今月のウクライナ-36

紀元前 1600 年ころには中央アジアはイラン系の印欧語族によって占有され、
本家本元のイラン系はここから南下し、その後、長きにわたり、
現在のイランの地に系統の異なる王国を幾度となく打ち立てることとなります。
イラン=アーリヤであることは、皆さん、当然ご承知ですよね?
同じころにバルカン半島を南下していった印欧語族は、
現在のギリシャの地にミケーネ文明を作り上げることとなりますが、
これらの東地中海の文明は、「海の民」と呼ばれる連中が大暴れしたために
ヒッタイト帝国と共に滅亡してしまいます・・・。

で、ヒッタイトに代わって中東を支配したのが、
あの残酷きわまる圧制で有名なアッシリア帝国です。

アッシリア.jpgアッシリア帝国の版図の推移 ウイキより


アッシリア人はシュメールの昔から
チグリス~ユーフラテスの上流域に住んでいたセム系の民族で、
ミタンニやヒッタイトが強勢の頃は、これらに従属しておりました。
ヒッタイトが海の民によって滅ぼされると一気に隆盛となり、
手始めにバビロニアのカッシート王朝を滅ぼし、
鉄製の武具、戦車、馬の三点セットを駆使して中東の覇者となりました。
で、覇者となったは良いが、その統治の仕方が残酷で、
紀元前 9 世紀ころの「恐怖王」、アッシュルナシルバル二世などは、
反乱を起こした都市に対しては女子供委細構わず残虐な方法で皆殺し・・・。
後のモンゴルやドラキュラ伯爵も思わずちびってしまうような
トンデモないオトコだったようです。

アッシュルナシルバル二世.jpgアッシュルナシルバル二世のレリーフ ウイキより


また、アッシリアは、
反乱を起こした都市住民を他の場所に強制移住させた点でも有名です。
これは現在のプーチンも行ってますが、
最も有名なのがソ連時代のスターリンによる移住政策であり、
今現在のウクライナ問題の原因の一つにもなっています。
19 世紀のアメリカにおける対インディアン政策も同様です。
また、日本のヤマト政権も、蝦夷(エミシ)の反乱に対して、
同じような強制移住策を採用しています。
これらはいわゆる「同化政策」ということで、
歴史上、あるいは現在でも、しばしば見られる政策です。

その後アッシリアはいよいよ勢いを増し、紀元前 8 世紀ころには
全バビロニアを手中に収め、
前 7 世紀にはエジプトに進攻して首都メンフィスを陥落。
その後にはさらに上流のテーベを壊滅し、
メソポタミアからエジプトにまたがる大帝国を築き上げることに成功します。

アッシリア帝国は国民皆兵性を採用した軍国主義の国であり、
当時の中東において比類なき大帝国を確立したわけですが、
東方のイラン高原で勢いを増してきたイラン系の新興国であるメディア王国、
バビロニア最南部で興ったアラム系の新バビロニア王国、
さらには、北から侵入してきたスキタイ人によって、
前 612 年、滅ぼされてしまいます。
この時、アッシリアの圧制から解放された全中東の人々からは
祝福の嵐が巻き起こった、と言われています。

メディア.jpgイラン系の人々による最初の王国、メディア王国 ウイキより



今月のウクライナ-35

漸く 7 月が始まったばかりなのに連日の猛暑!もうしょがないっ!
って、天を仰いで罵る毎日ですが、ホント、体も可笑しくなってきてます。
血圧が下がってフラフラする・・・。
この後 2 ヶ月半も続くかと思うと、、、、、、どうしますかね?
若いころは夏休みともなれば日焼けしたさにわざわざ二階の屋根に上って
上半身裸になって仰向けになってグラサンをかけてコパトーンを塗って
直射日光を浴びまくるという若者特有のバカなことをしてたもんですが、
やっぱり若者とバカ者とは近い言葉なんだなあ~と、
我が身をもって思い知らされる遥か昔に還暦を迎えたセンセです。

