今度は相互に混合の過程を経ていくこととなった、と考えられます。

また一つ考えるべきことは、漢民族が占めていた黄河中流域という地域が持つ利点です。後の世に「中原(ちゅうげん。なかはらではありませぬ)」と名付けられる地域ですが、まさにここを制するものこそが中国全体を制するという、地政学的に有利な地点です。
中原の覇者を目指してその後に様々な民族が覇権を争うこととなりますが、それがもたらす大混乱が日本民族の形成にも大きな影響を及ぼしたと考えるのに、何ら違和感は感じません。

次回は、欧州系のクルガン文化が東アジアにもたらした影響について考えたいと思います。



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