今月のウクライナ-86

みなさま、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の 12 月には列島各地に寒波が押し寄せて
ひどく寒い年末を過ごしましたが、
お正月の三が日は雲一つない快晴が広がり、
少なくとも太平洋側では、穏やかで暖かいお正月となりました。

センセは元旦は埼玉の姉の家で過ごすのが恒例ですが、
身内も一人去り二人去り、
年を追うごとに寂しくなっていくのはヒトの常とはいえ、
新たに病に伏す兄弟姉妹もおり、
自らの行方について考える機会が増えるのもこの頃です。

で、早くも二日には帰って来ましたが、
お昼にお雑煮を作って食べてる最中に気が付いた・・・。

!!! 姉の家に入れ歯を忘れてきた !!!

・・・ま、センセの入れ歯は一本だけですので実用とは程遠く、
たいして大騒ぎするほどのことではありませんが、
その昔に年寄りが入れ歯をし忘れたままレストランに入ったとかナントか、
そんな話を聞いて
爆笑していたのが爆笑される立場になってしまったのが何とも言えず・・・。

で、気づいた時点で早速電話して送ってもらうように伝えましたが、
電話の先で先方の家族が大笑いしているのは良いとして、
自分のものでしたらいざ知らず、
ヒトの入れ歯を封筒に入れて送る際のせつなさ、やるせなさというか、
それを考えると、
申し訳ない気持ちでいっぱいになるのも人の情ではありませう・・・。


さて、ウクライナですが、
「厳冬期になったら戦車戦を含む大攻勢がある」との予想がありましたが、
そんなそぶりは微塵もなく、
両者デッドロックに陥っているのが現状です。
東部のバフムトではウクライナが苦戦しているとの情報も、
あるいはロシアが苦戦しているとの情報もある一方で、
ハイマースの攻撃で新兵を含む 100 名近くのロシア兵が一気に吹き飛ばされた、
との新しい情報もあり、どちらが優位なのか、皆目分かりません。
ロシアからのロケットやドローンによるインフラ攻撃は相変わらずですし、
ロシア経済が疲弊しつつあるとの情報もある一方で
抜け穴だらけでピンピンしているとの情報もあり、
これまた確実ではありません。

幸いなことに、欧州のこの冬は例年になく温暖で、
アルプスのスキー場の多くが営業できない状況にあるとのこと。
まだ冬は長いですが、
このまま暖冬が続いてくれればロシア産ガスへの依存度も減り、
電気や暖房が制限された中で暮らしているウクライナの人々にとっても、
少しでも生活の辛さが和らいでくれれば・・・と思います。

それにしても来年もまたこの調子で戦争が継続するとなると
すでにダメージを受けている世界経済への影響もまた継続する訳ですから、
さすがにどこかの時点で停戦交渉への圧力が増してくることは確かです。

で、
ロシアが戦術核を含む核兵器を使わなければ NATO は介入しないでしょうし、
また、その場合はアメリカも射程の長い兵器の提供はしないでしょうから、
第一次世界大戦ばりの陣取り合戦となる可能性があります。

特に東部では!

そうなりますと、ウクライナが東に戦線を拡大すればするほど
これまで弱点とされてきたロシアの兵站線は短くなりますので、
ロシア有利となり、
どこかの時点でウクライナは抜くことができないラインに至ると思います。

たぶん、この時点においてもウクライナの世論、
ならびにゼレンスキー大統領は戦争の継続を主張すると思いますが、
この時点においては西側世界から停戦交渉への発言が相次ぐのでは?
と考えてます。

で、結局、「今月のウクライナ-10」で指摘したように、
現実問題として、
ウクライナは、ある程度、東部地域、あるいはクリミアを、
放棄せざるを得ない形にならざるを得ない、と考えます。

良い悪い、の問題じゃないです。
現実問題~物理的問題としてそうとしか考えられない、ということです。

放棄した東部諸地域~クリミアは、
ロシア側に言わせれば「ロシアに帰属する」ということでしょうが、
もちろん国際的には承認されません。
同時に、ウクライナは、残念ながら、NATO に加わることもできないでしょう。

しかしながら、「今月のウクライナ-10」で指摘したように、
将来的には、あるいは少なくともプーチンが居る限りは、
ロシアはもはや「イランや北朝鮮に毛が生えただけの国家
となるのが宿命づけられているわけですから、
ウクライナは胸を張って「我らは勝利した!」と宣言して可、だと思います。

国際連合は今後さらに混迷の度を深めるのか、あるいは、
これに代わる新たな組織づくりへの言及が生じるのか、あるいは、
取り合えずプーチン政権が倒れたあとのロシアがどうなるのか、
それを看取ったうえで動き出すのか、
見どころ聴きどころ満載の、今後の国際情勢です。



今月のウクライナ-85

さて、突厥です。
突厥は日本語読みではとっけつ、あるいはとっくつですが、
当時の中国音ではチュルクに近く、
要するに、現代日本人が言うところのトルコそのまま、ということらしいです。
突厥の前にも
鉄勒(てつろく)とか丁零(ていれい)とか呼ばれた連中が居ますが、
みなトルコです。音も同じようなものですね。

