ウイグルの崩壊に伴って大きく西方に拡大したトルコ系部族ですが、
今回は中でも遠くウクライナ方面まで展開した連中のお話をします。
匈奴の西走前にはすでにブルガール族がこの地に移住しており、
匈奴がこの地に来た時にはこれに加勢し、欧州深部にまで侵攻したりします。
その後のアヴァールの時も連中と共に大暴れしてます。
遊牧民の血が騒ぐのでしょうかね WWW。
その後 6 世紀頃になってフンやアヴァールの力が弱まると勢力を増し、
大ブルガリアと呼ばれる部族連合的遊牧民国家を形成しますが、
程なくボルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールなどに分裂して
南北にそれぞれの国家を形成。
アゾフ海周辺に残った連中は、
7 世紀頃に東方から来たハザール族に圧力をかけられ、
多くがハザール可汗国に吸収されていきます。
ボルガ・ブルガールはその後のモンゴルの侵攻により滅亡。
一方、ドナウ川を渡って南下し、
現在のブルガリアの地に進攻したドナウ・ブルガールは
この地を支配していたビザンツ帝国(東ローマ帝国)と戦ってこれを奪い取り、
先にこの地に侵入していた南スラブ人を支配して
ここにブルガール・ハン国を打ち立てることに成功しました。
西暦 680 年のことです。
彼らは 9 世紀にはキリスト教を受け入れ、また、
南スラブ人とも同化を繰り返した結果、現代では、
外見的にも遺伝子的にもほとんど欧州人そのものとなってます。
隣国のマケドニアと非常に近い関係にあるスラブ語を話し、
キリル文字を使うなど、
センセのブログを読まない限りは
元々トルコ系であったことなど夢にも思われぬ人々です。
YDNA の C2 もほとんど認められませぬ・・・。
琴欧州関 ウイキより
元々はトルコ人でした。
いや、より正確に言うと、ご先祖はトルコ系の方々でした。
いや、よりもっと正確に言うと、ご先祖の中には
トルコ系の方がいた可能性も 0% ではありませぬ・・・、
ということかな?
そのブルガール族を駆逐したハザール族ですが、
以前に述べたように、フン、ブルガール、ハザールは
トルコ系の中でも言語学的に近い関係にあると考えられてます。
で、フンの後にこの地にやってきたハザール族ですが、
突厥、特に西突厥=オンオクの力が優勢だった頃は
これの支配下にありましたが、
オンオクの力が緩むと支配から脱却し、先にお話したように、
ウクライナ方面のブルガール族に圧力をかけるようになります。
ハザールは「敵の敵は味方」的な力学関係によりビザンツ帝国と友好的で、
婚姻関係まで持ちますが、
ウクライナのブルガール族や、
その北方のキエフ・ルーシの連中との度重なる戦闘の結果、
7 世紀末にはウクライナからコーカサスにまたがる大国家の建設に成功します。
ハザール可汗国に関して大変興味深い点が、
宗教としてユダヤ教を採用した、という点です。
現代のイスラエル以外に国家宗教としてユダヤ教を採用した国は、
歴史的に例を見ることはできません。
ゼレンスキー大統領は、この時の子孫なんでしょうかね?
8 世紀になって彼らはアラブのウマイヤ朝に一度敗れたため、
一時的にイスラム教を受け入れたのですが、
なじかは知らねど、時の可汗はユダヤ教を受け入れ、
これに倣って(ならって)ハザール貴族はユダヤ教徒となり、
9 世紀には国教として制定されたようです。
但し、一般民衆の間ではイスラム教が浸透していったらしいのですが・・・。
この頃にはノルマン人がバルト海から現在のベラルーシ~ウクライナまで進出。
キエフ・ルーシ国を打ち立てて交易圏を拡大し、力を増していきますが、
ハザールはこれと一進一退の激しい戦闘を繰り返した結果、
965 年、スヴャトスラフ1世により敗北を喫し、
国家としては消滅することとなります。
ハザール・カガン国の版図(650年頃が赤、750年頃が橙、850年頃が薄い橙)
ウイキより
ハザールの武人は非常に勇猛であり、
また、軍律厳しく、
敵に後ろを見せて退却するものは死罪!
指揮を執る者でも、
後ろに退く者は家族~私財を没収された、とのことです。
鎖帷子(くさりかたびら)を身をまとい、
とんがり帽子の鉄兜と鉄製の面をつけて戦った、とのことです。
さて、肝心のウクライナは現在どうなっているのでしょうかね?
さっぱり情報が入ってきませんが・・・。
例の春季大攻勢の準備は進んでいるのでしょうか?
