今月の書評-15

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みなさまこんにちは。ここ坂城でもすでに平地のソメイヨシノは葉桜となりつつある今日この頃ですが、今現在、ふもとから中腹にかけて、山の桜が満開です。
クヌギやコナラも若葉を出し始め、薄桃色の桜霞(さくらがすみ)が黄緑色に萌え始めた山肌とマッチして、とても美しい時期を迎えつつあります。
けれども残念ながら、本日は雨模様・・・。
この週末は今年初めてバイクで林道を巡って山の桜を愛でようと、柄にもなく雅(みやび)なことを企んでいたセンセでしたが、代わりにブログを更新します。
それにしても、先週の日曜は花寒だったし今週は雨だし、早く「毎日が日曜日」の境遇のオトコにならないかな、と、時折考えたりしちゃったりするこの頃のセンセですが、一方で、「センセの脳内は日々これ祝日」という一部の読者の方々からのご指摘も、あながち否定できない最近のセンセでございます・・・。

さて、今回からはしばらくDNA分析のお話をします。

DNA分析と言っても、難しいお話はしません。必要不可欠な最低の知識だけもってくだされば、全然OK です。
で、シリーズのタイトルにもあります通り、「書評」ですので、今回は関連する書籍をご紹介し、個人的な評価を下したいと思います。

今回の書評にあたって、以下の3冊の本を用意しました。出版順に、

1) DNAでたどる日本人10 万年の旅 著者:崎谷 満 初版:2008年
2) DNAで語る日本人起源論 著者:篠田 謙一 初版:2015年
3) 核DNA解析でたどる日本人の源流 著者:斎藤 成也 初版:2017年

1)はY染色体のDNA分析によるもので、2)はミトコンドリアのDNA分析によるもの、3)は細胞核全体のDNAを用いた分析による日本人起源論です。
で、それぞれDNA解析により日本人の起源を探る試み、という点では同じですが、最大の違いは用いるサンプル(=試料)が異なる点にあります。
まずはY染色体からお話していきます。

ヒトの染色体に関しては、中学、あるいは高校の生物で習うと思いますが、ここでおさらいします。

ヒトの染色体は46本あり、同じ形をしたもの同士が2本ずつ相対して23対のペアを作っています。相同染色体ですね。思い出した?
で、それぞれ23本の染色体は、一方が母親の卵子から、他方が父親の精子から受け継ぎます。受精して、計46本となりますね。
で、46本のうち、2本が性の決定を司る染色体、すなわち、性染色体で、これをXとYで表します。2本ともXXと揃えば女性、1本がYであれば男性となります。2本ともYYとなるチャンスはゼロです。分かりますか?

過度なリベラリズムに毒されたある種の社会は別として、少なくとも生物学的には、「卵子を作るのは母親」です!母親=女性ですから(リベラリストに殺されるう~~~!)、彼女はXXの性染色体を持ち、減数分裂の結果、彼女の卵子は1本のX染色体を持ちます。Y染色体を持つ卵子は存在しません。
一方の父親ですが、生物学的には(あ~めんどくさい)、XとYの染色体を1本ずつ持ってます。で、減数分裂して作られた精子には、X染色体を持つ精子とY染色体を持つ2種類の精子が、理論的には、同じ割合で生じます。
で、受精しますと、XXを持つ子供=(生物学的な)女の子と、XYを持つ子供=(生物学的な)男の子が、理論的には、同じ割合で生じます。簡単ですね!

性染色体-1.jpg

で、ここで「なぜ、ヒトの起源を探るのにY染色体のDNAを調べるのか?」という疑問が生じるわけですが、「本当は核DNAを網羅的に調べるのがベストだけど、Y染色体分析を始めた当時は技術的に困難であったから」というのが本質です。でもそれでは身も蓋もないので、次のように書いときます。

1) ご先祖を男系をたどって調べることができる。
2) 変異の頻度から導き出せる時間の長さがヒトの先祖を調べるのに適当。

弱点もあります。

1) 女系に関しては全く分からない。
2) 昔の骨からY染色体DNAを取り出すのはほとんど不可能なので、現代人に由来するDNA試料のみを用いて分析せざるを得ない。

でも、この方法で、これまで相当に詳細なヒトの「起源地図」が作成されています。また、次回で述べる予定のミトコンドリア遺伝子は女系由来ですので、両者の結果を照らし合わせてみると、ナカナカ興味深い事柄も浮かび上がってきます。だもんで、古くても結構役に立つのがY染色体DNAの分析です。

本日はここまで!