トルコ人と言えば、今ではイスタンブール辺りで結構幅を利かしてますし、
そこの大統領に至っては
「ウクライナとロシアを仲裁できるのは、このワシだけじゃ」
みたいな顔してますが、
昔は南シベリア~北モンゴル~アルタイ周辺で羊を飼う生活を送ってました。
連中、遊牧だけでなく鉄の鍛造技術に長けていたようで、
おかげで柔然が勢威を誇っていた頃は彼らの「鉄製品製造専門部族」として
顎でこき使われる惨めな生活を送っていたようです。

で、この時代の戦闘的遊牧民国家はみんなそうですが、
強大になって周辺部族を制圧するようになると
これらの部族をほとんど奴隷扱いし、過酷な税を徴収し、
戦闘では戦士として徴用するなど、
「力」による圧制を行うのが常でした。

で、当然反感を買うこととなります。

力が強大であるうちは抑え込むことも出来ますが、
何らかの原因で勢力が衰え始めると、
たちまち一斉に反逆の嵐が巻き起こります。
毎回毎回同じパターンです。学習することを知りません。
もちろん、戦闘的遊牧民だけのお話ではありませんが・・・。

で、5 世紀後半ころには、
トルコ系の高車(トカラ系との説もあり〼)などの部族が反旗を翻した結果、
柔然は彼らに対する締め付けをある程度緩和するようになります。
結果、鍛鉄製造係の突厥は、これまで柔然に収めていた鉄製品などを
中国の西魏などに持ち込むようになり、貿易などで力を付け始めます。

で、その後、土門(ブミン)という名のオトコが柔然の軍と戦って大勝し、
土門は名を伊利可汗(いり・かがん)と改め、
ここに突厥可汗国を打ち立てることとなりました。552 年のことです。

その後、木汗(ムカン)というオトコが可汗となり、
弱体化した柔然にさらにダメを押した結果、
柔然の残党は北斉(東魏の後継国家)に逃亡。
木汗可汗はさらに西ではエフタルを、
東では満州に興った契丹(きったん)を破り、
北では契骨(キルギス)を併合するなど、諸部族を次々と征服!
これにより突厥の版図は満州からアラル海に至り、
ほぼほぼ柔然を踏襲する大国となりました。

結果、柔然は追われて欧州に雪崩れ込むことになったのは、
以前にお話した通りです。

突厥-1.jpg6 世紀の突厥可汗国。  「世界史の窓」様より無断でお借りしました。
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-076.html
有難うございました。





今月のウクライナ-84

今年もいよいよ押し詰まって参りましたが、
年越しのご用意はお済みでしょうか?
昨日はここ坂城でも結構な雪が降りまして、この冬初の雪かきをしました。
10 cm くらいは積もったかな?
おまけにまだ 12 月というのに、今年は真冬のごとく寒いです。
ニュースなどを見ていても、鹿児島や高知でも雪が降ったようですし、
南国の人たち、スノータイヤなど用意していないと思いますので
道路での立ち往生も頻発のようですね。

ですので、昨日は買い物に出かけないで一日中巣ごもりしようかな?
と考えてましたが、逆に、この雪ではことによると物流が滞って
翌日のスーパーは品薄になるかな?と考え直して、
ジムニーの雪を下ろして無理して出かけました。
道は圧雪状態。
スーパーの駐車場はガラ空きでしたので、
いろいろドリフトとかやらかして楽しかったです WWWWW。
(よゐこの皆様はやらかしてはいけませぬ!)
で、お餅やらなんやら、あるいはお年玉の用意やら、
年越しに向けて、準備万端、滞りなく済ませることができました。

で、昨日はクリスマスイブ、ということで、
いわゆるホワイトクリスマスとなりましたが、
この歳ともなると「だからどうした!」ということで、
何の感慨も湧きませぬ・・・ホッホッホ~!

で、ホワイトに因んで、今回は白フンことエフタルのお話を致します。

エフタル、ヘプタル、嚈噠(ようたつ)などなど、
いくつかの呼び名がありますが、
どれも同じです。
柔然~突厥~北魏~グプタ朝~ササン朝などと重なる 56 世紀ころ、
突如として中央アジアに一大帝国を築いた連中です。
由来~出自に関しては色々の説がありますが、
中国の歴史書は「トカラ系の月氏に属する連中である」と述べています。
言語も柔然やトルコ系とは異なるとの記述もありますし、また、
その版図を見ても、大月氏の跡を継いだ連中なのでは?
と、個人的には考えてます。
風俗は典型的な戦闘的遊牧民で、これはどれもこれもみな同じ。
言葉だけが異なります。

で、以下、ウイキペディアより抜粋引用。
5 世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に興り、
周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼして
トハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、
その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、
484 年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど
数度に渡って大規模な干戈を交えた。
さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。」
ということです。引用はコピペで済むので楽ですね!
でもウイキは文章がまるでなってない!のが多いので、
なるべく引用はしたくありません。
上記文はまとまりが良かったので、引用させていただきました。ARIGATO