対するロシアはセンセの教えに従って
幾重にもわたる堅忍不抜の対戦車壕の構築に余念がないように思われます。
ある種、不気味な静けさです。
さて、突厥を滅ぼしたトグズ・オグズのウイグル可汗国ですが、
当初は唐とも良い関係を維持するだけでなく、
単純な遊牧民の集合体以上のしっかりとした体制を作り出し、
突厥文字やソグド文字の影響を受けて独自の文字を生み出し、
宗教としては従来からのシャーマニズムを捨てて
キリスト教や仏教の影響を受けて成立したマニ教を信仰するなど
文化的にもナカナカ立派な国家を作り上げることに成功しました。
これが北方のキルギス族の猛攻を受け、滅亡してしまいます。
西暦 840 年のことです。
9 世紀頃の状況。
トグズ・オグズは分散し、一部は唐への帰順を求めるが、
唐はこれを拒否!消滅のやむなきに至る・・・。
一方で一部は吐蕃方面を目指して甘州ウイグルとなり、
一部は西走して天山ウイグルとなり、
一部はさらに西走してカルルクに吸収される。
このようにしてトルコ系のウイグル人が故地より拡散して行くわけですが、
この時、他のトルコ系の連中の多くもまた、
ところてん式に西方に押し出されていきます。
その結果、もともとは欧州系の地であった中央アジアは
今やトルコ系の連中が数多く住まう土地となり、
トルキスタン=トルコの土地、という名称で呼ばれるようになりました。
で、ウイグル族を追いやったキルギス族ですが、
これがなかなかユニークな連中で、もともとは欧州系の部族です。
彼らの YDNA のハプロタイプは、
現在ですら R1a が 60% 以上を維持しています。
R1a ということは、元はイラン系かと思われます。
ということは、ことによると、サカ~スキタイの末裔の可能性もあるかと、
個人的には妄想してしまいます。
そもそもはモンゴロイドであったが、
その後にイラン系が多く住む地に移住した結果
R1a が優勢となった可能性も無きにしも非ずではありますが、
中国の歴史書にも欧州系の特徴であったと記されていることから、
やはり、もともとは欧州系の連中だったはずです。
古くはバイカル湖畔辺りに住んでいたわけですが、
その後、ジンギスカンのモンゴル族に従属した結果、
現在のカザフと中国に挟まれた地域に住まう形となりました。
現在のキルギス人は、従いまして、
モンゴル系と欧州系の混合的な顔立ちとなってますが、
本来的にはゴリゴリの欧州系だったと考えられます。
で、言語としてはトルコ語を話してます。
キルギス族がいつ頃からトルコ語を話すようになったのかは分かりません。
バイカル湖周辺で生活するためには
周りのトルコ系の連中と上手くやっていかなくてはならないため
その頃にトルコ語を取り入れたのかも知れませんし、
あるいは比較的新しいのかも知れません。
いずれにしましても YDNA の R1a の多くを維持しているということは、
言語や宗教などの表層的な文化を変えつつも、
部族の父系としての血脈的なまとまりは、
今に至るまで維持されてきたことを意味します。
この点、「今月のウクライナ-99」の図に登場するヤクート人と同じです。
ヤクートの場合は遼河文明の N 系ですが、キルギスの場合は R1a です。
両者ともにトルコ部族の影響により、トルコ語を自らの言語としています。
現在ではキルギス人はイスラム教を信仰し、
言葉はトルコ語を話し、
顔立ちは欧州系とモンゴル系の混合的であるなど、
多かれ少なかれ、中央アジアの他の民族とあまり変わらないカンジですが、
この地域の数多くの民族の由来を調べていくと、
そのそれぞれが誠に多彩な過去を有していることに驚かされます。
これは現在のコーカサス山脈に住まう数多くの民族にも適用されます。
コーカサスの少数民族の由来を見ていくと、
このブログで過去に登場したアランとかフンとかアヴァールとか、
あるいはその他その他その他とか、
こういう連中の末裔であると思われる連中がゴロゴロいるようです。
みんな顔立ちはすでにどれも似たようなカンジにはなっているわけで、
アジアの東の果ての住民から見れば区別なんぞは全くつきませぬが、
一旦連中がしゃべりだすと一つ一つが全く異なるということで、
これらが北はロシア、南はイランとトルコに挟まれて身動きも取れず、
なるほど紛争が絶えぬのも無理はアルメ~ニア、
などと考えてしまいます・・・。
またまたへんちくりんなオトコが現れて奇妙なことを仕出かした。
幸いなことに 2B 弾レベルであったが、
もう少し知能が高くて本気のホンコのオトコであったら
非常にヤバイ状況であった。
世情が風雲急を告げるような時代であったなら
そのような行為が生じる可能性はゼロではない、
という点においては理解もできるが、
現状の日本国はそれには程遠い状況だ。
・・・少なくとも現在は。
G7 を構成する近代的民主主義国の一つであるこの国の総理大臣を
どうにかしたところで何だというのだろうか?