で、エルドアン、漸くスウエーデンとフィンランドの NATO 加盟を了承した。
しぶといオトコだね、ホント。
ま、日本のように、
国内での独立運動やテロリズムとは無縁の連中がとやかく言うべきではない、
とは思いますけど・・・。
一方でこれに加え、
ロシアがカラフト油田開発の日本側権益を接収する動きが出てきた。
英国が見切りをつけて逃げ出した時、センセは、
「日本もさっさと損切しないと人質に取られる可能性があるぞ!」
と思っていたら、ホントにそうなった。
ま、今回のウクライナ戦争を教訓として
日本人も漸くのこと現実を直視できるようになればこれはこれで・・・、
ということなのかな?
ウクライナの戦況においては、ウクライナ側が例のヘビ島を奪還した。
一方で、東部戦線に進捗は見られない。
※本日(7/3)、東部ルガンスク州をロシアが全域掌握、との報道が!
ロシアのミサイルは民間人施設ばかり直撃してるが、
意図的なものなのだろうか?
それとも精密誘導が出来ないために誤爆してるのだろうか?
戦争が長期化することで、ロシアには何らかの利する所はあるのだろうか?


さて、中東あたりに印欧語族が侵入してドタドタやっていた頃、
連中は遠く東アジアにも足を延ばし、古代中国にも大きな影響を与えました。
ここら辺の事情は過去ログ「今月の書評-575877」に詳しく書きました。
現在読んでみても我ながらナカナカ良く書かれてますので、
是非、再度、お目を通して下され。
特に「」の国が使用していた戦車などは
前身にあたるような代物(しろもの)はこれまで中国国内では見つからず、
いきなり全くの完成品がゾロっと殷墟に登場するわけですから、
中央アジアのステップを通ってはるばるやって来た印欧語族の遊牧民連中が
戦車と戦馬一式、丸ごと伝えたのは明らかです。
伝えただけでなく、使用法、馬の種類、メンテナンスなども
教えなくてはならなかったはずですから、
たぶん、マリアンヌみたいな傭兵連中が居た可能性も大有りです。
加えて、
王の死去と共に戦車+馬+御者+お付きの者たちを殉死させるというしきたりは、
クルガン墳墓と共に当時の印欧系遊牧民の間で広く見られた風習なので、
これらの文化と共にワンセットで伝わった、と考えて間違いないと思います。

一方で、当時、中原まで進出した印欧系の数は多くは無かった、
とも思います。
と言うのは、その後に春秋戦国時代となりますが、
これを統一したのが秦の始皇帝であるのは皆さま良くご承知のことで、
この「秦」部族は元々は
中原から西戎(せいじゅう)とも呼ばれていた遊牧民の一つであった、
とも言われてます。
で、始皇帝が死んだあと、巨大な墓地が作られ、
そこから兵馬俑(へいばよう)と呼ばれる当時の秦の兵隊を模した
等身大の焼き物人形が数多く出土しましたが、
これらの一つ一つが当時の秦の兵隊の生き写しでありまして、
それがみんな普通の中国人の顔をしてます。

兵馬俑.jpg色付けされた兵馬俑  ウイキより
口ひげを生やした普通の中国人です。ニイハオ!

たまに「秦の始皇帝は欧州系だった!」的な
センセーショナルなことを書いてるブログに出会いますが、
たぶん、間違ってると思います・・・。

今月のウクライナ-34

今月のウクライナ-1今月のウクライナ-19でお話したカリーニングラード、
バルト海に面するロシアの飛び地ですが、
ここに来てきな臭くなってまいりました!

カリーニングラードは、その昔は東プロシアと呼ばれていた地域であり、
第二次世界大戦後にソ連領となりました。
その後にバルト三国がソ連から独立した結果、
現在ではリトアニアを挟む形で飛び地となってしまいました。
ドイツ時代にケーニヒスベルクと呼ばれていた古都市があるところです。

このケーニヒスベルクから一歩も外に出ることなく一生涯住み続け、
思考に思考を重ねて大作「純粋理性批判」を書き上げたのが、
知の巨人、エマヌエル・カントです。
センセもミッション系の豪徳寺幼稚園を卒園する頃には
四書五経と共に「純粋理性批判」を諳んじておりました。
「ジュニア版-なぜなに純粋理性批判-村岡花子訳」というヤツでしたが・・・。
ウソですけど・・・。