エフタル.jpg西暦 5~6 世紀ころのアジア  ウイキより
Hepthalite Khanate がエフタル可汗国、
Khanate of the Juan-Juan が柔然、
Sassanid Persian Empire がササン朝ペルシャ、
Gupta Empire がグプタ朝、
Northern Wei Dynasty が北魏、
Southern Qi Dynasty が南朝の斉です。


エフタルは、最盛期にはササン朝の軍を打ち破ったり
グプタ朝を大いに悩ませたりしますが、
558 年には突厥とササン朝とに挟撃され、敗北。
その 10 年後には突厥によって滅ぼされてしまいます。
あっという間大きくなったと思ったら
あっという間滅ぼされてしまうという、いつものパターンではありますが、
中央アジア史では取りあえずは言及しておかなくてはならない連中ですので、
お話しました。逸話としても、話すべきものもあまりないです。

で、なぜ「白フン?」ということですが、
これはインドではシュヴェータ・フーナ (白いフン)、
サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン)と呼んだことに由来します。
白フンのフンは例のフン族に由来するのは明らかですが、
自称として彼らがそう名乗ったのか、
あるいはその凶暴さが、
未だ記憶に新しいフンのそれを思い起こさせるものだったので
周辺の連中が呼んだのか、
それは分かりませぬ。
ここで確かに言えることは、
白フンの白=コーカソイドの特徴を表している、ということです。
これも、彼らがトカラ由来の証拠の一つ、と言えると思います。
これはまた逆に、本来のフン族はコーカソイドではなく、
アジア系であったことを傍証するものです。

エフタル-2.jpgエフタル戦士の想像画  中国サイト、Bai 百科より
https://baike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=703153e253e5a8c87b05f738
戦闘的遊牧民の図、みんな同じ・・・。


エフタルに関してはこれでおしまい。
次回からは突厥~トルコ族の隆盛の始まりをお話し、
その後にイスラム、唐の時代について話していこうと思ってます。

今月のウクライナ-83

W 杯の決勝戦、凄かったですね!
寝てたけど・・・。


さて、西暦 558 年に突然北コーカサスに現れた柔然ですが、
以降、欧州の間ではアヴァールと呼ばれるようになります。
名前の由来に関しましては、前々回にお話しました。

北コーカサスに到達した彼らは、
今月のウクライナ-70」で登場したアランの残党に仲介してもらい、
東ローマ帝国と同盟関係を結ぶなどして勢力を拡張!
ウクライナを経てドナウ川に至り、
フランク・メロヴィング朝とも一戦を交えます。
その後、現在のハンガリーに相当するパンノニア平原に到達し、
567 年にはランゴバルド王国に代わってその地を制圧して、
ここにアヴァール可汗国を建国するに至ります。

アヴァール.jpgアヴァール騎兵軍団の図。
フランクの騎士から奪った兜をかぶっていたり、
欧州人的特徴を持った兵士も居たりで、
アヴァールの特徴を良く表している絵画です。
想像画ですけどね、もちろん。
現代の騎馬では無くてはならない鐙(あぶみ)もまた、
この時代にアヴァールによって欧州に伝わった、
と言われてます。
例によって、中国のサイトから無断でお借りしてきました。謝謝!


以前のフン族もそうでしたけど、アヴァールもまた
欧州唯一ともいえる広大なパンノニア平原に居を構えたということは、
やはり彼らが基本的に遊牧の民だったからなのでしょうね。
この地は後にマジャールの土地となり、現代に至ります。

アヴァール-2.jpg赤がアヴァール可汗国、カスピ海東の薄青が西突厥。 ウイキより
ブルガリア人は、この頃はまだウクライナに留まってます。


そもそも突厥(とっけつ)に追われて欧州にやって来たアヴァールですが、
突厥もまたしつこく、
東ローマ帝国とよしみを結んでアヴァールに圧力をかけ続けますが、
東ローマの方は突厥と組んだりアヴァールと組んだりしてどっちつかず。
しばしばアヴァールに貢納(税を納める事)するなど、
情けないこと甚だしい・・・。

で、時を同じくして丁度この頃、スラブ人もまた移動し始めます。
故地のポリーシャからバルカン半島へ南下する連中が現れ、
アヴァールと共に、東ローマ帝国を悩ませるようになります。
彼らが後に南スラブ人と呼ばれるようになる連中で、
一部はギリシャの地まで南下して行きます。
ナントかチッチとかカントかビッチとか、
色々なスポーツでおなじみですね!
多くの紛争のネタを提供することでも有名です。