何か変わるとでも思っているのだろうか?
本当に革命的に何かを変えたいのであれば
常日頃から「AB 独裁政権ガー!」とか言っていた
現行の「日本革命党」にたくさん票を入れて
第一党にしてあげればよいだけのはず。
それがいくら頑張っても第一党になれないのであれば、
そこには立派な理由があるはず。
ま、非常に数は少ないけれどもおかしな連中は常に一定数いる、
というだけのお話なんでしょうけど・・・。
それにしても紀州和歌山の雑賀(さいか)の衆、ヤバイっす!
SP に先んじて赤が強烈なヘッドロック!
これに続いて青が加勢!
ここで勝負あったわけであるが、その後ノコノコと緑が WWWWWW。
緑はね ・・・WWW、ちょっとね ・・・WWWW。
お電話もされなかったようだしね・・・WWWWW。
さて、中央アジアにトルコの名を冠たるものとしたアシナ氏の突厥であったが、
ご多分に漏れず内紛から分裂し、
その後はトクズ・オグズなどの従属部族や唐の攻勢により消滅。
西においては突騎施(テュルギシュ)族のような連中が一旦は引き継いだが、
カルルク族によりこれも滅ぼされる。
9 姓のオグズの中でも最も強力であったウイグル族が程なく主導権を握り、
ここにウイグル可汗国が生じたことは「今月のウクライナ-94」で述べました。
8 世紀から 9 世紀の状況。
カルルクとパシミルは 9 姓ではないが、9 姓とは同盟関係にあったようだ。
マジャールはトルコ系ではない。
キルギスは本来はトルコ系ではないユニークな部族。そのうちお話します。
751 年、イスラムのアッバス朝と唐の軍隊が戦った有名なタラスの会戦では
当初、唐側についていたカルルク族がアッバス側に寝返ったために唐は大敗!
その後、カルルクはイスラム化して行きますが、そのうちお話します。
この頃、満州あたりで頭角を現してきたのが契丹(きったん)。
これもそのうちお話します。
だんだんこうやって、トルコ系の連中が中央アジアに拡大して行きました。
バフムトですが、
ロシアが川を渡って中心部まで突破してきたとか、
あるいはゼレンスキーが退却をほのめかしているとか、
色々情報が流れてきます。
反対に YouTube などでは塹壕内のロシア兵に対する
ウクライナ戦車による凄惨な、文字通りの蹂躙シーンなども流され、
相変わらずどちらが優勢なのか、皆目分かりません。
この戦車による蹂躙シーンですが、
ノモンハンでの日本兵もかくやと言わんばかりの凄惨なものですが、
見ていて気が付くことには、
塹壕、あるいはタコツボって、やはりそれ相応に効果的な防御法なのだな、
ということです。
ウクライナ側の戦車、たぶん T72 だと思いますが、
近距離から塹壕に向かって水平~伏角(ふかく)の射撃をするわけですが、
これがナカナカ当たらない。
ほんの 10 数m くらいの近距離ですから目視で照準するのでしょうけど
撃っても撃っても塹壕内に直撃せず、
手前の土饅頭に当たったり、あるいはオーバーしたりで難しそう・・・。
塹壕内には数名のロシア兵が右往左往するわけですが、
一回の射撃が済むたびにぞろぞろ動き出し、
時には反撃のつもりで手榴弾なんぞを投げてくるのですが、
如何せん、戦車には通用しない・・・。
あの状況ならば、ロシア兵にパンツアーファウストの数本、
あるいは日本軍の対戦車アンパンでも良いからこれの数枚でもあれば、
ウクライナ側の戦車を頓挫させられたはず。
ウクライナ側の戦車は当然、榴弾を発射しているのでしょうが、
やはり戦車支援の歩兵部隊を同伴させて擲弾筒でも打たせるとか、
あるいはナンカもっと塹壕用の効果的な方法があるような気がする。
例えば火炎放射器とか、あるいは空気より重い気体を流すとか・・・。
あ、ヤバイ!頭がヤバイ方向に向かってる!
フリッツ博士もこの流れでひらめいたのだろうか???
ヤバイっす!!!
ここで止めるっす!!!
さて、6 世紀になると、
これまで N 系の柔然に首根っこを押さえられていた突厥部族が勃興し、
柔然を滅ぼしてしまいます。
一部西走した柔然残党は、これも西に拡張した突厥にさらに追われて
再起の場を欧州に求めることになりますが、
ここら辺の事情は「今月のウクライナ-81」以降を読んで下され!