今月の書評-14

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続きです。

縄文人が土器を作り出した目的は、クリやドングリなどの堅果(けんか)類からデンプンを採るためだったと考えられます。

地面に穴を掘って保管すると虫に食われるので土器で保存、という考えもありますが、縄文時代初期の土器は底が丸い~尖ってるものがほとんどですので、単に保管のためでしたらかえって不便です。いくら縄文人だって、尖った底よりも平たい底の方が平らな地面に立てやすいことくらい分かっていたはずです www。
縄文時代にはすでに布は存在していたわけですから、単に保存が目的であれば、わざわざ手間暇かけて土器なんぞ作る必要もなく、ドングリなんかは布や細かい目の網などで作った袋に入れて吊るしておけばOKなわけです。

従いまして、丸底~尖底の土器の主たる目的は、保存というよりもむしろ、これらの堅果類を入れた後に水を加え、長時間煮炊きすることにあったと思われます。
この場合、尖った底を炉の灰の中、あるいは灼熱の石ころの中に突っ込んで煮炊きをしたのでしょう。熱の伝導性という意味では効率的だと考えられますし。

縄文土器 早期.jpg
ライフハックアナライザーさんからの頂き物です。
https://lifehack-analyzer.com/jomon-pottery/


この時注目すべきは、クリやドングリという堅果類の特徴です。

現在でも南洋諸島などではバナナや豚の肉、ヤムイモやタロイモやサツマイモなどを調理する場合、単に地面に手頃な穴を掘ってその中にバナナの葉で食材を包んだものを入れ、その上から熱した石ころを適当に投与して泥をかぶせて蒸し焼きにする方法がしばしば用いられますが、こうすればわざわざ土器など使う必要はありません。

けれどもこの料理法では、コメや麦など、細かで乾燥した固い食材を調理することはできません。コメや麦などの穀類を調理するためには、これらを粉にひいてパンや饅頭状にするか、あるいは何らかの「鍋的なもの」を用意し、水を加えてから加熱することが必要です。

縄文時代の日本列島にはバナナやタロイモは無かったので、石の蒸し焼き調理法は不可能でした。
初期の頃は、未だコメ、ヒエ、アワなどの雑穀は彼らの主たるメニューではなかったと思われます。
豊富にあるのはドングリ、椎の実、栃の実、そしてクリなどでした

クリや椎の実は別として、ドングリや栃の実は煮ても焼いても食えません。ことによるとドングリは煮た後に潰して焼いて食べたかもしれませんが、少なくとも栃の実は煮たり焼いたりするだけでは食べられません。煮て柔らかくした後にデンプンを採取し、そのデンプンを利用したと考えられます。

ドングリ類は秋にしか実をつけませんから、その時に一年分を大量に採取する必要があります。堅果類からのデンプン採取においては、採取後に煮立て、潰して炉の灰(にがり)を混ぜてアク抜きをし、大量の水で晒す(さらす)など、一連の大変にめんどな作業工程が必要となります。

この、堅果類からデンプンを採取する技術も、まさにエジソンおじさんの天才がなせる業です。どのようなきっかけでドングリからデンプンを採取してこれを食料として利用することとなったのか皆目分かりませんが、南洋でもサゴヤシの幹からデンプンを採取することが古くから行われてきたことを考えると、この植物質からのデンプン採取法というものは、世界の多くの場所において、スポラディックな形で発明に至ったのかも知れません。

