今月の書評-58

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令和元年5 月1 日のブログです。

西暦2000 年、すなわち平成12 年とちょと古いのですが、Molecular Biology and Evolution 誌に、Wang L. らによる大変興味深い論文が掲載されました。


要約すると、

● 中国山東省の臨淄(りんし)という町で、現代の住民、2000 年前の住民の骨、2500 年前の住民の骨から得られたmtDNA を用いて分析を行った。
● それぞれのハプロタイプを比較したところ、三者間で有意差があった。
特に、2500 年前のものと2000 年前のものの間に顕著な差が見いだせた。
● これらを現代のユーラシア各地の住民のmtDNA と比較したところ、2500 年前の住民は、現代の山東省の住民よりもむしろ現代の欧州の住民により近いことが明らかとなった。2000 年前のmtDNA は現代の中央アジアと近かった。

というものです。
上田氏は、最後に、「今月の書評-54」で紹介した紅山文化の「ヒスイの目を持つ女神」にも触れ、ヒスイの青さから、これは欧州系の女性を表した可能性を指摘し、mtDNA の結果と併せ、欧州系の連中が、当時、極東の地にまで進出していた可能性を示唆しています。

この「ヒスイの目を持つ女神」=欧州系説は、他の色々なところでも指摘されています。


さて、馬や戦車、あるいは小麦の伝播など、古代中国に欧州系の影響が及んだことは歴史的~考古学的には既に明らかですので、ことさら驚くべきことにも思えないかも知れませんが、DNA 分析によって生物学的~人類学的にも明らかな証拠が出てくると、これは驚愕的と言ってよいと思います。
また、色々なヒトが指摘していますが、この結果に歴史的推移並びに山東省の地政学的状況を重ね合わせると、この時代に中原で生じていた地殻変動のようなダイナミズムが「倭人」の形成にも深く関わっている可能性が見て取れます。

今月の書評-34」でご紹介した金平譲司氏などは、これらに自らの言語学的研究結果を加えて、現在、ご自身のブログで興味深い成果を展開しつつあります。
(専門的過ぎて、センセはしばしばついて行けませんが・・・)


このような文脈の中でしばしば言及されるのが、羌(きょう)族です(中国読みはチャン族)。羌という文字は「ヒツジにヒト」で構成されており、遊牧の民であったことは明らかです。で、当時、中原の北西の辺縁に住んでおりました。

で、当時の都市国家であった「商=殷」にいじめられていたようで、奴隷としてこき使われたり、祭祀の際には人身御供として首をはねられて神に捧げられていた証拠も残っています。


「釣れますか?」
    などと文王
       そばにより


の川柳で有名な太公望呂尚(たいこうぼう・りょしょう)ですが、元は羌族の出身であったようです。
で、恨み重なる商ですので、周による商の滅亡の際には大いに働き、戦功により現在の山東省の地である斉(せい)の国に封じられます。

その斉の首都が、先に述べた臨淄(りんし)です。
当然、一族郎等引き連れて移住したことでしょう。

となりますと、先のDNA 分析結果との整合性を考えると羌族は欧州系の連中であった可能性がありますが、現在の羌族(チャン)はチベット系の民族です。

では古代の羌族は?また歴史上の羌族と現在のチャン族とは同じ連中か?
などと様々な憶測が生じます。

「当時の羌族はトカラ語を話す西域由来の連中であり、羌の文字は現代中国語ではチャンと発音されるが古代ではクランと発音されたのであり、クランはトカラ語では「二輪馬車で行く」の意味であり、なんだかんだで元々は欧州系の連中であった」という説もある一方で、羌族自身の伝説や歴史書、あるいはその後の展開などから当初からチベット系であったという説も有力で、本当のところは分かりません。

本質的には、mtDNA 分析結果と羌族とを無理に結びつける必要はなく、単に、春秋戦国の頃の混沌とした時代、東西南北の様々なDNA を持っていた連中が中原を巡って争い、文化とDNA の混交がこの時代に大いに生じた、と捉えておけばよろしいかと・・・。


最後に、例の「ヒスイの目を持つ女神の面」ですが、目を青いヒスイで表現したからといってそのまま欧州系だ!というのもなんなんでは?とも思います。
もしもその連想が許されるなら、有名なアステカのヒスイで作られた王様の面を見て「古代アステカの王は緑色の肌をしていた!」とか「青汁の飲みすぎだ!」とか「アステカの王は緑膿菌による敗血症で死んだのだ!」とか言ってもよいかと思います。

ヒスイの面.jpg
メキシコ遺跡の旅 岩田穆(あつし)氏より http://www.ai-l.jp/HtMexico/chap6bodyindex-Mexico.html


でも、くだんの女神像は、ヒスイの象嵌だけでなく、造作からも、やはり、欧州人を模したものだと思います。
というのは、目だけでなく、鼻根部の形状が北方型モンゴロイドとは根本的に異なる作りになっているからです。女神像は、明らかに、欧州人の碧眼と鼻根部に強い印象を受けて作られたように思えます。

今の時代でも、時々、そのようなインパクトに絡め捉えられて、たくさんのお金を支払ってまで自分の顔を作り直すヒトがいますが、大概成功せず、どうにもならない結果に陥るのが多いみたいです。

くだんの女神像を見つめていると、センセは、昭和30 年代にパンチの効いたヒット曲をとばし、さらに40 年代にもヒットを放って一旦返り咲いたけれども、その後に色々作り直した結果、今がある、というあの方、を、思い出してしまいます・・・。


こうざんぶんか-1.jpg
● さんの面・・・かな?







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このページは、喜源テクノさかき研究室が2019年5月 1日 11:04に書いた記事です。

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