突厥こそは、トルコの名をアジア全域に幅広く知らしめた連中であった。
「今月のウクライナ-85」を参照のこと。
で、仲間割れから東西に分かれたり、一時は衰亡するけどまた復興したりで
色々忙しい突厥帝国ではありましたが、
ともかくも、トルコの名はこの時に世界中に広まった、
同じような言葉を話す連中をひっくるめて「トルコ」と呼ぶようになった、
本来はトルコ部族ではないトルコ系の連中もまた、
これ以降、トルコの威勢にあやかって、
「自分たちはトルコである!」との意識が芽生える切っ掛けとなった、
と、個人的に考えてます。
突厥を打ち立てたのは阿史那(あしな)氏と呼ばれる氏族で、
この時代のトルコ系やモンゴル系の戦闘的遊牧民に特徴的なのですが、
非常に有能かつ強力な個人が生まれて一気に部族を統合し、
勢いに乗って周りの同族を統合し、
さらに異なる民族を征服して大帝国を築き上げると
その氏族が正統派の貴種となり、
その後はその貴種の系統が尊重され、
可汗として引き継がれるが、
程なく内紛により分裂し、
消滅してしまうという・・・
同じパターンが繰り返されます。
ま、戦闘的遊牧民に限らず、どの時代でもどの地域でも
基本的には同じようなパターンで興亡する国家も多いわけですが、
これが大きく変わるためには
近代的民主主義国家の登場まで待つ必要がありました。
その近代的民主主義の原則を大きく逸脱し、
よくも悪しくも、あるいは悪しくも悪しくも、
個人的力量に頼った戦闘的遊牧民的統治法を再現した結果、
現在のロシアがある、
とも言えるかと思います。
アジア大陸ハートランド国家の宿命なのかも知れませぬ・・・。
先日フィンランドが正式に NATO 加盟を果たし、
新たな頭痛の種が増えたプーチン氏ですが、
ご自分で播いた種ですので、
今後の刈り取りをよろしくお願い致します。
豊作をお祈り申し上げます WWWWW。
ウクライナの反転攻勢に関して、
専門家の意見は一致しているようです。すなわち、
「ホントのところは分からない」、ということです。
定法としては南に展開する「クリミア分断説」が一般的ですが、
あまりにも定法に過ぎるので、
「裏をかいて東部ではないのか?」という穿った見方もよく言われます。
ことによると裏の裏をかいてやっぱしクリミアかも知れませんし、
裏の裏の裏をかいてやっぱし東部かも知れませんし、
裏の裏の裏の裏をかいてやっぱしクリミアかも知れませんし、
裏の・・・・・・・・・・・・・
もう止めにします。
さて、トルコとは何ぞや?ということですが、
前回は匈奴の西走によって
トルコ系部族の世界的拡散の第一歩が築かれたお話をしました。
その後は、
モンゴル系(これもトルコと同じく 1 部族由来の名前です)の鮮卑、
その後は N 系の柔然と続きます。
この間、トルコ系部族は、
西に進むもの、南下するもの、故地に留まるものなど色々おりましたが、
故地に留まって中国人に高車とか呼ばれていた連中が
一時的に隆盛となった時期もありました。
前回にお話したように、
高車は、トルコを自称していた可能性のある部族です。
鮮卑の拓跋(たくばつ)氏はその後に北魏王朝を打ち立て、
その後の中国王朝にも何かと影響力を及ぼしますが、
故地のモンゴル高原に現れた柔然によって押される状況となります。
下図参照。5~6 世紀ころの状況です。
カルルクやパシミルなどはトルコ系部族ですが、
自称トルコ族とは異なるようです。
で、この図では、自称トルコ族としては突厥が確実ですが、
たぶん、高車やオグズ、トクズ・オグズなども可能性があります。
高車の右に室韋(しつい)というのがありますが、
これはトルコ系ではなく、モンゴル系のタタール人です。
そのうちお話する予定です。
で、オグズという名称ですが、これが部族名なのかナンなのか、
よく分かりません。
トクズ・オグズのトクズというのは「九、9」を意味するので、
トクズ・オグズは 9 姓のオグズ、という意味なのですが、
「じゃ、オグズってなんだよ?」ということになり、
堂々巡りです。
オグズ部族の伝承ではオグズ・ハーン(オグズ可汗)という英雄がおり、
「おれたちゃ彼の末裔さ!」みたいなカンジで
現在のトルコ共和国のトルコ人(ややっこしいですね!)あたりでも
自分たちの先祖はオグズだ!みたいな認識らしいのですが、
先のトクズ・オグズなどはそれよりも古いので、
これまた堂々巡りとなります。
ウイキでは中央アジアの草原地帯から南下して、
その後はイスラム化した連中、との説明がありますが、
これはオグズの名称の説明ではありませぬ。
一説にはそもそも牡牛(おうし)を意味する言葉で、
この牡牛をトーテムとした部族が名乗り始めた、という話もありますし、
牡牛 + オオカミ + クロテン + クマよりなる怪獣のことだ、
という説もあります。
で、なんでオグズにこだわるかと言うと、
トクズ・オグズ~オグズの流れは、
今後、トルコ系部族の拡散を語るのには欠かせない流れであるからです。
さて、印欧系の連中が中央アジア~北インド~シベリアに至るまで
幅広く展開していた紀元前後ころ、
アルタイ山脈からバイカル湖周辺あたりにいた一群の連中が
歴史の舞台に登場するようになってきました。
匈奴(きょうど、フンヌ)です。
匈奴がトルコ系であるか否かに関しては以前のブログで議論しましたが、
議論というほどのものではありませんが、
ここではトルコ系で押し通します!