アヴァールの侵入がスラブの移動を促したのかどうかは分かりませぬ。

623 年にはアヴァール、スラブ、ササン朝ペルシャの三者が連合し、
コンスタンチノープルを攻撃するに至ります。
東ローマはからくもこの攻撃を撃退し、アヴァールに反撃を開始!
スラブ諸族に加え、当時はウクライナに居たブルガールの連中とも同盟して
アヴァール包囲網を形成します。
791 年にはフランク・カロリング朝カール大帝が軍を進めて
ブルガールやスラブとアヴァール可汗国を挟撃した結果、
9 世紀初頭、アヴァールはついに欧州から姿を消すに至りました。

で、
「今月のウクライナ 80~81」で柔然の連中を超興味深い!と指摘しましたが、
近年のパンノニアでの発掘調査において、
アヴァールが支配していた 7 世紀の人骨から得られた DNA を分析したところ、
驚くべきことに、その多くから YDNA のハプロタイプ N が認められた、
とのことでした!
また、mtDNA のハプロの多くもまた、東アジア由来であったとのことでした。

この当時のウラル山脈周辺には既に
ハプロ N を有する多くのウゴル語族が居住していたわけですから、
柔然が「アヴァール」と欧州の連中に呼ばれるようになるまでに
彼らと交わった結果そうなった、という可能性もゼロではありませんが、
アヴァールの移住経路を考えるとウラルを通った可能性は低く、
そうなりますと、
彼らはもともと N の人たちであった可能性の方がよっぽど高いと思います。

となりますと、彼らは、過去ログで何度もお話した遼河文明の生き残り、
である可能性が生じてきます!
遼河文明を打ち立てた連中がそのまま移動してフィン・ウゴルとなったのか、
あるいは
一派が遼河に、他の一派がフィン~ウラルに行ったのかは分かりませんが、
少なくとも遼河文明崩壊後にその地に留まった連中も居たはずで、
この発掘調査の結果は、実は烏桓こそが遼河の残党であり、
その後に彼らは、追われたためとはいえ、遠路はるばると欧州に到達し、
そこで派手に暴れまわった、ということになります!

個人的には、アヴァールが当時のフィンランドの連中と連携を果たして
欧州を北と東から席巻していたら歴史はさらに面白くなったであろう!
と思いますが・・・残念です・・・。

で、「にょんにょんが柔然語であったら非常に興味深い!」と言った理由は、
これも過去ログでお話しましたが、
古代の高句麗の数詞が日本の「ひい~ふう~みい・・・」と一致するという
驚愕的な事実から、
遼河文明~高句麗~百済~ヤマトという一つの流れが読み取れるのでは?
と考えたためであります。
倭人に関しては、このような北方からの流れと共に
水田稲作的な南方からの流れの両者が見て取れますので、
この両者のハイブリッドが倭人の原型だ!
と、個人的に考えてますが、これは今月のウクライナシリーズが終わってから
今月の書評シリーズに戻った後に再度お話しよう、と考えております。

では本日はこれまで!シャロン!


今月のウクライナ-82

ウクライナ軍による冬季反転大攻勢はあるのでしょうか?
ここしばらく大きな変化の見られない戦線状況です。
バフムトで砲撃戦があったとか、
ドニエプル川東岸に橋頭保を築いたとか、
ロシア国内の空軍基地を長距離ドローンで攻撃したとか、
細かな情報は色々入ってきますが、
今のところ、大きな動きに結びつくものではありません。
一方のプーチンも、恒例の年末記者会見をキャンセルするなど、
ジリ貧を隠しようもないカンジです。


さて、もとは柔然と同じく戦闘的遊牧民であった鮮卑ですが、
北魏王朝を打ち立てた後は
さも昔からの正統的な中国王朝みたく振る舞います。
で、柔然と北魏の関係ですが、
昔の匈奴と漢王朝の関係をそのまま踏襲するようなカンジです。
要するに、侵攻と討伐の繰り返しです。

で、西暦 402 年頃、社崙(しゃろん)という
ナンかカッコよい名前のオトコが柔然の族長となり、
周りの諸国を次々と征服!
あっという間に中央アジア第一の遊牧民国家に成り上がり、
一大帝国を築いた彼は、鮮卑譲りの可汗(カガン)を号するようになります。
この時の柔然の版図に関しては「今月のウクライナ-81」を参照して下され!

柔然-2.jpg戦闘的遊牧民は外見から判別するのは難しいかも・・・。  
「我愛歴史ナントか」という中国のサイトから無断でお借りしました。謝謝!
https://www.52lishi.com/article/46759.html


で、社崙が死んだ後も南朝の斉と共謀して北魏を攻めようとするなど
相も変わらず何かと暴れてますが、
鉄工職人奴隷としてこき使っていたトルコ系の突厥(とっけつ)が力をつけ、
柔然に反攻するようになると、これに対抗できなくなってきます。
西暦 534 年、北魏は東魏と西魏に分かれますが、
突厥に追われて西魏に逃れた柔然は突厥の要請を受けた西魏の軍に大敗を喫し、
中央アジアでの地歩をほぼ失う羽目に陥ってしまいます。