因みに、エマヌエル・カントの奥さんはエマヌエル夫人です。



・・・さて、原印欧語族の第二派が拡散する時代も後期となりますと、
原インド・イラン語から派生したイラン系の連中が勢力を伸ばして
黒海北岸から中央アジア一帯を席巻し、さらに南下して行きます。
結果、追われたインド系の連中はインダス流域の都市国家群に侵入し、
これらをテッテ的に破壊!
ガンジス川に沿って北インドに侵攻~定住することとなります。
追われたドラヴィダ人はさらに南下して先住民らと交雑し、
さらには新たな侵入者のアーリア系文化なども取り入れて、
現在の南インドの文化~風物の原型を作り上げていきます。

イラン系から西に逃れた原印欧の連中は欧州各地に拡散し、
ケルト、ゲルマン、ノルマン、スラブなどに分化していきます。
これが原印欧語族の第三波となります。

この頃、東地中海では「海の民」と呼ばれる雑多な連中が勢いを増し、
エジプト、ギリシャ、アナトリアの古代国家に大攻勢をしかけます。
これがために、さしものヒッタイト帝国も滅ぼされてしまいます!
これらの雑多な「海の民」がどのような連中であったか
はっきりとは分かっていないようですが、
原印欧語族の拡散によって南欧州に先住していた連中が海に押し出され、
定住先を求めて大移動した結果なのではないのか?
と、個人的に考えてますが・・・さて・・・。

海の民.jpg「海の民」の侵入経路:ウイキより
ここでは記されていませんが、エトルリア人など、
イタリア半島やシチリア、サルジニアなどの島々から参加した
印欧語族に属さない連中が多くいたようです。
また、旧約聖書に登場するペリシテ人なども参加とのこと。
現在のパレスチナの名前の由来となった連中です。
この時の侵略の結果、パレスチナ周辺に国家を築き上げ、
後のユダヤ人の最大の敵となります。

因みに、現在のパレスチナ紛争とは全く関係ありませぬ。

海の民-2.jpgエジプト、ラムセス三世のレリーフに描かれた「海の民」との闘い:ウイキより




今月のウクライナ-33

紀元前およそ 1600 年くらい前になりますと、
原印欧語族の第二派が黒海北岸から南下して参ります。
一派はバルカンを伝って現在のギリシャに至り、ミケーネ文明を築き上げます。
他の一派はコーカサス山脈東岸を渡り(別の説あり)、
前回お話したフリル人の王国、ミタンニで雇われ兵士となります。
さらに他の一派はインド方面に向かい、
例のインダス文明の地に侵入して行きます。

原印欧語族 第二派の拡散.jpgこの時代の中東~インドの状況


この時代より少し前まではインド語とイラン語はほとんど同じだったようで、
これを原インド・イラン語と、とりあえず呼んでおきます。
で、原インド・イラン語を話す連中は中央アジアに拡散していったようですが、
その後、インド語系の連中とイラン語系の連中とに分かれたようです。
で、連中は自分たちのことをアーリア人とか呼んでおりました。
アーリアとは「高貴なヒト」を意味する言葉でして、
大体昔の連中は、どんなジャングルの奥地に住んでる少数部族でも、大概、
自分たちこそ世界の中心民族であり他の連中はサルも同然!
と思っておりましたので、
彼らがアーリアと自称したところであ~りあそうですか、実はうちもですよ!
と請け負っておれば良いだけでして、
それを本気になって信じてしまうと
本家本元のアーリア系であるジプシー(ロマ)を
アーリア政策のもとに収容所に送ったヒトラーのようになるだけでして、
ま、人間、ホントに実力があるなら謙虚であるべき、
というのがヨロシイかと・・・。

で、この古いインド語を話す連中ですが、
その一派がミタンニ王国の傭兵となり、
さらにはミタンニの支配階級にまで上り詰めます。
自称「マリアンヌ」という可愛らしい名称の連中だったのですが、
マリアンヌというのは「戦士~勇者」という意味らしいです。

よッ!マリアンヌ!