で、司馬遷の「史記」の中で匈奴は「匈奴列伝」として取り上げられるなど、
当時の「漢」にとって大変重要なケンカ相手だったわけですが、
ただの一言も匈奴=トルコ、とは述べられてません。
で、この当時、匈奴に従属していた部族のなかで、
丁令(ていれい)と呼ばれていた連中がおりました。
丁令は丁霊と書く場合もあり、また、
勅勒(ちょくろく)と書かれる場合もあり、
また、のちには鉄勒(てつろく)などとも書かれます。
どれも同じくトルコの事です。
さらには、例の突厥もまた「トルコ」の音を文字化したもの、
と考えられてます。
匈奴が広い意味のトルコ系であり、
かつトルコという言葉の初見である丁令は、当時、匈奴に従属していた、
ということから、
トルコという言葉はそもそも一部族を表す言葉であり、
その後はその名前を自称する連中が頭角を現し、
最終的には民族そのものを称する言葉となった、と考えられます。
で、5 ~ 6 世紀には
この地に高車(こうしゃ)という部族が強勢となりますが、
彼らもまたトルコであり、
その名の高車は彼らが用いていた馬車の形状を表す言葉で、
中国人によるトルコの音訳ではなく、
「トルコ」という言葉が持つ本来の意味を表す「意訳」である可能性が
指摘されてます。
それではそのそもそものトルコの意味ですが、ウイキによれば、
古代アルタイ語で「車」を意味する Terek、Telek という言葉が
モンゴル語に取り入れられて Terege、Telegen となり、
これが中国人には丁令、丁霊と聞こえた、という流れとなります。
で、古代アルタイ語で車を意味する Terek ですが、
どこかで聞いたことのある単語ですよね!
そうです、英語の Trek です!
英語の Trek の意味は、「長く骨の折れる旅~移住」ということです。
Trail なども同系の言葉です。
で、以下は皆さまおなじみの、センセの妄想タイム!です。
「トルコ、モンゴル、ツングースは、
もともとは森林でトナカイの飼育や狩猟採集を行っていた連中であった。
当時、
西からはるばる馬車を駆って羊を追って来た欧州系の連中がこの地に至り、
真っ先にトルコの連中がこれに興味をもった。
で、車軸のついた不思議な乗り物を乗りこなす欧州人に対して
身振り手振りでこれは何だ?と聞いたところ、
欧州人は「This is a Trek!」的なことを言った。
トルコ人、なるほど、これはトレックか、俺たちも真似よう!
ということで、馬と車と羊の三点セットを採用した。
すると、これまで生活もままならぬ地であった南の草原地帯であったが、
ここが羊にとってはただ同然の餌場であることに気が付いた。
で、たちまちこれまでの森林生活を捨て、草原の遊牧民となった!
で、その中で、
「♪ おれたちゃトレック、勇者だぜ!」とか言い出す連中が現れて、
中国人がそれを聴いて「お前らは丁令だ!」とか書物に書き記したのだ!」
んんん、我ながら、ナカナカ鋭い妄想だ!

で、匈奴などはプライドが高かったもんだから、
そんな外国語由来の言葉で自分たちを呼ぶのに抵抗があったが、
如何せん、丁令やら鮮卑やら漢やらに痛めつけられ、
西走することとなった。
この時に行動を共にしたのか、
あるいはところてん式に押し出されてしまったのかは分かりませぬが、
ブルガール族、あるいは少し時代が下りますがハザール族などが
カスピ海から黒海にかけて移動して行った。
彼らは自らを「トルコ」とは呼んでいませんが、
トルコ系部族であるのは間違いなく、
しかもこの三者は言語学的には同族である、との説も有力です。
で、時代が下り、自称トルコ族から生まれ出た突厥により、
トルコの名前は大陸において一躍有名となっていきました!
ホントか?!