で、西へ西へと逃げた柔然の残党ですが、突如として北コーカサスに現れます。
西暦 558 年のことです。


今月のウクライナ-81

日本のサッカーチームは惜しくも負けてしまいましたが、
おかげで夜はぐっすりと眠れるようになりました。

さて、
フン族の侵入によって蜂の巣をつついたような騒ぎとなった欧州ですが、
その後も陸続としてアジアからの戦闘的遊牧民の侵入が相次ぎます。
今回からはしばらく柔然~エフタル~突厥と続き、
その後にスラブ~ブルガール~イスラムのお話に継続していきます。
今月のウクライナ-49」、「同-56」、「同-59」辺りをまずはご参照ください。

で、混乱の続いた五胡十六国時代ですが、西暦 386 年、
鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)によって北魏が打ち立てられ、
一応の安定を迎えます。
で、この頃、北魏のさらに北では
柔然(じゅうぜん)と呼ばれる連中が勢いを増してきました。

この柔然というのが、これまた相当にユニークな連中なのです!

柔然.jpg4 世紀後半の中央アジアの状況  ウイキより


「今月のウクライナ-49」では※のところで、
センセは「柔然はモンゴル系であろう」なんて書きましたが、
最近の考古学~人類学~遺伝子学の結果から、
いやいやそんな単純なものではない、と考えるようになりました。
たぶん、言語はモンゴル系の言葉を話していたと思われますし、
(より正確に言えば、モンゴル系に変わっていた、あるいは
多くのモンゴル言語を借用していた、と言うべきかな?)
文化は典型的な「戦闘的遊牧民」のそれであったと考えられますが、
連中の元々の出自は驚くべきものである!可能性があります。
その話は後に取っておくとして、まずは初めに
烏桓(うがん)、柔然、アヴァールの関係について見ていきます。

紀元前後あたりから匈奴の連中が強大となってきますが、
その匈奴に隷属していた連中が烏桓です。
漢王朝からは東胡(とうこ)を構成する部族の一つ、
と認識されておりました。

で、現代日本語読みでは烏桓は「うがん」ですが(烏丸とも書きます)、
古代中国読みでは「あ・ふぁん」みたいなカンジだったらしいです。

で、アヴァールという名称は、欧州に侵入してきた彼らを
ビザンツの連中がそのように呼んだのが始まりらしいですが、
欧州侵攻の途中、たぶんウクライナ辺りで遭遇したロシア(ルーシ)の記録では
オーブルと呼ばれてます。
で、「あ・ふぁん」、「オーブル」、「アヴァール」ということで、
繋がりが認められます。

で、じゃ「柔然って、何?」ということですが、これは
当時の中国音では「にゅんにぇん」とかいうカンジの発音だったみたいで、
書き方としては柔然以外にも、「蝚蠕、蠕蠕、茹茹、芮芮」などなど・・・。
読み方はどれも似たようなカンジです。
で、「匈奴!」とか、「鮮卑!」とか、いかにも凶暴で強そうな名前じゃなくて
なんでにょんにょん~にぇんにぇん~みゅんみゅんとか
パンダみたいな名前つけたのか?茹茹って、蒟蒻(こんにゃく)みたいだ!
って、実際、こんにゃくのイメージらしいです!

色々説はあるようですが、次の説が有力です。

当時の戦闘的遊牧民のトーテム、すなわち
「我々の先祖はワシ~カバ~ライオン~クマなり!」とか、
結構どの民族でもやりがちなことですが、
モンゴルとかトルコとかの連中の間では、多くの場合、
オオカミをトーテムとしていました。
後の世の「蒼き狼」、ジンギスカンなどで有名ですね!
現代のトルコなどでもオオカミは神聖視されています。

で、柔然の連中もオオカミをトーテムとしていたらしいのですが、
これを明らかな言葉で呼ぶことをせず、
逆説的な「隠語」言葉で表していた、
すなわち、全然強そうじゃない言葉で自分たちのトーテムを呼んでいた、
ということらしいです。
その結果が「にょんにょん・・・。」
いったいにゃんでしょういうことするにょきゃ、わきゃりましゅえんが・・・。

実際のところ、このにょんにょん的言葉はイモムシとかミミズとかヘビとか
そういう類のにょろにょろするものを表す言葉だそうです。
で、本来的な彼らの民族名というか部族名は、アヴァール系であったようです。
で、このアヴァールという言葉そのものも、
中世モンゴル語の abarga からきた可能性が指摘されており、
この abarga は、蛇や蠕動(ぜんどう)を意味する言葉らしいです。

こういう隠語遊び的なことは
いわゆる「業界」の方々がいかにもやりそうなカンジですが、
戦闘的遊牧民もまた堂々とやらかす、ということでしょうか・・・。
中国側の他称である可能性もありますが、自らそのように名乗った、
という記録もあります。良く分かりません。

で、ここで一つ、個人的に、疑問が生じます。

この「にょんにょん」言葉がにょろにょろ系を表す言葉であることは
日本人では感覚的にすぐ分かりますが、これは偶然の一致なのか、
それともどのような民族でも共通する感覚なのか、ということです。
ネコやイヌの鳴き声は、ま、多少の違いや個性はありますが、
どのような民族でも似たような表現ですし、その理由も明らかです。
けれども、「音」ではなく、動きを表現する「にょろにょろ」って、
文化を共有していない民族間で通じるものでしょうか?
専門的には、前者が擬音語、後者は擬態語と呼びます。

いまちょとグーグルで調べてみましたが、
英語でにょろにょろに相当する言葉は Wriggle で、
にょろにょろとは似ても似つきません。そもそも英語は
日本語ほどには擬音語(オノマトペ)や擬態語は多くないようです。

であるとしたら、
柔然と日本人、何らかの関係がある、とは考えられませんか???
これは最初にお話した「柔然はユニークな連中だ!」
というのと関係してくる可能性もあります。
面白くなってまいりました!

