今月のウクライナ-192

お天気に恵まれた今年の春の連休でしたが、終わってしまいました。
ざまみろ!
と、いきなり大人げない言葉を吐くセンセですが、
センセは何処にも行かずに研究所の庭の整備をしていました。
で、丸一日働くと疲れて次の日は丸一日休み、
回復して丸一日働くと疲れて次の日は丸一日休み、
を連休の間ず~~~っと繰り広げておりました。
で、庭仕事はまだ終わりません・・・。
毒づきたくもなりまする・・・。

イスラエルとハマスの停戦協議は暗礁に乗り上げる公算大ですが、
イスラエル軍、限定的ながらもラファへの攻撃を開始したようだ。
バイデン政権はイスラエルへの弾薬の供与を停止するとのことだが
イスラエルはそんなことお構いなしに侵攻する可能性大。
民主党にもユダヤロビーは大きく関与しているのだろうが、
バイデン氏はリベラルの一線を踏み外すことは辛うじてないようだ。
仮にこれが以前のトランプ大統領の時代に生じたとしたら
彼はどのような判断を下したであろうか?
最近の彼は大統領選を意識してか
比較的に穏健なコメントをしばしば吐きますが、
どこまで本心なのか、疑問が生じます。
一方で、この秋の大統領選。
現行の裁判の進捗状況を見る限り、
当初考えていたよりもトランプ氏の分が悪いようにも思えます。
個人的印象ではありますが・・・。

さて、高句麗です。
仮に「朱蒙(しゅもう)による建国は紀元前 37 年説」が正しいとしても
滅びるのが紀元後の 668 年ですから、
少なくとも 700 年の間、この地に覇を唱えていたということを考えると
ナカナカの国であったと思われます。
建国当初は漢王朝に盾突いて玄菟郡(げんとぐん)を後方に追いやり、
漢滅亡後は遼東の公孫氏と争い、
公孫氏滅亡後は司馬氏の魏と争い、
その後は楽浪郡や帯方郡を攻略してこの地を奪い、
まずは朝鮮半島北部を我がものとします。
鮮卑、扶余とも争いますが、
この頃に半島中南部に勃興した百済を攻略しようとして敗れ、
帯方郡地域を百済に奪われてしまいます。
その後、391 年に即位したのが広開土王で、
その諡名(おくりな)の通り、
度重なる戦によって国土を大きく広げたのが彼の時代です。

広開土王碑や日本書紀などによれば
当時の半島に王権を及ぼしつつあったヤマトの兵ともしばしば戦い、
新羅の要請に応じて軍を南下させ、
新羅に侵入してきた倭人を駆逐するのみならず、
勢いに乗って任那の地(加羅地域)にまで進攻し、
加羅諸国の一つであった安羅国の兵も大いに打ち破ったとのことです。

こうたいどおうひ.jpg広開土王碑  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=134455486による
現在はこのような立派な建物の中で展示されているのですね!
センセの時代に教科書に載っていた写真では
野っ原にポツネンと建っていたものでしたが・・・。
朝鮮半島にあるもの、とこれまで思ってましたが、
実は中国の吉林省通化市にある、とのことです。
高句麗が中国なのか朝鮮なのかで
中韓の間でつまらぬケンカをしているそうですが、
どうでも良いですね、ホント。
狛ったものだ・・・。


広開土王の息子の長寿王の時代には版図も最大に達し、
当時の北魏(元の拓跋鮮卑)や南宋からも一目置かれる存在となりました。
長寿王は半島を南下して百済を攻め、
百済の首都である漢城(現在のソウル)を陥落させて、
475 年、百済は一旦滅ぶこととなります。

高句麗、新羅、百済の三者は、ある時は同盟して一方を叩き、
ある時は手のひらを返して他の一方を叩くなど、
ま、世界中どこも一緒ですが、そんな関係でした。

で、6 世紀ころには新羅も力をつけ、
半島を北進して高句麗を攻めるようになります。
一旦は滅びた百済でしたが、その後に復興相成り、
新羅と同盟して攻守所を変えて漢城を攻め、
551 年、これを陥落させます。
高句麗は首都を平壌(現在のピョンヤン)に移し、一旦は体制を整えますが、
倭国に使者を送ってヤマトとの連携を図るなど、
劣勢を覆すべく、一応は努力するのですが・・・。