ここ坂城でもようやくサクラが満開になりましたが、
この季節は、いろいろな移動~変更の季節でもあります。
センセも目出度く 3 月 31 日をもちまして正式に退職の運びとなり、
今後は顧問として、後進の育成にあたる所存です。
31 日当日には新たな論文の投稿も終え、
また、当面、実験~学会発表~論文の執筆も従来通りに行っていく予定ですので
日常としての本質にはあまり変わりがないのですが、
この先は堂々と「疲れたからもう帰ります!」的仕事ぶりとなりますので、
その点、嬉しいです!
但し、一旦実験が始まると、
生活は全て実験スケジュールの下に置かれる形となりますが・・・。
東京の湯島研究室時代から数えて 25 年となり、その間、
主任研究員→室長→所長→社長→所長→顧問という変遷をたどってきましたが、
現在の顧問職が一番体にフィットするのは間違いありません。
今後は顧問タツオと呼んで下され!
今月のウクライナも今日で節目の 100 回!
未だ終わらぬ特殊軍事作戦!
西側からの新式戦車も到着し始めた!
対するロシアは T54 やら T55 やらを博物館から搔き集めつつある!
リンゴの花ほころぶうららかな春のとある一日、
ここに 21 世紀版クルスク大戦車戦が展開するのか?
それともバフムトの七面鳥狩りの始まりか?
さて、遼河文明やら黄河文明やらが華やかなりし頃、
トルコ~モンゴル~ツングースのご先祖さま達は
トナカイを飼ったり、あるいは狩猟採集~漁労をしながら
文明の辺縁に細々と生きていたわけですが、
その頃、西の彼方からはるばるこの地にやってきた一群の人々がおりました。
印欧系の人々です。
彼らは主に羊の遊牧を行い、草を求めて移動する羊たちにあわせて
馬に引かせた車、
すなわち馬車に乗って広域を移動する生活を送っておりました。
まずは YDNA の R1b に属するトカラ系の人々が、
次に R1a に属するイラン系の連中が、
黒海周辺からアルタイ山脈、あるいはモンゴル高原にまで、
中央アジア一帯に、生活域を拡充していきました。
もっと言うならば、より昔の旧石器時代においては、
一部の R はマンモスを追ってバイカル湖畔にまで到達し、
さらには R より派生した Q に至っては大動物を追って
氷で覆われたベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸に到達、
その後に南下し、
とうとう最後には南アメリカ大陸の南端のフェゴ島にまで、
生活圏を大きく拡大してしまいました。
いわゆるアメリカインディアンです。
一部の C2 もアメリカ大陸に進出しましたし、
インディアンの祖先が東シベリアにいるときには
アイヌの祖先と交わった可能性も指摘されてますし、
アジア大陸からアメリカ大陸に渡ったのでインディアンはアジア系、
という言い方も必ずしも間違いというわけではないのでしょうが、
YDNA 的に見た場合、
少なくとも東アジア系の我々とは大きく由来が異なる人々である、
と言えるかと思います。
特に、シベリアを横断してベーリング海峡を渡ってきたにもかかわらず、
立派なわし鼻を顔の真ん中に有しているなど、
形質的にも相当異なります。
一方で、特に北アメリカの草原インディアンの文化などは
シベリアの少数民族のそれと共通点も多く、
文化の収斂進化の結果なのか、興味深いです。
興味深いと言えば、シベリアの少数民族にケット人というのがおりますが、
彼らの Q ハプロは 93.7% にも達し、
言語学的も周囲のアジア系少数民族とは全く異なり、
むしろ北アメリカインディアンのナ・デネ族の言語につながるなど、
間違いなくアメリカに渡る途中で「ここら辺でいいんじゃね?」
とか言って諦めてシベリア住まいを選んだ連中だと思います。
彼らは、現在ではロシアのクラスノヤルスク州に極々少数が住んでます。
YDNA Q ハプロの分布。北部シベリアの中央部がクラスノヤルスクです。
ウイキより
で、ウイキに彼らの写真が載ってますが、
明らかにコーカソイド的な顔立ちをしています。
17 世紀頃にはこの地にはロシア人が入植してきてますから
彼らの血が多かれ少なかれ混じっているのは自然ですが、
YDNA の Q の割合が 93.7% という事実を考えると、
R1 が多くを占めるロシア人と広く深く交雑した可能性は低く、
むしろ形質的にはもともとコーカソイドであった、
と言うのが真相に近いと個人的には思います。
ケットの人々。髪は直毛の黒髪が多いように見受けられます。
どこの部族であろうとも、子供たちは可愛いですね!
