今月のウクライナ-52

ウクライナ軍、南部に向けて反転攻勢の報あるも、
ロシア軍はこれを撃退、との報もあり、
ザポリージャ原発においてもどちらが攻撃しているのか、
どうにも煮え切らない展開が続く最近のウクライナです。
一方で、ロシア軍。
兵員、武器、弾薬ともに不足する中で、
「ボストーク 2022」と銘打って 9 月に極東で軍事演習する予定ですが、
いったい余裕があるのかないのか・・・。
ホントに何を考えているんだか・・・。

さて、紀元前後の大国の情勢、ということで、今回は中国のお話です。
秦の始皇帝が死んだのち、二代目に反旗を翻したのが
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか、
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」とかの句で有名な陳勝。
これが鎮圧されたのちは劉邦と項羽の争いとなります。
皆様もよくご存じのように、
「四面楚歌」とか「虞や虞や汝を如何せん」とかのお話です。
で、秦が滅んだのが紀元前 206 年で、新たに生まれたのが「漢」王朝。
この場合は「前漢」ということです。

で、例の匈奴ともいろいろあるわけですが、
武帝の時代に前漢の勢いは最大となり、
西域諸国とも友好関係を結ぶことによって匈奴を圧迫し、
版図も最大となります。
だいたい紀元前 130~110 年頃です。
李陵や張騫の時代です。

で、歴代の中国王朝史なんてのは毒殺話のオンパレードですので、
中国に限らないけど、こんなのは無視してどんどこ先に行きます。

王莽(おうもう)という典型的な悪役が出てきて漢王朝を乗っ取り、
自分の「新(しん)」王朝を打ち立てるのが紀元後 8 年。
新王朝の存在はだいたい紀元前後の年代の区切りにあたりますので
中国王朝を時系列的に理解するのに助かります。

王莽.jpg中国史の代表的悪役の一人、王莽 ウイキより
せっかくの王朝も一代限り・・・。


で、しばらく比較的良好な関係を築いていた漢と匈奴ですが
王莽は匈奴に対して無意味に厳しく当たった結果、
ここにきて王莽の「新」王朝と激しく対立!
再び侵入~略奪を繰り返すようになります。
また、王莽の政策に反発した西域諸国とも手を結び、
再び匈奴の勢いが増すこととなりました。

内乱の頻発などにより、
紀元後 23 年、「新」王朝は王莽の一代限りで滅んでしまいますが、
匈奴は単に侵入~略奪するだけでなく、
中国の王朝に直接介入するようになった結果、
その後の「五胡十六国」の時代の素地を作ることとなります。

それにしても秦、新、晋、清、ぜんぶ「しん」・・・。
「しん」じられない、と言いたくなりますが、
たぶん、中国語ではそれぞれ発音が違うんだと思いますけど・・・。

英語表記ではどうなっているのでしょうかね?


今月のウクライナ-51

プーチンの懐刀でもある大物右翼の娘が、車に仕掛けられた爆弾で爆殺された!
現状ではまだまだのんきに見えるロシア国民ではあるが、
チェチェン紛争で見られたような大規模なテロが
今後再びモスクワで生じる可能性はない!とは言えない。
プーチンに忠実なチェチェンの髭もじゃ隊長であるが、
一般のチェチェン人はどう思っているのだろうか?
ブリヤートのモンゴル人が狩りだされて前線に送られているが、
反乱が起きたとの情報もある。
カザフなど、中央アジアの友好的なはずの共和国は、
プーチンから一定の距離を置いているようだ。
モスクワで動員がかかるような状況となれば、
さすがのロシア国内も騒然としてくるであろう・・・。


さて、ここで紀元前後のユーロアジアの大国の情勢について
概観しておきたいと思います。まずはローマ帝国から。

印欧語族の拡散が生じる前は、
それ以外の言葉を話す連中が欧州~近東~インドに広く住んでおりました。
既にお話してきたセム族とかドラヴィダ人とかヴェッダとかです。

イタリア半島においては、
ラテン人などのイタリック語派に属する印欧系が幅を利かす以前は、
エトルリア人などの非印欧系の連中が住んでおりました。
古代ローマの初期にはむしろエトルリア人が優越していた、との説もあります。
スペインには、これも非印欧系のイベリア人が定住していましたが、
彼らの出自はコーカサスである、との説もあり、また、
彼らの生き残りがバスク人である、とも言われてます。
これら、古代の非印欧系の連中のマップがウイキに載ってましたので、
貼っときます。ナカナカ興味深いです。
いずれにしましても、コーカサス人にせよバスク人にせよ、
印欧系の連中に急峻な山の中に追いやられてしまうこととなりますが・・・。

