今月のウクライナ-87

さて、「今月のウクライナ-59」でお話した五胡十六国ですが、
ようやくにしてこの時代の大混乱を収めたのが、(ずい)です。
突厥は隋~唐のいずれとも関係しますので、
まずは隋について簡単にお話し、その後に唐のお話しをします。

北魏王朝を打ち立てた戦闘的遊牧民の鮮卑族ですが、
北魏は後に東魏西魏に分かれ、
さらにそれぞれ北斉北周に名を変え、互いをライバルとし、
争うこととなります。
その後、北周には武帝が起ちますが、これがナカナカのオトコで、
中国王朝史には珍しく、質実剛健を旨とし、富国強兵にあい務めた結果、
577 年、北斉を撃つことに成功します。

この時功績のあった北周の武将の一人が楊堅(ようけん)というオトコで、
武帝以後の北周を実質的に支配し、北周最後の皇帝から禅譲を受け、
581 年、ここにを打ち立てます。おくり名は文帝
もちろん前王朝関係者は皆殺しとなりますが・・・。

隋.jpg煬帝の頃の隋の版図  ウイキより
大興城長安、東都洛陽と考えて OK です。


けれども文帝の治世はナカナカ優れたものであったようで、
我々日本人が知っている中国文化の基礎は彼から始まったものも多く、
例えば、唐の時代に世界第一の都となる長安(新長安)も彼が造ったものですし、
家柄による官吏登用を排した、いわゆる科挙(かきょ)制度を採用したのも
彼が初めてです。
さらには北魏時代に行われた均田制(きんでんせい)を採用して
民心の安定~富国強兵に努めた結果、文帝の隋は、
同時期の南朝最後の国家、を圧倒する強大な国家となりました。

で、南朝の貴族文化にどっぷりと浸っていた江南の陳王朝ですが、
588 年、満を持した隋軍の大攻勢になすすべもなく敗退し、
589 年、ここに久方ぶりに中国の統一がなされることとなります。
この時の大攻勢を指揮したのが文帝の次男で、後の煬帝(ようだい)です。

因みに、隋を建国した楊家の出自に関しては色々言われてますが、
母方が鮮卑系、父方は漢族、という説が多いようです。
父方も鮮卑だ、という説もあります。
これは唐を建国した李淵(りえん)についても同じです。
このため、北魏から唐に至る王朝を鮮卑の部族に因んで
拓跋(たくばつ)系王朝~拓跋国家」とする教科書もあるとのことです。※
※以上はウイキより

さて、質素剛健を旨とする文帝。
これに加えて
奥方の独孤(どくこ)皇后もまた色恋には厳格であったようで、
そんな二人に育てられた次男坊は
両親の前では模範的なムスコとして振る舞っていたようですが、
実はクセモノで、
長男を差し置いて皇帝になるためにあらゆる策を弄(ろう)し、
最終的には兄を殺害して皇帝の座を射止めることに成功します。
ここに、604 年、中国歴代皇帝の中でも 1 ~ 2 を争う悪帝と呼ばれる
煬帝が誕生することとなりました。

煬帝.jpg煬帝の図  ウイキより
フランクの王がどれもこれも似たようなのと同じように、
中国の皇帝も、ここまでは似たようなカンジです。
例のすだれは無くなってますね!
次の唐からイメージがちょいと変わってきます。


煬帝は、まずは洛陽の東に洛陽城と呼ばれる都の建設に着手します。
煬帝と言えば大規模な運河工事で有名ですが、
洛陽城の建設に続いて中原と江南を結ぶ大運河の建設に乗り出します。
しかも大運河は一つだけでなく、いくつも作るわけですが、
それぞれに 100 万とも言われる数多くの人夫を調達した結果、
工事による死者数もさることながら、耕す者が居なくなった農地は荒れ、
文帝夫婦が苦労して築き上げた国家財政も破綻。
さらに北方の突厥に対する長城構築にも励んだ結果、
人民の怨嗟はいや増すばかり。
周辺諸国にも外征を繰り返し、南は台湾からベトナム、
西は西域諸国に威を伸長し、煬帝、ここに得意の絶頂!
加えて人妻であろうが未成年であろうがお構いなしに数多くの美女を調達し、
盛大なる各種宴会を日夜繰り広げるというおなじみの転落パターン!
調子に乗った煬帝、最後には高句麗に三度も侵攻しますが、
その都度完膚なきまでの敗北を喫します。

程なく国内各地で反乱軍が沸き起こり、これにおびえた煬帝は、
長安や洛陽を放擲して江南の都に逃げてしまいますが、
ここでも彼は現地の美女を侍らして宴の日々を送ります。
酒と美女でひたすらに不安を紛らわせていた、
ということなのでしょうけど・・・。
で、最終的には自身の側近によって
12 歳の息子ともども殺害されてしまいます。この時煬帝 39 歳。

煬帝の殺害によって実質的に隋は滅亡するわけですが、
形式的には長安に居た隋の将軍、李淵(りえん)がこの機に乗じ、
まずは煬帝の孫を隋朝最後の皇帝に仕立て上げ、
その後すぐに禅譲させるというおなじみの茶番劇を行って、
最終的に唐朝が建つこととなりました。618 年のことです。