ウイキより
アメリカインディアンは元々コーカソイド的形質を有していた人々であったが、
シベリアで過ごしている時にまわりの C2 の影響を受け、
さらにはアメリカ大陸を南下する間に土地土地の気候風土にあわせて
自ら変化を遂げていった人々なのかも知れません。
また、忘れてならないのは、旧石器時代の C2 は、
必ずしも現在のモンゴロイド的特徴を強くは有してはいなかった可能性がある、
ということです。
本日から本格的にトルコ系のお話をするつもりが
どういうわけかインディアンの話に変わってしまった・・・。
YDNA の C2 ハプロの連中と
言語学的に言うところのアルタイ語族とは重なります。
現在では「アルタイ語族」という形でくくられるような関係ではなくって
アルタイ諸語、というほどの関係が適切では?とも言われてます。
言語学者ではないセンセとしては、そんな細かいところはどーでもいいです。
要するに、「近い関係」であるのは間違いのないところです。
で、そうなりますと、トルコ系とモンゴル系とツングース系の三者は
そもそもは同族であった可能性がありますし、
そう考えた方が自然です。
で、最後の氷河期のあと、
ソリやらスキーやらを発明して、
バイカル湖畔から満州~沿海州あたりでトナカイを飼いならしつつも
シベリアの森林地帯ではシカやらテンやらを狩ったり、
川辺ではマスなどを獲ったりなど、狩猟採集に勤しんでいた連中ですが、
時間が経つにつれてどんどん北方アジア系の形質を獲得すると同時に、
言語的には三つの系統に分化していったのでしょうね。たぶん。
で、しばらくすると、
南の方から言語学的にも文化的にも全く異なる連中が現れて
遼河地域で農耕なるものを開始します。
YDNA のハプロ N を有する連中です。
遥か昔に同族であった ハプロ O の連中が
遼河よりも南の黄河流域で農耕を始めるのにやや遅れ、
より北の地で畑作に勤しみ、高度な文化を形成していきます。
今からおよそ 6000 年くらい前の時代です。
ここら辺のことは、以前に「今月の書評」シリーズでも随分と書きました。
「今月の書評-70」あたりから結構長く詳しく書いてますので、
よろしければ、お読みになって下され。
で、農作業に勤しんでいた遼河地方の N クン達ですが、
イノシシやらシカのごとく、
未だ農業を知らない周辺の C2 の連中に畑を荒らされ、
泣く泣く故地を離れてはるか遠く、
地の果てにまで落ち延びていくこととなります。
彼らが落ち延びて行く先がこれだ ↓
真っ先に故地を離れて移動していった連中が向かった先が現在のフィンランド。
たぶん、フィン人の言葉が遼河地方で話されていた言葉に最も近いのでは?
そういうわけでもないか・・・。
その後、
時代が下るとウラル山脈~コラ半島にかけてサモエードの連中が移動。
サモエードの一部はその後さらに西進し、
フィンランド北部に移動してサーミ人となる。
ウラル山脈南部に移動した連中は
歴史時代になってマジャール人と呼ばれ、
その後にハンガリーに移住して教科書的に有名になる。
従ってマジャール人は本来は N 優勢のはずだが、
現在のハンガリー人では N はまれだ。
これは言語が維持されたまま YDNA のハプロが置き換わった例だ。
この先のトルコ系の拡散で広く見られる現象だ。
さらに時代が下ってシベリアのヤクーツクに移動した連中は
すでにトルコ系が優勢な時代を共に過ごしたため、
連中の影響を受けまくってとうとうトルコ語を話すようになった。
でも YDNA 的には N のままだ。
すなわち、部族的には統一を維持したままトルコ文化を受け入れた、
ということだ。
遼河地方に居残った連中が烏桓(うがん~アファン)。
中国の漢からは東胡と呼ばれた連中の一派だ。
これが柔然となってモンゴル高原を一時制覇したものの、
突厥に追われて西に逃げまくり、
そこでアヴァールとなって欧州でアヴァールまくった!
この連中もまた、N なのだ!
