喜源テクノさかき研究室: 2017年4月アーカイブ
みなさまこんにちは!お元気ですか?
大型連休目前ですが、坂城もようやく春本番を迎えつつあります。朝はまだまだ寒いけど、日中はホッとするような陽気が続いてます。ソメイヨシノは花を落としてしまいましたが、代わりに八重桜とアメリカハナミズキが満開!ヤマボウシやコナラ~ミズナラ~クヌギの若葉が芽吹きはじめた一方で、ブナの葉っぱはまだお休み、という現状です。
さて、坂城散歩道-9でお伝えしましたように、坂城町をぐるっと取り巻く山々を全て踏破すべく、2月の和合城跡を皮切りに、先週は陣馬平から「のぞき」経由で虚空蔵山まで登ってきましたのでご報告いたします。
今回は昨年買ったセロー250で林道を進み、林道終点で登山靴に履き替えて稜線を走破する段取りです。で、写真はセンセがセローにまたがったところ。勇ましいですね!カービン銃かナンか背負ってそのまま突撃しそうなカンジ・・・。因みに「セロー」って、「カモシカ」という意味。やたらとカモシカに縁があるセンセです。
林道入り口。養護施設のすぐ横にあります。初めは舗装路になってます。
しばらく走るとダート道との分岐点。舗装路をそのまま行くと、太郎山へ。ダートを右に折れると陣馬平(=勝負平)。
ダート入り口はこんなカンジ。水晶林道と比べてメチャクチャ走りやすい。
途中の砂利道。カーブでリヤをグッと踏むとザザッとお尻を振る。これがダートの楽しさ!
林道終点。コブシの花とカモシカクン。ここで靴を履き替える。ジャケットも脱ぐ。その場にそのままおいとくけど、盗るようなヒトも居ないだろ・・・。
登山道入り口。写真じゃ勾配が分からないネ!
すぐに稜線に到達。まずは、前回登った和合城跡方面(西方)へと向かいました。
カタクリの花がちらほら。
タチツボスミレが今を盛りと咲いてます。
クサボケもたくさん咲いてた。右奥はタチツボスミレの群落。
サクラの花も・・・。マメザクラ?かな???
ダンコウバイ?アブラチャン?サンシュユ?遠目からは分かりませぬ・・・。
ヒメオドリコソウの花にアゲハ蝶が!まだ4月なのに!
これはキタテハ(だと思う)。まだ4月だが・・・。
途中に見つけた水たまり。イノシシのヌタ場。
ヒキガエルの卵がたくさんあった。
さらにヌタ場。
イノシシの足跡。
イノシシの落とし物。行儀の悪い連中だこと。まわりには地面を掘り返した跡がたくさんあった。カモシカは良いけど、イノシシとかクマとかに遭遇するのはゴメン・・・。
マツクイムシにやられた赤松が至る所に・・・。マツタケの産地、上田~坂城の被害は甚大です。
前回登った和合城跡を見下ろす。
ここからだと、一の郭、二の郭、三の郭が一目瞭然だ!
ここから引き返し、虚空蔵山方面(東方)へ!
陣馬鳥越山の頂上が目の前。
ここからさらに東へ向かいます。
眼前にそびえる虚空蔵山。その途中に大きくえぐれてるのが、「のぞき」と呼ばれる大堀切。この大堀切を下って、急坂を登るぞ!
「のぞき」最下点からの登り口。階段状になっていて、登りやすい。
・・・と、これがくせもの・・・。
初めは鼻歌まじりで登っていたが、ここからが胸突き八丁・・・。「登る」と言うか、「しがみつく」と言おうか・・・。ま、死ぬことはないとは思うけど、心の準備だけはしといた方が良いと思う・・・。
ようやくの虚空蔵山頂上(標高1077メートル)から坂城方面。春霞がかかって、今ひとつの眺望。
反対側が上田方面。真ん中を走るのが新幹線。
下り道。やっぱり写真じゃ落差が伝わらない・・・。でも、このロープのおかげで大いに助かりました。
お留守番をしていたカモシカくん。コブシの花がきれいですね!
さ、再びセローにまたがって、一路ダートをまっしぐら!明日から新たな実験だ!人生、最高っっっ!!!
本日のルート。赤線が舗装路。青線がダート道。黄緑色が徒歩です。「坂城散歩道-9」の航空写真と見比べてください。
第一研究所から見たところ。
第二研究所のすぐ裏が虚空蔵山。赤線が本日の走破道。次回は「のぞき」から登るのは「除き」、太郎山から頂上を目指します。
本日は「のぞき」で男女三人のパーティと会いました。丁度虚空蔵山から下山途中らしく、這々の体(ほうほうのてい)だったカンジ・・・。また、セローで帰宅の準備をしている時、車が一台林道を登ってきました。聞くと、昆虫の調査をしているとか・・・。みなそれぞれに目的を持って山に登るようですね!
それにしても「のぞき」の大堀切、本当に村上義清が作ったのですかね?あれ、相当の大工事ですよ!当時の坂城の住人だけじゃ無理だから、やはり上田とか塩田平とかの連中も動員して掘らしたのですかね?おまけに当時は山城周辺の木という木は全て切り落としていたでしょうから、大雨が降ったらたちまち土砂災害が生じたのではないのでしょうか?確かに江戸時代とは違って兵農分離が明確ではなかった時代ですし、隣村との争いも頻発していた頃ですから、「強力な領主」は百姓連にとっても大いに必要だったのかと思われますが、それでも年貢はごっそり取られるは、雑兵としてしょっぴかれるは、土方仕事に徴用されるは、山の木は切られるは、敵方が来れば青田は刈り取られて女房子供は人質に奪われるは、端境期には飢えが襲うは、いやはやなんとも大変な時代ではありました。そんな日常であったればこそ、「天下布武」であろうがなんだろうが、どのような手段であろうとも、天下統一こそはManifest Destiny! であったのでしょうね!
連休はさらにこの流れが続く予定です。この一年で、どこまで登れますことやら・・・。ではっ!(クマに遭遇しませんように・・・)