と思いましたが、よく考えると、これは中国語である可能性もあるわけです。
で、♪ リンリンランラン龍園でも分かるように(知ってる?)、
中国語の擬音語や擬態語は、日本語と同じように、
同じ言葉が二回続くのが多いです。
で、現代中国語の「にょろにょろ」に対応する擬態語を調べたところ、
蜒蜒蜿蜿蜿蜒(えんえん)が該当するとのことでした。
んんん~~~、柔然=にゅんにぇん、とよく似てる・・・。

ということで、
先のセンセの仮説は早くも破綻をきたす結果と相成りました・・・。
残念!



今月のウクライナ-80

日本勢、ブラボーでした!
次は、まずは 8 強入りを目指して欲しいです!

渡辺徹の急死、これにも驚きました。
糖尿病、あるいは生活習慣病の怖さを改めて思い知らされました。
「ヒトを含む生命体の本来の生活環境は過酷なものである。
それに適応して進化してきた生命体が
突然、恵まれた環境に放り込まれるとどうなるか?」
という問題に対しての答えの一つが、生活習慣病です。
本来の生活環境においては自制する必要のない事象に関して
恵まれた環境では逆に自制が必要となるわけですが、
これがストレスを生む要因の一つとなり、
そのストレスが、不自然な行為を継続する原因となってしまいます。
倒錯、と言っても良いかもしれません。
逆説的で、興味深いです。

昨日の「地球ドラマチック」、声が変わってました。
郁恵さんには、掛ける言葉もありません。
合掌・・・。


さて、フランク王国の王となったカロリング朝の創設者、ピピン三世ですが、
ピピンの寄進などを通してローマ教皇に対して「貸し」を作っていきます。
で、彼の息子のカール 1 世(カール大帝)の時代には
フランク王国は最盛期を迎えることとなり、
西暦 800 年、ローマ教皇のレオ3世により、サン・ピエトロ寺院において、
カール1世は皇帝に戴冠されることとなります。
この一件により、「神が皇帝の権力を担保した」と位置付けられ、
フランクの王=キリスト教の守護者、と見なされていくこととなります。

また、このカール 1 世の戴冠をもってして「神聖ローマ帝国」の誕生
と定義する向きもありますが、
962年オットー1世の戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なす向きもあります。
どっちでもいいです。

因みに、カール=シャルル=チャールズです。

カール大帝.jpgカール大帝の像  ウイキより
どれもこれも似たようなのばっかしですね。
歴代の中国の皇帝は頭に「すだれ」を乗せてるのが多いですが、
こちらは「クラウン」です。

トヨペットではありませぬ・・・。


いずれにしましても、カール 1 世としては、フランクの王というよりも、
「我こそが、あの偉大なるローマ帝国を継ぐ者であり、
キリスト教の守護人である!」との意識の方が強かったと思います。
従いまして、ここにおいて
偉大なるローマ帝国の文化とキリスト教とゲルマン族とが融合し、
これが現在に続く欧州の礎(いしずえ)となった、
と見て大きな間違いはないと思います。
これに上書きする形で、スラブとかイスラムとか、あるいはアメリカとかが
影響を及ぼしてきたのが現代の我々が見ている欧州の姿、
と言えるかと思います。

その後、
フランク王国は西フランク、東フランク、中フランクに分裂し、
さらに中フランクからはイタリアが分離していきます。
その結果、それぞれが現代のフランス、ドイツ、イタリアの三国の基礎
となっていきます。
西フランクはそのまま継続的にカロリング朝のフランス王国となりますが、
東フランクは北イタリアを包含し、
いわゆる「神聖ローマ帝国」となっていきます。

ここら辺の時代から、
フランス人、ドイツ人、イタリア人の意識が生じてくるのかな?
とも思いましたが、国民意識というのは
その後の近代国家の枠組みから生じた概念だと思いますので、
当時の一般民衆などは
「おらはどこそこのご領主様に属するペートルだあ~よ」
くらいのもんだったんでしょう・・・。
行政を司る貴族連もまたお仕えする王様~ご領主様しか見えず、
フランス人、ドイツ人、イタリア人の感覚は無かったと思います。