古代の非印欧系.jpg古代の非印欧系の分布図 ウイキより
北アフリカからまずは中東に分布し、
そこから東西に広まった感が見て取れます。


今月のウクライナ-33」で、紀元前 1600 年くらい前、黒海北岸あたりから
原印欧語族の第二派の移動が生じた可能性を指摘しました。
この流れでギリシャ~イタリア半島~イベリア半島を含む欧州全域が
印欧語を話す連中によって占められた、と考えられます。
ラテン系言語を話すローマ人もこの流れでイタリア半島に達し、
ローマを中心として、
先住民であるエトルリア人などと共に、多くの都市国家を形成します。
当時、ケルト人とかゲルマン人とかの
「同源ではあるが別種の言語を話す」種族が
それぞれ多くの部族を形成しながら、
西~北方のヨーロッパを占拠することとなりました。
ローマがその後に大帝国を作る一方で、
これら北方の連中が長らく野蛮人であり続けた理由こそは、
ギリシャの影響が大変大きかったから、と言えると思います。
で、ギリシャは中東のより先進的な文化から影響を受けて生まれたわけです。

やっぱり歴史を学ぶことは大事です!

で、国家としてのローマとしては、
一応、紀元前 753 年という建国の年が決められてます。
トロイ戦争で敗れたトロイの王がイタリアに逃亡して建国したと言われてます。

もともとトロイ、ということですかね WWW?

それはともかく、建国当初は王政で、先住のエトルリア人の王なども建つなど、
結構雑多な民族構成だったみたいですが、
その後、紀元前 509 年には共和制に移行し、
段々と我々の知るローマ帝国に変身していきます。

Roman_Republic_Empire_map.gifローマの領土の変遷 ウイキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Roman_Republic_Empire_map.gif


当時の地中海は、
セム系の、航海術に長けた民であるフェニキア人が幅を利かせておりましたが、
彼らが現在のチェニジアに打ち立てた国家であるカルタゴ(ポエニ)とは
数度にわたって熾烈に戦い、最終的にはこれを徹底的に滅ぼしてしまいます。
紀元前 146 年のことです。
カルタゴのハンニバル将軍のお話が有名ですね!

ハンニバルのアルプス越え.jpg有名なハンニバルのアルプス越え ウイキより
ゾウはアフリカ象でしょうかインド象でしょうか?
たぶん、はるばるインドから輸入したインド象だったと思います。
ホントに使ったかどうか分かりませんけどね。
餌が大変だったでしょうね WWW。


その後は例のジュリアス・シーザー(カエサル)とか寝ろ!
じゃなくてネロ皇帝とか、
映画などでもおなじみの連中がいろいろ出てくるわけですが、
地中海からフランス(ガリア)、さらにはイギリスにまで植民地を伸ばし、
「世界の道はローマに通ず」の、
空前絶後の繁栄の時代を迎えることとなります。

で、紀元後 4~5 世紀頃からゲルマンの侵入を受けることとなりますが、
ローマに関してはここまでといたします。







今月のウクライナ-50

クリミアに続いてベラルーシでも謎の爆発が・・・。
加えてケルチ海峡にかかるクリミア大橋にも謎の爆撃が・・・。
おかげで、ロシアの攻撃は東も南も当面頓挫とのこと・・・。
プーチン、ここにきて北朝鮮の義勇軍を「無慈悲にも」投入するか???

さて、クシャーナ朝のカニシカ王と言えば仏教の保護者として有名ですが、
クシャーナ朝の中心部、現在のアフガン~パキスタン辺りは、
昔も今も、雑多な民族と多様な宗教で彩られているところです。
現在のこの地は圧倒的にイスラム教が優勢ですが、
当時はゾロアスター教、ヒンズー教、仏教、ギリシャの神々、その他、
多くの神様がおりました。
で、カニシカ王はその中で仏教に帰依しますが、
仏教はカースト制を否定すれども他の宗教を否定しませんので、
クシャーナ朝は、仏教優勢ではあっても、
宗教的にも多様性に富んだ国家であったと考えられます。

また、多くの他部族を支配下においたことから、
カニシカ自身の「王」としての名称もこれらの他部族の「王」の名称を借りて
「シャーヒ・ムローダ・マハーラージャ・ラージャアティラージャ・
デーヴァプトラ・カイサラであるカニシカ王」
というのが正式であったそうです。解説しますと、

シャーヒ=トカラ語で王
ムローダ=サカ語で王
マハーラージャ=ヒンズー語で王
ラージャアティラージャ=イラン語で王の中の王
デーヴァプトラ=中国の「天子」を意味
カイサラ=ラテン語の「カイサル」=王