現代でも遼河地方からシベリアに点在する多くの少数民族の間では
多かれ少なかれ N が認められる。
最近の言語学者の間では、
倭人の言語は遼河地方の影響を受けている、
あるいは遼河で話されていたであろう言葉の流れをくんでいる、
との説も幅を利かせている。
にもかかわらず、日本人の間では、 N は極めてまれなのだ。
ふっふっふ~・・・。謎の笑い・・・。
WBC の感動も過ぎ去り、
ここ坂城ではソメイヨシノは今週のどこかで満開の予定。
でも、ここ数日は花寒の日々で、寒さと花粉でティッシュが手放せない・・・。
ということで、トルコ系です。
デニソワ系は別として、出アフリカ以降、旧石器時代、
東アジア地域に初めて足を踏み入れたのが、縄文人のご先祖です。
YDNA ハプロタイプの D 系統にあたります。
この YDNA も日進月歩の分野で、
過去ログ「今月の書評-17」を書いていた頃は
縄文人は D2 に分類されてましたが、
現在では D1a2a に分類されるなど、結構頻繁に変わってます。
これでは書いてるセンセも読んでるみなさまも混乱するばかりなので、
今後は適当にあしらって
「 D 系統」などと言い逃れる書き方をしていこうと思ってます。
で、毛むくじゃらの縄文人(のご先祖)でしたが、
彼らが列島に渡ってナウマン象とか追っているうちに、
東アジア地域ではお肌スッキリすべすべ系の連中が大繁殖しておりました。
それが今回以降しばらく続くお話の主題となる
トルコ系、モンゴル系、ツングース系の祖である C2 の連中です。
ここら辺の事情は「今月のウクライナ-96」でまとめられておりますので、
ご一読をお願いします。
で、C2 系の特徴は「今月の書評-49」でお話したように、
朝青龍や鶴竜系ののっぺり顔です。他にも多くの特徴があります。
で、これらの特徴が極寒と乾燥が合わさった地域で生き残るための
淘汰圧によるものであったことは間違いのないところで、
日本人の多くもまた、これらの特徴を多かれ少なかれ有しています。
形質的には(つまり見た目には)、
日本人と、これら東アジアの大陸の人々と
そんなに大きくはかけ離れていないように見えます。
日本人にとっては自分たちと半島や内陸の人々との間の
微妙な違いを指摘することは比較的たやすいかと思いますが、
欧州など、その他の地域の人々から見れば「みな同じ」に見えると思います。
髪かたちや服装、お化粧などを日本人と同じにすれば、
日本人だってそうそう違いを見分けることは難しくなると思いますが・・・。
で、このように外見的には良く似ている東アジア人ですが、
日本人には C2 ハプロを有しているヒトが非常に少ない、という
大変興味深い事実があります。
この先お話する N 系のハプロもまた、日本人には非常に少ないです。
この 2 点は、「今月のウクライナ」シリーズが終わって
再び「今月の書評」シリーズを再開するにあたって
再度お話することとなると思いますが、
日本人、この場合は倭人と呼ぶのがふさわしいと思いますが、
この倭人のルーツを探るうえで非常に重要な点なのです。
また、この先の「トルコ人という概念」を語るうえでも重要となってきます。
以下にその理由を述べていきます。
少し難しいかもしれませんが、ナントかついてきて下され!
暑い地方で淘汰圧を受けた人々はそれに適合した外見を有します。
寒い地方で淘汰圧を受けた人々もまた、それに適合した外見を有します。
両者が温暖な中間地で出会って融合したとすると、
(1+1)÷ 2 の形質となります。話をあえて簡単にしてますが・・・。
で、これを繰り返していけば、
暑い地方からきた連中も寒い地方からきた連中も、
みな同じようなカンジの外見となっていきます。
ここまでは分かりやすいですね!
で、仮にですよ、暑い地方からきた連中の方が力が強かったので
彼らが寒い地方の連中を下に敷く形で融合が進んだとします。
融合が進むので、形質的には(1+1)÷ 2 で同じようなカンジとなります。
ところがこの場合、全てではないが人類史においての大多数の例からいうと、
形質的には同じような外観となったにもかかわらず、
YDNA のハプロとしては、暑い地方の連中のタイプが優勢となるのです!
何故か。
YDNA のハプロは男系を示す指標だから。
そして、
千鶴子センセは発狂するかもしれませぬが、
上で述べた「人類史においての大多数の例」からいうと、
男系の指標を追うことによって、族(ぞく)、
部族でも氏族でも何でも良いのですが、
暴走族は別ですが、
族の系統が明らかとなるからです。
YDNA の仕組みをおさらいしておいて下され!
何言ってるのかサッパリ分からない方々も居られるかもしれませぬので
も少し解説しますが、
上の例で言うと、
暑い地方からきた連中が寒い地方の連中を支配したうえで婚姻関係が進むと、
暑い地方のオトコが寒い地方のオンナの多くを女房にする形となり、
さらに生まれたムスコも同じように振る舞うため、
形質的な融合は進む一方で、暑い地方の連中の YDNA ハプロが優勢となる、
ということなのです。
千鶴子センセは発狂するかもしれませぬが・・・。
で、倭人に戻りますが(倭族というべきかな?)、
倭人が列島に来る直前には半島に居たのは明らかですし、
土器や言語などからも、半島~大陸の影響を大きく受けているのも明らかです。
しかも外見も良く似てます。
ならば、日本人の間には C2 や N がもっとあってよさそうであるにも関わらず、
両者ともに非常に少ない・・・。
その答えは「今月のウクライナ」シリーズを終えて
「今月の書評」シリーズに戻った時点でお話いたします。
本日はこれまで!