なぜ敢えてこんなことを書くのかと言うと、
現代の我々が歴史を振り返る時には、どうしても、
無意識的に現代の国民意識で物事を見てしまう傾向があるためです。
お隣の国が日本文化を自国由来のものに結びつけたがる傾向にあるのも、
一つにはこのためです。
日本は、戦後の一時期を除き、他国の占領下に置かれた経験が無いので、
ヤマト政権の頃から、
国家としてのアイデンティティーが揺らぐことはありませんでした。
封建時代に入って「おらのご領主さま」の時代となっても、
日本国という一段高い存在への帰属意識はあったと思います。
しかしながら、
頻繁に領域~支配者が変化する大陸国家の歴史を調べれば調べるほど、
これが極めて例外的なことであることに気づかされます。
そいういう意味においても、
現代欧州諸国の国民としてのアイデンティティーが
どのような過程を経て形成されてきたのか、
これを調べていくのはとても重要だと考えてます。

さて、当初はゲルマン系の言葉を話していたフランク族ですが、
ガリアの地に数多く居住していたローマ人の影響をもろに受け、
話し言葉もだんだんとローマ化していきます。
このように、
当時のフランクで話されていたローマ化したゲルマン言語がロマンス語ですが、
これが現在のフランス語の元となっていきます。
さらにはカロリング朝の時代には
行政やカトリックの教義ではガチガチの正統的ラテン語を用いましょう!
とする運動が生じ、結果、話し言葉と書き言葉の乖離(かいり)が生じます。
イギリスのチャーチル元首相の回顧録には
「学校でのラテン語の授業にはホトホト閉口した」というお話が出てきますが、
大陸から離れたイギリスにおいてすら
後々の世に至るまでラテン語の授業が延々と続けられた根底には
やはりローマとキリスト教が横たわっていた、ということなんでしょうね!

で、カール大帝などは、未だにキリスト教に改宗しない北方の蛮族、
後の神聖ローマ帝国を形成するゲルマンの連中ですが、
彼らを相手に「改宗か、さもなくば死か!」と、
イスラムのお株を奪うような宗教戦争に打って出ます。

ついこの前まで同族だったくせに・・・。

で、おかげさんで、今ではほとんどのドイツ人は、新旧いずれにせよ、
クリスチャンとなっております。
時代が下ると「新か、旧か!」を巡って
血なまぐさい争いが 30 年も続くことになりますが・・・。

ということで、ことによると、
フランス人、ドイツ人、イタリア人を作り出した原動力の一つとして
ローマ化の程度」が挙げられるのかな?と思います。
もちろんこれにスペイン人を加えても OK です。
東ローマ帝国ともなると、
逆にローマ人はギリシャ化=ヘレニズム化していきますが、
その後にバルカンはスラブ化し、さらにイスラム化が加わり・・・
というカンジで、やっぱし歴史~民族学~人類学は面白い!
と、一人で感心しております。

次回からは極東に端を発する超興味深い連中が登場します!


今月のウクライナ-79

さて、キリスト教徒となったフランクのメロヴィング朝ですが、
国土は息子たちによって分割統治する、というゲルマンの伝統のために
小分割化された国どうしで争いが絶えず、毒殺などは朝飯前!
日々、すったもんだしておりました。
一方で、8 世紀に入るとイベリア半島にイスラム教徒(ムーア人)が侵入し、
現在のスペインの地は全土を彼らに席巻されますが、
732 年、ピレネーを超えてフランク領に侵入してきたイスラム教徒を
カール・マルテルという男がトゥール・ポワティエ間の戦いで粉砕し、
イスラムをここで食い止めます。

トゥール・ポワティエ間の戦い.jpgトゥール・ポワティエ間の戦いの図  ウイキより
当時のフランク軍を彷彿とさせる絵ですね!
中央の騎士が持ってるのが
フランク族の名前の由来となったとも言われるフランキスカ(投げ斧)
でしょうか?
手前の男は遊牧民に特徴的な短弓を持ってます。
フン族に教わったのでしょうかね?
「教えてくれて、タンキュー!」と言ったとか・・・。


カール・マルテルはメロヴィング王朝の宮宰(きゅうさい)職にあった男で、
この勝利によって成り上がっていきます。
宮宰とは、宮廷の第一官吏みたいな職です。

で、彼の死後、息子の一人であるピピン三世が台頭し、
メロヴィング朝を排して自分の王朝を打ち立てるべく、画策し始めました。
彼はローマ教皇の権威を持ち出し、これを最大限に利用!
東ローマと仲の悪かったローマ教皇側としても、
フランクの王権を利用して自らを守ってもらおうという腹積もりがあり、
いわゆる win - win の関係がここに成立!
751年には神によって王に選ばれたことを示す「塗油の儀式」とやらが
教皇特使ボニファティウスによって執り行われました。

どんな儀式か知りませんが、体にアブラでも塗ったんでしょうね・・・。

ピピン三世.jpgピピン三世の像  ウイキより
油を塗ったおかげでナカナカ血色が良いです。


歴史学的には、このことによって「メロヴィング家の血を引く者」という
血統に基づく権威よりも、教皇によって任命された権威の方がエライ!
ということが示されたわけで、
以降、「ローマ教皇のお墨付き」という権威付けが専らとなってきます。
同時に、教皇側としては王権によって守られる、という形となり、
ここに典型的な中世ヨーロッパの形が出来上がりました。