ということです。以上、ウイキペディアより。

で、クシャーナ朝という名称はインド風に呼んだ名前ですし、
確かにガンジス川中流域まで領域を伸ばしていますし、
仏教も広めましたし、
などというところから学校ではインド史の流れの中で教わると思いますが、
領土はインドというよりもむしろアフガン~パキスタンですし、
ネットに載ってるカニシカ王の石像を見ても、頭部がありませんけど、
長いコートとブーツをはいてインドとは全く異なる風体ですし、
やはりこれは遊牧民による王朝なんだなあ~、との感を新たにします。

カニシカ王.jpgカニシカ王を刻んだ金貨。こちらはちゃんと頭があります。 ウイキより
石像も、同じような姿です。インドの雰囲気皆無です。
月氏は明らかに印欧系であるのが良く分かります。


で、カニシカ王のころのクシャーナ朝の首都、現在のペシャワールですが、
この地に彼は多くの仏教寺院や仏塔を建立し、また、ガンダーラの地において
多くのギリシャ人の芸術家を雇って仏像を作らせます。
ここにおいて、かの有名なガンダーラ仏教美術が花開くこととなります。
以前にお話したように、
初期の仏教ではお釈迦様の像を作って拝むことはご法度でしたが、
ギリシャ芸術の影響によって、現在見られるような荘厳な仏像群が、
奈良や京都など、むしろインド以外の地で数多く作られることとなりました。

ガンダーラ-2.jpgお釈迦様の頭 Wikimedia Commons より
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BuddhaHead.JPG
シャカ族=サカ族なので、そもそも印欧系であるのは分かりますけど、
どうにもこうにも違和感が・・・。


このようなカニシカ王の熱心な仏教崇拝は、
当時、西域にまで支配力を伸ばしていた後漢に伝わり、
中央アジアから中国へ、
そして聖徳太子の頃には海を渡って日本にも伝わります。
興味がおありの方は、
ウイキの「仏教のシルクロード伝播」に詳しく載ってますので、
訪れてみて下され!

今月のウクライナ-49

さて、匈奴が強勢となる以前は、
東胡(とうこ)とか月氏(げっし)とかが優勢でした。
東胡とは「東の遊牧の異人」くらいの意味で、
モンゴル系の烏丸(うがん)とか、後の鮮卑(せんぴ)とかの連中です。
匈奴の北には丁令(ていれい)とか呼ばれたトルコ系の連中が、
西には印欧語族のトカラ系である月氏が、
そして秦の西には(きょう)と呼ばれた正体不明の連中が居りました。
は印欧系ともチベット系ともいろいろ言われてます。
現在のの末裔はチベット系の言語を話すようですが、
古代の連中はまた別であった可能性も指摘されてます。
系統不明、としときます。
下図は秦の頃の状況です。
およそ紀元前 3 世紀くらい前です。

紀元前3世紀-3.jpg
センセが個人的に「匈奴はトルコ系なのでは?」と考える理由の一つは、
有名な冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)の「ぼくとつ」とか、
その父親の頭曼単于(とうまん・ぜんう)の「とうまん」とか、
これらの言葉はトルコ語に由来する、との説があるためです。
「ぼくとつ」とはトルコ語で「勇者」を意味し、
「とうまん」とは「万人の頭」、すなわち隊長を意味する、
とのことなので、なるほど、意味的には説得力があります。

但し、前に述べたように、
これらの言葉がモンゴル語から借り入れた可能性も指摘されてますので、
決定的ではありません。
さらに言うならば、「とうまん」が「万人の頭(かしら)」を意味するならば
これは中国語と言ってもよいわけで、
ならば中国語の「頭」とか「万」とかはトルコ~モンゴル語由来なのか?
という疑問も当然出てきますし、あるいはその逆の可能性も生じるわけです。
加えて、
後の時代のウクライナ・コサックの隊長は「アタマン」と呼ばれてましたが、
ユーロアジアの遊牧民の文化的伝播力を考えると、
ことによるとこれも「とうまん」と何らかの関係があるような気がしてきます。
「ア・タ・マン」、「ア」は接頭辞、「タ」は「とう」、「マン」は「万」、
と分解できるかも・・・。
さらに言うならば、昔のいわゆる「ゾク」、
すなわち暴走族のリーダーも「あたま」と呼ばれておりましたが、
これら全部関係があるのか???
それともセンセの「あたま」に問題があるのか???