仮に、堅果類からのデンプン採取が当時の家計の栄養の確保において欠くべからざるものであったとしたら、個人単位~家族単位ではなく、部族あげての共同作業が有利となったと思われます。そうなりますと、ドングリが豊かに実り、かつ水の豊富な「里山」周辺に部族をあげて定住することへの強い動機が生じますので、未だ本格的な農耕文化ではないにも関わらず、ここに本格的な定住文化が始まった可能性があります。

さらに、「今月の書評-2」でご紹介した「クロボク土」をもたらした「野焼き」ですが、著者の山野井氏によれば、蕨(わらび)の採取目的だったのでは?ということです。

個人的には、野焼きの目的を蕨に限定する必要はないと思います。
春の野からは様々な「菜」が採取できますし、また、秋になれば、定住生活を送るうえで必要不可欠となる住居の屋根を葺く(ふく)材料となるススキが大量に取れます。さらに、シカや野ウサギなどの中~小型の草食獣も増えると同時に、見晴らしが効くようになるわけですから、これらを仕留めやすくもなります。
一口に野山(のやま)と言いますが、縄文時代こそは、まさに野山から得られる自然の恵みを最大限に利用した時代であった(これに加えて海と川も)と考えられます。このような恵みをもたらす野焼きですが、これももちろん部族あげての大仕事とならざるを得なかったと思われます。

たぶん、旧石器時代人も炉を囲んで毎晩その日の戦果などの自慢話をしていたことと思います。従いまして、炉の熱で土が固まっているような状況は目の当たりにしていたことでしょう。けれどもそれを「容器」の状態にまで発展させたのは、やはり縄文時代のエジソンおじさんだと思います。また、相変わらずの移動式キャンプ生活であったなら、さすがのエジソンおじさんも土器の発明は無理だったでしょう。

従いまして、初めにドングリありき、その次に定住生活、最後に土器の発明、という順番だったと思います。

また、大型獣を狩ることから植物質の食材を利用することへの大変革は、土器の発明のみならず、石器技術の改革をも伴うものでした。
すなわち、マンモスを仕留めるのに便利な鋭利な細石刃の槍が使われなくなったのと時を同じくして、ドングリなどの堅果類をすりつぶすのに便利な磨製方式の調理用石器群が出現してきました。
さらには、恐らく弓矢もこの頃に発明されたと考えられます。
ちょっと考えてもらえれば分かると思いますが、マンモスやナウマンゾウなどの大型獣を弓矢で仕留めるのは困難です。
たぶん、狩りの対象が、大型獣からイノシシやシカなどの中~小型獣へと変わったことが、槍から弓矢への変革を生んだ可能性があります。
もちろん、旧石器時代から引き継がれた様々な罠(わな)の技術もまた、中~小型獣向けに改良を加えられ、より発展していったに違いありません。

細石刃技術といいデンプン採取法といい釣り針や弓矢の発明といい、我々のご先祖様はまことにあなどれません。
弥生時代や近代の産業革命、現代のAI に代表されるデジタル革命もさることながら、縄文時代の幕開けもまた、大技術革新の時代であったと言っても過言ではないと思います。



では本日はここまで!
次回からは、いよいよ縄文人のDNAを調べちゃったりします!


今月の書評-13

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みなさまこんにちは!ここ、坂城は、本日は花寒の一日となりました。
近くの御堂川のソメイヨシノは今が満開。たまにはお花見にでも行こうかな?と考えていましたが、寒いので、外出はやめて代わりにブログを書いてます。

寒いと言えば、今からおよそ2万年くらい前、大陸と地続きとなった北海道にアイヌのご先祖さまがマンモスを追って渡ってきた頃は、現在よりもよっぽど寒い「氷河期」と呼ばれる時代でした。お花見どころではありませぬ。
で、細石刃と呼ばれる最先端の技術でマンモスなどの大型獣を狩って生活していたわけですが、時代も1万年くらい前となりますと、さしもの氷河期も終焉を迎え、温暖湿潤な時代を迎えることとなりました。