で、王様となったピピン三世ですが、カール・マルテルの子孫ということで、
カロリング朝を名乗り、フランク王国も全盛期を迎えることとなります。


晩秋の一日

昨日は午後の 3 時から日本女子プロゴルフ最終戦にくぎ付け。
勝みなみの猛烈な追い上げにより、山下美夢有とプレーオフに!
で、距離の長い 18 番ミドルですので
「長距離ヒッターの勝がフェアウエイをキープすれば勝が有利!」
と考えましたが、その通りの展開に!
しかし、勝の二打目は右サイドにプッシュアウト!
一方の山下の二打目はピンめがけて真っ直ぐ進み、ピン奥 3 メートルにオン!
で、長い勝のパットは惜しくも外れた一方で、山下は見事にねじ込んだ!
緒戦は西郷真央で持ち切りの今年の女子プロゴルフ界でしたが、
メルセデスランキング、賞金ランキングともに今年一位の山下が
最終戦をも制するという、まことにあっぱれ極まりない一年でありました。

で、そのままチャンネルを切り替えて NHK の大相撲に!
高安が頭一つ抜け出して千秋楽を迎えたが、まだまだ何が起きるか分からない。
で、案の定、阿炎との本割で惜しくも敗れ、
貴景勝を加えてン十年ぶりの三人による優勝決定戦に突入した!
で、初めの取り組みで再び高安 vs 阿炎。
立ち合い、阿炎が左に変わったところに高安は頭から突っ込んで脳震盪!
その後、阿炎は貴景勝戦をも制し、またもや平幕優勝となった!
今回も優勝を逃した高安にとっては、まことに残念な一年でありました。

で、夕食終了後に今度はサッカーの世界選手権!
日本 vs コスタリカの試合は「もらったも同然!」との勢いで、
いいちこ片手に安心して見てられる!
前半、守備を固めた相手方に対して、日本は得意の決定力のなさで立ち向かう!
両者無得点のまま、後半戦に!
「どうせどこかで取ってくれるだろう」との安易な期待のまま、
チーカマといいちこでリクライニング!
で、吉田麻也のディフェンスボールが中途半端に上がった!
それを逃さず放たれた相手方のシュートは
キーパーの手を弾いてゴ~~~~~~~ル!!!
ドイツを破ってウハウハしてた日本中は一転してどん底状態!!!

全く持ってテレビ漬けの、晩秋の一日でありました。


今月のウクライナ-78

中世欧州の成り立ち=フランク王国の成り立ち、と考えて OK かと。
で、見ていきます。

当初、他のゲルマン部族と同様、西ローマ帝国領域に侵入して
略奪の限りを尽くしていたフランクの諸部族ですが、
そのうちローマ皇帝に飼いならされて番犬化していき、
他のゲルマンやフン族の侵入に対してローマを守る形となっていきます。

情けないですね!ヴァンダルあたりを見習えと・・・。

で、それぞれが領地を与えられて小王国が林立するようになりますが、
そのうちの一国が頭角を現し、巨大化していきます。
この時登場したのがクローヴィス 1 世で、教科書でおなじみの
メロヴィング朝の創始者です。西暦 481 年の時です。

クローヴィス一世.jpgクローヴィス 1 世  ウイキより
王冠を頂いた、絵に描いたような中世ヨーロッパの「王様」像です。
絵に描いてあるわけですが・・・。
中世ヨーロッパ、しばらくこんなカンジが延々と続きます・・・。


諸部族、諸王国との争いに次々と勝利していったクローヴィスですが、
隣国のブルグント国の王族の娘とめでたく結婚することとなります。
既にカトリックに改宗していた新妻の影響からか、
率いる 3000 名の部下の兵士と共にカトリックの洗礼を受け、
ここに強力なカトリック軍団が成立します。西暦 496 年の時です。

その後、南ガリアに勢力を拡大していた西ゴート王国を破り、
西ゴートはピレネー山脈を越えてイベリア半島に押し込められます。
この結果、ガリアは統一され、東ローマの皇帝からクローヴィスに対して
西ローマの執政官としての任命状が与えられた結果、
ローマお墨付きのフランク王国がここに正式に成立することとなりました。
西暦 508 年頃のお話です。

要するに、フランク族はローマから領土をかすめ取ったというよりも、
ローマ皇帝から信任され、代官として代わりに統治を任された、
というニュアンスが強いのかな?と感じます。
その信任にはクローヴィスがカトリックに改宗したことが大きいでしょうし、
ガリアに数多く居たローマ人やローマ文化の影響もまた大きかったのだ、
とも思います。
その後のフランクの展開を見るにつけ、
彼らは自らゲルマン色を薄め、積極的にローマ化~キリスト教化していった、
と思われます。

「文明は高きから低きへと流る」、ということです。