いずれにしましても、その他、後のフン族に関する記述の中にも
トルコ系をにおわす描写がありますし、
他にも理由がありますので、ここでは言わないけど、
やっぱしトルコ系なんじゃないのかなあ~、と思ってます。
自信はないけど・・・。

さて、単于(ぜんう)というのは「王」という意味で、
匈奴以降、しばらく他の遊牧国家の王の名称としても用いられます。
その後、柔然(じゅうぜん=アヴァール)※が出てきて
可汗(カガン)という名称を用いるようになると、
それ以降は押しなべてカガン、カン、ハン、ハーンという名称に
取って代わられます。
単なる流行だと思いますが、
ユーロアジアの遊牧民文化の伝播を知るうえで興味深いです。
「ゼンウよりハーンの方がクールじゃね?」
ってことなんでしょうけど・・・。

※柔然はモンゴル系だと思います。
烏丸=柔然、の説もあります。
個人的には、同意してます。

で、冒頓単于の時に匈奴は非常に強力になり、領土を東西に大きく広げます。
紀元前 2 世紀半ばごろです。
東の東胡をまずは支配下におき、返す刀で西へ進出。
西域に大きな勢力を誇っていた月氏に圧力をかけます。
冒頓の子の老上単于も父の意思を引き継ぎ、攻撃を加えた結果、
さしもの月氏も故地を捨て、さらに西のサカ・スキタイの領土に侵入、
これを滅ぼして一旦はこの地に留まります。
一方で執拗な匈奴は隣国の烏孫(うそん)に圧力をかけ、
烏孫は否応なく月氏を攻撃した結果、
月氏はさらなる移動を余儀なくされます。
因みに烏孫は印欧系です※。

※トルコ系という説もありますが、たぶん、印欧系です。

最終的に月氏はバクトリア、すなわち
現在のウズベキスタン~アフガニスタン北部辺りに侵入し、
まわりのサカ・スキタイ系の部族と連合して、
その地に未だ存在していたギリシャ系国家、
グレコ・バクトリアを滅ぼしてしまいます。
紀元前 130 年頃です。
この地に地歩を築いた月氏は大月氏と呼ばれ、さらに発展していきます。
一方で、匈奴に追われた後も、故地の楼蘭には未だ少数の月氏が居残りますが、
これは小月氏と呼ばれるようになります。

月氏の移動.jpg
ここら辺にたくさん居たサカ・スキタイ系の連中は月氏に追われてさらに南下、
現在のパキスタンあたりに小国家を林立するようになります。
サカ・スキタイの侵入により力を失ったマウリア朝は、
マガダのシュンガ朝によって滅ぼされます。

サカ・スキタイの一部はインド西岸を南下し、
インド亜大陸のドラヴィダ系王国と争うようになりますが、
これらのサカ・スキタイ系の影響は現在でも色濃く認められるようで、
インドの多様な地域文化~言語が生まれた原因の一つとなってます。

で、バクトリアに居を構えた大月氏ですが、
その中の有力氏族の一つにクシャン(クシャーナ)というのがありました。
このクシャン家の連中はその他の月氏の有力氏族を滅ぼして統一を果たし、
その後、大月氏の勢力拡張に邁進します。
彼らは、アレキサンダー大王以来、
この地に根付いていたギリシャ系の小国家をことごとく滅ぼしただけでなく、
現在のパキスタンにあったサカ・スキタイ系の小国家群をも追っ払い、
カスピ海沿岸部からインダス川~インド洋に至る領域を占有し、
強大な国家、「クシャーナ朝」を建設することに成功します。
およそ紀元後 1 世紀くらいの時代です。
その結果、この国家は、当時、アナトリア東部からペルシャを占めていた
アルサケス朝パルティアを介することなく
カスピ海経由でローマと交易を行うことができるようになっただけでなく、
当時、西域に強い影響力を及ぼし始めていた漢との交易ルート、
すなわちシルクロードの要衝をも占めることとなった結果、
東西の交易によって大いに栄えることとなります。

その後、紀元 2 世紀ころ、
クシャーナ家からカニシカ王という名前の君主が登場し、
この国家は最盛期を迎えることとなります。

カニシカ王は矛先を東に向け、
ガンジス川に沿って侵入して行きます。
最終的には当時のマガダ王国の奥深くまで版図を広げることとなりました。

クシャナ朝.jpg紀元 2 世紀中ごろの状況。目まぐるしいです。




今月のウクライナ-48

秦の始皇帝と言えば万里の長城ですが、
皆様ご存知のように、現在の万里の長城は明の時代のものです。
センセも昔、北京に旅行した際、登りました。
めちゃくちゃ蒸し暑い真夏の旅でした。

万里の長城.jpg明の時代の万里の長城 ウイキより

で、長城までの長い坂道は車で渋滞しておりノロノロ運転状態。
で、当時の中国の車、ドイツ製が多かった。
で、ドイツ車はアウトバーンは軽快に走るのでしょうが、
どうやら低速走行は苦手のようで、
道端にはオーバーヒートになってボンネットを開けたドイツ車が
ゴロゴロしてた・・・。
長城に着くと、中国も夏休みだったのか、ヒトが蟻のごとく群れをなし、
長城の至る所でかまわず家族連れが昼飯を食べるものだから、
何と申しましょうか、
ナカナカのリアルチャイナを体験してまいりました。