そうなりますと、これまで多くのマンモスを育んできた草原も急速に森林化していくこととなります。特に日本列島の場合、対馬海峡~津軽海峡~宗谷海峡~間宮海峡が完全に開通し、これまで地中海のような内海であった日本海が太平洋やオホーツク海と繋がることとなりまして、列島は完全に大陸と縁を切ることとなったと同時に、これまで太平洋岸を洗っていた温かい黒潮が対馬海峡を通って日本海を北上することとなりましたので、日本列島は太平洋岸、日本海岸共に暖流が流れる世界でも有数の温暖湿潤な地域となっていきました。

一方でマンモスにとってみれば、食べ物が豊富な草原は縮小するし、厚い毛皮を脱いで団扇で仰ぐことも出来ません。時代の変化に合わせて急速に進化してインド象みたいになることができたならば現在でも日高山脈の奥地とかに生き残っていたかも知れませんが www、残念ながら間に合わず、絶滅してしまいました。時代の変化に適応できないものは、退場せざるを得ません。
ことによると、当時の旧石器時代人の細石刃の槍が、最後の一頭のとどめを刺したのかもしれません・・・。

で、定住することもなく、マンモスの移動に合わせてキャンプしながらほぼ完全に大型獣に依存した生活を送っていた旧石器時代人ですが、やはりそこはホモ・サピエンス、環境の変化に合わせて自分たちの生活スタイルを変え、生き残りを図りました。ここがマンモスとは違うところですね!
最大の変化は、動物由来の食生活から植物由来の食生活へと大きく舵を切った点にあります。

恐らくたぶん間違いなく、マンモスの肉を食べていた連中だって時には植物由来の食物を食べることだってあったでしょうし、また、たまには魚だって食べたと思います。でも、一頭倒せば仲間全体で何日も(何十日も?)過ごせたであろうマンモスの肉ですから、これを狩っておりさえすれば魚の取り方を一生懸命考える必要はなかったでしょうし、ましてやどの植物の実が食べられるかに関して命を張って取り組む必要もなかったことでしょう。
けれども今やそんなこと言ってらんない状況です!

で、連中、手あたり次第に大型獣の肉に代わる食べ物を探し始めた。

マンモスなどの大型獣からイノシシなどの中~小型獣へ、川を遡上するサケなどの魚、海岸の貝類などなど、ここら辺の目録は簡単に想像できますよね!
川を遡上するサケは手づかみ、あるいは銛(もり)などでも捉えられますが、ある日とうとう釣り針を発明した!

世界最古の釣り針が、先年、沖縄の洞窟で発見されました。およそ2万3千年くらい前と見積もられているので、時代はまさに旧石器文化たけなわの頃です。そうしますとマンモスの絶滅とは関係なさそうですし、加えて、見つかった「釣り針」の形状から「釣り針じゃなくってイアリングだ!」という意見も根強いので、実のところナントも言えません。が、一つ確かなのは、釣り針を用いて魚を捕る方法はおおよそ旧石器時代の晩年頃に世界各地で発明された可能性がある、ということです。

釣り針.jpg
写真は沖縄県立博物館由来のものです。
釣り針・・・うムムム・・・ナントも・・・。


漁網の証拠は当然見つかりませんが、漁網用に使われたと思われる重しの石などが多く見つかっています。
さらにマグロなど、海の大型の魚を捉えるための銛などにも画期的ともいえる多くの工夫がなされていくこととなりました。

そして最終的に、植物由来の食物を最大限に利用する工夫がなされることとなりました。それが「土器」の発明で、ここからいよいよ日本列島において、あの岡本太郎氏が「芸術は爆発だっ!」と絶賛するところの縄文文化が花開く時代となっていきます。でもほどなくして南九州で再び本物の「大爆発!!!」が生じるのですが、それはまた後程に・・・。



今月の書評-12

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スゴイニュースが飛び込んできました!
ナント、御年88歳になられる女性が博士号を授与されたということです!!
それも縄文時代の布の研究で!!!