で、これらの長城が遊牧民対策であったのは良く知られておりますが、
一方で、最近、これらの長城は遊牧民の侵入を防ぐ目的だけでなく、
自国の農地拡大のための「囲い込み」を目的としたものであったとか、
あるいは、国内の農民の逃亡を防ぐためであった、
とかの説も見受けられます。
確かに、匈奴と漢の関係を見ると、
互いに相手方に逃亡する例が頻繁に見られます。

前にも述べましたが、基本、遊牧民は交易がないとやっていけないので、
好むと好まざるとに関わらず、
中国歴代の王朝とは何らかの形で接触を継続する必要があります。
一方の中国側としては、農地の拡大を図る、という至上命題があります。
となりますと、黄河北辺の大地は、
中国側農民と遊牧民との間での争奪の的となります。
遊牧民は自分たちでは農耕を行わず、農耕民を軽蔑してます。
けれども冬場の家畜の餌としても農作物は必需品ですし、
絹織物などの服飾品、飾り物などの工芸品も欲しいので、
一旦両者の関係がこじれると、
中国側にさっさと侵入して家畜や穀物を略奪するだけでなく、
中国農民や工芸人を拉致し、連れ去って奴隷とし、
自分たちの土地を耕させたりしてました。
中国農民の間でも、王朝の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に耐えかねて、
「あっちの方が楽じゃワイ」とばかりに
積極的に逃亡したような例もあったようです。
匈奴側でも、仲間内でケンカして中国側に寝返る例も見られます。

結局のところ、漢と匈奴との関係は、懐柔と懲罰の繰り返し、
言葉は悪いですけど、「腐れ縁」みたいなところがあります。
匈奴優勢となると漢から女性を含む様々な贈り物が届けられますし、
漢優勢の時は軍を送って蹴散らしたり、の繰り返しです。
漢の王朝に嫌気がさして漢の将軍が匈奴王の参謀となる例も
一つ二つではありません。

ナカナカ複雑です。




今月のウクライナ-47

ウクライナ情勢、ロシア軍の消耗も大きいようですが、
ウクライナ軍もここにきて再び武器弾薬の不足を訴えています。
これ、西側はどこまで供与を継続できるでしょうか?
ゼレンスキーは国民壮年男子出国禁止令の延長を命じましたが、
「ジェンダーがー!」は取りあえず置いといて、
ロシアはどう出るのでしょうかね?
本当に長期戦を覚悟しているのでしょうか?

中国、ロシアのために陽動的な動きをするでしょうか?
ペロシ議長の訪台、中国の反応を見るための動きであった、
というのは穿ち(うがち)すぎでしょうか?
さすがのアメリカも、
ウクライナと東シナ海との両面を引き受けることはつらい、と思います。
また、中国の台湾併合の意思を甘く見てはいけません。
彼らの Manifest Destiny! だと考えたほうが良いです。
これに加えて北朝鮮のキムくんまで怪しい動きをするならば、万事休す!
第三次まっしぐら、です!

ま、日本には 9 条があるから大丈夫ですよね WWWWWW!


さて、ギリシャのヘロドトスが描くところのスキタイと、
漢の司馬遷が史記で描くところの匈奴とは、誠に持って瓜二つです。

家畜に従って移動し、家畜の肉を食らい乳を飲み、車の付いた住居に住み、
馬を自在に操って短弓を射る、などなどなど。

スキタイと匈奴、この東西の二つの戦闘的遊牧民の生活様式~戦闘様式は、
この後の長きにわたってユーロアジアに大きな影響を及ぼすこととなります。
これらの戦闘的遊牧民の動きはまるでビリヤードの玉にも似て
一つの民族の意思が他の民族の移動を誘発し、
その移動がさらに別の民族に波及し、
究極的には大帝国の滅亡をも引き起こすという・・・。
まさに世界史の面白さは、
これらの戦闘的遊牧民の動きを知らずして感じることはできますまい!
とまで思ってます。

匈奴戦士.jpg中国の「历史趣闻网」というブログから無断でお借りしました。谢谢!
https://www.lsqww.com/zh-cn/lishimishi/lszx/344752.html

で、各遊牧民国家の興亡と関係性を知りたい、と言うのが本質なので、
あんまし細かなところまでは踏み込みませぬ。
例えば、匈奴の場合は李陵(りりょう)とか張騫(ちょうけん)とか
王昭君(おうしょうくん)とか、あるいは司馬遷、彼自身もそうですが、
皆さんも良くご存知の面白いお話が満載なのですが、一切、省略します。

なにしろ本丸(ほんまる)はウクライナですので・・・。
この分ではいつ頃たどり着くのかと・・・。





今月のウクライナ-46

さて、春秋戦国の頃までの中央アジアは印欧語族が優越する世界であった、
というお話をしました。
具体的には、トカラ系の月氏とかアーリア系のサカ・スキタイとかが
現在の中国甘粛省~モンゴル~シベリアまで席巻しておりました。

で、秦が統一帝国を築く頃、当時の中国人言うところの
西戎 (せいじゅう) とか北狄 (ほくてき) とかの連中がいたわけですが、
多くは農民であったり牧畜したり狩りをしたりの弱小部族でありました。

ところがその中で、
モンゴル高原を拠点として急速に勢力を拡大してきた部族がありました。
それが、匈奴(きょうど、フンヌ~ヒュンヌ)です。

匈奴の出自ですが、
モンゴル系なのかトルコ系なのかはたまた印欧系なのか、
必ずしも明らかではありません。
遼河文明を築いた連中との関連を指摘する向きもありますが、
印欧系ではない!とは思います。
常識的にはモンゴル系かトルコ系のどちらかだと思いますが、
個人的には「トルコ系なのでは?」と考えてます。

トルコ語とモンゴル語は、両者共に、
いわゆるアルタイ語族 (アルタイ諸語) に属する言語で、
日本語と同じく「私 ご飯 食べる」の語順を持つ言葉です。
けれども、数詞やその他、いわゆる基本語彙が大きく異なるため、
同族には分類されません。
しかしながら、中央アジアの歴史においては、
この両者は常に隣通しでよく言えば切磋琢磨、
悪く言えば互いにケンカばっかししてる連中なので、
互いに貸し借りした言葉もたくさんあるようです。

匈奴に関しては、
例の司馬遷の史記の中に多くの記述があるわけですから
これらの言葉からトルコ系なのかモンゴル系なのか分かりそうなものですが、
先に述べた理由から、現在においても必ずしも明白ではないとのことです。

で、それはさておき、恐らくですが、
彼らは元々はモンゴル北部からバイカル湖周辺で
狩猟~漁労を行っていた連中なんだと思います。
で、そこで彼らが出会ったのがサカ・スキタイの遊牧民で、
彼らの「馬を駆って羊を追って戦いに明け暮れる」生活に魅せられ、
遊牧民に宗旨替えしたのです!ホントか!?!?

ホントです。たぶん。
ホントだと思うぞ!・・・たぶん・・・。

というのは、基本的に、
モンゴル高原の匈奴から中央アジアを経てウクライナに至るまで押しなべて、
同じようなスキタイ風と呼ぶべき生活様式~文化様式が認められるからです。
で、時系列的にはスキタイの方が古く、また、以前に述べたように、
サカ・スキタイの故地はアルタイ周辺にアルタイ!と思われるので、
匈奴はサカ・スキタイの影響のもとに生まれた、
と考えるのが自然です。



    今月のウクライナ-45

    オリビア・ニュートン・ジョンが死んでしまいました。
    73 歳でした。
    30 年来のガンを患っていたそうです。
    お悔やみを申し上げます・・・。

    センセの世代では、まずは「そよ風の誘惑 (Have you ever been melow)
    を思い起こさせます。70 年代半ばです。
    秋葉原の石丸電気でシングルを買いました。
    お次は 80 年代初頭の「Physical」!
    これは当時、 FEN から連日のごとく流れてました!

    懐かしいですね、あの頃も!
    ホール&オーツとかクイーンとかデヴィッド・ボウイとか。
    マイケル・ジャクソンとかスティービー・ワンダーとか。
    カルチャー・クラブとかシーナ・イーストンとかブロンディーとか
    キム・カーンズとかグローヴァー・ワシントン・ジュニアとか
    ビル・ウイザースとかローラ・ブラニガンとかマレー・ヘッドとか
    ヒューマン・リーグとかユーリズミクスとか・・・。

    60 年代から 70 年代前半にかけての混沌かつ騒然とした世情に対して
    70 年代には 60 年代に対する反省的~内省的な曲が出始め、
    70 年代後半から 80 年代になると
    「健全な社会に戻ろうよ!」とか、
    「やっぱしビジネスって大事だよ!」とか、
    「社会を下支えしている俺たちを忘れちゃ困るぜ!」とか・・・。

    そんな中でオリビアは「体はとても大事よ!」
    とか言ってフィジカルを歌った・・・のではありませぬ・・・。
    別の意味でございます!You know what I mean ?