彼女の名前は尾関清子さん。
報道によれば、縄文時代の土偶表面の模様から縄文時代の衣服に興味を持ち、研究を始めたのが昭和から平成に変わった年。
以来、積極的に日本全国の縄文遺跡を飛び回り、およそ800点以上にものぼる遺品を調べた結果、すでに縄文時代には様々な織り方が存在し、豊かな服飾文化を有していたことを明らかにしました。

いやあ~、素晴らしいですね!こういうニュースを聞くと、ナンカ、センセの場合、お尻をけ飛ばされたような気がします。60ン歳なんて、まだまだ鼻タレ小僧でござりまする・・・。


さて、こちらは未だ旧石器時代。
でも、縄文の夜明けも間近なころです。

細石刃文化を北から持ち込んだアイヌのご先祖さまが北海道から南下し、在来の東北系旧石器時代人と混合。中部地方に至ります。
一方で、同じく細石刃文化を有する新規旧石器時代人が朝鮮半島を経て姶良カルデラの大爆発の粉塵すでに収まった九州に至り、徐々に東進して行きます。
両者とも、細石刃文化を大陸ですでに習得していた人々が移住したのか、あるいは文化そのものが伝播しただけなのかは分かりません。
いずれにしましても、この北方由来の人々と、東北地方の生き残りの人々、そして半島から新たに渡ってきた人々とは、遺伝子的にも文化的にも、共通する点もあったと同時に異なる点もあった、と考えるのが自然です。
そしてその異なる点が、後々、今の時代に至るまでに連綿として続く、日本列島で認められる東西文化の微妙な違いに反映されている、というのが、センセの妄想でございます。

さて、そのように優れた細石刃文化もほどなく終焉を迎えます。そしてそれとほぼ同時期に、あの縄文文化が生まれました。両者を隔つ(へだつ)もの、そこには一体何があったのでせうか???


そもそも細石刃文化を頂点とする旧石器時代の文化は、大型獣に生活の基盤を負う、非定住性の文化でした。細石刃技術を用いた鋭利な武器も、分厚い皮膚を有する大型獣を効率よく倒すために生み出された方法です。
マンモスやオオツノジカの生態などは皆目分かっておりませんが、現代のアフリカサバンナの大型獣の行動などから推測して、彼らは広い縄張り内で季節的な移動を繰り返していたと考えられます。従いまして、ハンターである旧石器時代人はこれらの大型獣と行動を共にする必要上、定住は不可能でした。その結果、重くて割れやすい土器のような「家財道具」は、無用の長物であったと思われます。

当時の旧石器時代人の生活状況は、ちょうど昔の北米インディアンの生活によく似たものであったと思います。
北米インディアンにも色んな連中が居りまして、森林に住んでいたもの、湖畔に住んでいたもの、北西海岸で漁労を中心とした生活を送っていたもの、南西部で農業を行っていた連中、南部沼沢地で生活していた連中など様々ですので、一概には言えませんが、いまここで想起するのは、いわゆる草原インディアン、西部劇でおなじみのスー族とかシャイアン族とかコマンチ族とかの連中です。
彼らは広い草原(プレイリー)におびただしく生息していたバイソン(アメリカバッファロー)にほぼ完全に依存した生活を送っておりました。有名なティピーと呼ばれる折り畳み式のテントに住み、部族間での小競り合いを繰り返しながら、移動生活を送っておりました。
主食はバイソンの肉ですが、草原で採れる野生のカブなどもよく食べていたそうです。カブなどを食べる時は煮炊きをする必要がありますが、その場合はバイソンの皮で作った「皮の鍋」に水を入れ、下から火をくべて煮ておりました。

こんな感じです。

皮の鍋.jpg
近くで農耕を営み、定住生活を送っていたプエブロインディアンなどはアナサジ文化と呼ばれる優れた文化を発達させ、美しい文様が施された土器などを多く使用していたわけですから、草原インディアンが土器を知らなかったはずがありません。ただ単に彼らの生活スタイルには不適格であったため、採用されなかっただけの話です。

では、我が国の旧石器時代人はなぜ細石刃技術を捨て、土器を作り始めたのか。おおよそ見当がつくかと思います。

本日はここまで!