    彼女に代わって「体を鍛えようぜ、ヤングマン!」と歌ったのは、
    おなじみヴィレッジ・ピープルの面々です。
    YMCA 」載せときます。
    但し、彼らの誰一人として大してマッチョではないんですけどね・・・。

    そのうち、60 年代と 80 年代を繋ぐ
    過渡期の音楽を載せてみたいと思ってます。
    フリートウッド・マックとかフィービ・スノウとかね!


    さて、ウクライナですが、
    クリミア半島のロシア軍航空基地の弾薬庫が大爆発!
    おかげで地上の掩体壕に格納してあった航空機 9 機も破壊された!

    で、ロシアは「原因不明」と言うし、
    ウクライナも「自分たちがやった」とは言わない・・・。
    ならば、可能性としては、
    1) パルチザン
    2) サボタージュ
    3) ロシアのおっさんが火薬庫でタバコを吸った。
    などが挙げられますが・・・。

    仮にウクライナが攻撃したとしても、
    射程距離 80 kmの HIMARS では届かない・・・。

    で、可能性が指摘されているのが、
    射程 300 kmを打てる ATACMS (エイタクムス)。
    これを放ったのでは?
    とも一部で囁(ささや)かれています。

    MGM-140 ATACMS - Wikipedia
    ATACMS  ウイキより


    ATACMS は HIMARS からも発射可能とのことなので(一発だけです)、
    可能性はあります。
    けれどもこれまでバイデンは長距離ロケットは供与しないと言っていたので、
    この方針を変えたのか、
    あるいはやはり先の「ロシアのおっさんタバコ説」が正しいのか、
    現時点では分かりませぬ。

    パルチザン~サボタージュ説は、可能性は大いにある、とも思います。
    特に南部のへルソン州でのパルチザン活動は活発なようで、
    列車の線路の破壊などだけでなく、
    高位の軍人やロシア寄り州政府要人の暗殺、重要拠点の情報提供など、
    プーチンも相当に手を焼いているようです。
    ですので、前にも指摘したように、
    仮にロシアがウクライナを併合したとしても、
    これを維持するのはほとんど不可能なのです!

    いいかげん気が付けば良いのに・・・。



    今月のウクライナ-44

    さて、アレキサンダー大王遠征の頃、
    インド亜大陸は多くの小国の集合体の状況を呈しておりました。
    その中の一つ、ガンジス川中流域に、マガダ王国というのがありました。
    マガダ王国は、当時、ナンダ朝の支配下にあり、
    ナンダ王の部下に、チャンドラグプタという名の男がおりました。
    彼はナンダ王の軍司令官でしたが、反乱を起こし、これに失敗。
    西に逃亡したところ、
    折よくここまで遠征していたアレキサンダー大王と出会うこととなります。

    で、大王自身は動くことはなかったようですが、
    たぶん、色々と援助とかしてもらったんだと思いますけど、
    チャンドラは、パンジャブ地方で軍隊を組織し、
    東方のナンダ王国に攻め込み、これを乗っ取ります。
    紀元前 321 年のことです。

    ※ここら辺の記述はプルタークによるもので(又聞きですが)、
    ウイキの記述とは異なります。

    チャンドラ王は、多くのインド象や戦車を有する強力な軍隊で
    西北インドに残留していたギリシャの軍隊をも排除して
    この地をインド化していきますが、同時に、
    ギリシャ人の傭兵を雇ったり、軍隊をギリシャ風に改造するなど、
    「近代化」に力を注ぎます。
    その結果、東はベンガル湾から西はアフガニスタン~バルチスタンまで、
    すなわち、
    アレキサンダー亡き後のセレウコス朝との境まで領土を大きく広げ、
    ここにインドの歴史上初めての統一国家、マウリア朝が形成されます。

    マウリア朝.jpgマウリヤ朝の最大版図  ウイキより


    チャンドラグプタはアーリア系ではなく、下賤の出自であったと言われてます。
    また、後に出てくるグプタ朝のチャンドラグプタとは別人ですので、
    世界史のテストでは注意が必要です。
    アッカドのサルゴンなんかも、アッシリアの同名の王様とは別系統です。

    で、チャンドラグプタ自身はジャイナ教徒で、
    その子のピンドウサーラはバラモン教徒でした。
    で、チャンドラの孫のアショカ王が仏教に深く帰依することになった結果、
    マウリア朝の版図にあまねく仏教が広がることとなりました。

    この後、統一帝国としては、クシャナ朝グプタ朝と続きますが、
    いずれも仏教を保護し、これを広めます※。
    にもかかわらず、南端のセイロン(スリランカ)を除き、
    現代のインド亜大陸では、仏教は全く振るいません。
    ※グプタ朝時代はヒンズー教が復活しますが、仏教も保護されてました。

    仏教にせよイスラム教にせよシク教にせよ、
    その教義はヒンズー教の最大の特徴であるカースト制度を否定するわけですが、
    インド人民の絶対的多数がヒンズー教徒であるという事実は、
    そこにはナンカがあるんでしょうね。

    それはナンダ!

    これ以上は突っ込みませぬが・・・。


    今月のウクライナ-43

    猛烈に暑かった 6 月のあとは再び梅雨となって一息ついてましたが、
    今週から再び熱波が再来し、ヒ~ヒ~言ってるセンセです。
    週末の日曜はゴルフの練習に行くのが定番なのですが、
    明日の上田は 37 ℃の予報・・・。
    冷房の効いた部屋で、おとなしくブログを書いてるのが一番ですね!

    さて、サカ・スキタイの連中はインドにもズカズカと侵入して行きます。
    ですので、古代インドに関しても簡単にお話する必要がある、と思いました。

    マケドニアの王、アレクサンダー大王ですが、
    ギリシャ人たちがこんなところまで進出してきたこと自体が驚きですが、
    アレクサンダー自身が
    古代インド初の統一国家であるマウリヤ朝の成立に
    直接関わっているという事実もまた、大きな驚きです。

    紀元前 2000 年前くらいから
    パンジャブ地方辺りに侵入を繰り返してきた原インド・イラン語族ですが、
    先住のドラヴィダ系の連中を追い払い、
    ガンジス川流域に勢力を拡大して行きました。

    一方で追われたドラヴィダの連中はデカン高原に進出し、さらに南下。
    土着の様々な連中と混合していきます。

    支配者となった原インド・イラン語族=アーリア人ですが、
    彼らもまたドラヴィダ人やその他の土着民族との混交を繰り返した結果、
    西方に向かったアーリア系の連中とは一味も二味も異なった
    現在の我々も良く知るところの全く独特のインド文化が形成されていきます。

    元々の先住民自体に色~~~んな連中が居たことに加え、
    まずはドラヴィダ人、次にアーリア人、北東からはお茶や稲作と共にアジア人、
    さらにはサカ・スキタイ、トカラ、イスラムと、
    色んな連中がこの土地に関与するわけですが、
    み~んな結局は多かれ少なかれインド色に染まってしまうという・・・。

    ヒンズー教のおおもとには古代アーリア人のバラモン教があるわけですが、
    古代バラモンの教えもまた土着信仰に影響され、
    大きな変質を受けて成り立っているものが現代ヒンズー教、
    ということらしいです。
    同じことは仏教にも言えるようで、
    お釈迦様が述べられたありがたいお言葉などは
    どう聞いても個人の魂の救済以上のものには思えず、
    宗教というよりも哲学や心理学に属するもののように
    センセなんぞには思えますが、
    ゴータマさんの死後、
    バラモン教や土着の神である菩薩やら帝釈天やら毘沙門天やらが加わり、
    さらには仏像を作ってこれをあがめるなど、
    大きく変質していくこととなります。

    インドラ.jpgインドラの像     ウイキより
    まことにインド風そのものですね!


    現代の我々日本人が馴染みの仏教は、
    基本、このように変質した仏教である、ということが言えます。

    それはさておき、このようなインド独特の文化に多くの近代人が魅せられ、
    その奥行きの深さというか訳の分からなさというか、
    一旦インドにはまるとナカナカ抜け出せない、
    などとも言われたりします。

    ビートルズも一時期はまり、
    Norwegian Wood」でジョージが初めてシタール演奏を披露したのちは、
    アルバム「Revolver」や「Sergeant Pepper's Lonely Hearts Club Band」に
    結びついていきます。
    で、師と仰いだバラモンのマハリシでしたが、女性問題が発覚して、
    結局は煩悩の虜(とりこ)であることが明らかとなり、幻滅して、
    「バラモン!」
    と言ったかどうかは知りませぬが、
    ここに彼らはめでたく覚醒~解脱を果たすわけです WWWW。

    現在進行形で世間を騒がせているあの宗教団体。
    アプリオリに色々と分かりそうなものだが・・・
    と、センセなんぞは思ってしまいます・・・。


    おのれこそおのれのよるべ、
    おのれをおきてたれによるべぞ。
    よく整えしおのれこそ、
    まこと得難きよるべなり。

    有名なお釈迦様のお言葉ですが、一つ質問があります。

    最後の「まこと得難きよるべなり」ですけれども、これの前に
    「よく整えしおのれこそ」と係助詞の「こそ」があるわけですから、
    末尾の「なり」は已然形の「なれ」が正しいのではないのでしょうか?

    どなたか教えて下され!