このミタンニ王国は前回お話したヒッタイト帝国の東にあった国で、
元々の支配者はフリル人という連中でした。
彼らはセム系でもなさそうで、要するに所属先不明の民族です。
それはともかく、彼らマリアンヌは馬と戦車の専門家集団であり、
これを駆使して一躍支配階級にまで上り詰め、
同じく馬と戦車を駆使したヒッタイトの連中と干戈を交えたのでした。

で、さらに興味深い点は、このマリアンヌの連中は、先に述べたように
同時代にインダスに侵入して行ったインド系アーリア人そのものだったらしく、
同じ言語を話していただけでなく、同じ神々を崇拝していた、という点です。
残された楔形文字が刻まれた粘土板から、
古代インド語と同じ数詞、同じ神々の名前などが解読されてます。
従いまして、図で示したように、
一派はコーカサス山脈を越えてミタンニ方面に進出し、
他の一派はアフガニスタン方面からインダス流域に進出した可能性と、
元々は黒海北岸から中央アジアに進出したのだけれども、
その後に分岐したイラン系の連中とケンカして南下を始め、
二手に分かれた可能性もあるわけです。

いずれにしましても、
古インド語を話す連中がメソポタミアに存在していたのが興味深いだけでなく、
両者共に馬と戦車を操ることに長けていた点もまた、大変興味深いです。

一方で、原印欧語族の第二派の連中には、
黒海北岸からバルカン半島を南下していった連中がおりました。
彼らは当初はクルガン的文化を維持していたようですが、
その後、アナトリアの先進的な文化に影響され、
ほどなくミケーネ文化を作り上げた、いわゆる古代ギリシャ人となります。

今月のウクライナ-32

個人的な感覚ですが、プーチン、東部確定で手を打つような気がします・・・。
ホントのところはもちろん分かりませんが・・・。


さて、遊牧生活にも慣れ、スポーク付きの馬車も発明した原印欧語族ですが、
その第一波が東と南に向けて移動を開始します。
大体、紀元前 3000 ~ 2000 年くらい前の頃です。
東に向けて旅立った連中は現在のタリム盆地辺りを拠点とし、
たぶん、もっと東に向けて拡散していった可能性もあります。
南に行った連中は、
急峻なコーカサス山脈を横切ったのか船で黒海を渡ったのかは不明ですが、
アナトリア地域にたどり着き、定着します。

前者がトカラ人で、後の中国史に登場する月氏(げっし)国を作り上げます。
後者は、その後にアナトリアの地に、
強力な軍事国家、ヒッタイト帝国を作り上げます。

トカラとヒッタイト.jpg原印欧語族の拡散第一波:スポーク付き馬車の発明により可能となりました。
でも、馬車はコーカサス山脈を越えられたのでしょうか?
ヒッタイトは移住した当初はそもそも馬車を持っていなかったが、
移住先で車を知り、これを改良して馬に引かせ、馬車とした、
という説もあります。


今月の書評-55」で楼蘭の美女を紹介しましたが、
彼女がまさにトカラのヒトです。も一度載せときます。

楼蘭の美女.jpg乾燥したタクラマカン砂漠の気候のおかげで、
生前の面影をそのままに留めたまま、ミイラとなりました。
トカラの人たちは黒海~カスピ海北岸からはるばる東進してきました。
中央アジアにもトカラ居たのではありませぬ・・・。     ウイキより


月氏と言う名前に関して、相当に興味深い説があります。

中国の史書で登場するこの言葉は、中央アジアのとある民族を指す言葉です。
で、大月氏とか小月氏とかいろいろ書かれてますが、
大とか小はいくつかあった月氏を区別するための言葉です。
で、その民族を表す言葉は「月」そのもので、
これは当然音読みでは「げつ」あるいは「がつ」、
訓読みでは「つき」と読みます。
「げつ」と「つき」、全然違いますよね!

ところが、近年の言語学的研究から、古代中国においては、
「月」は「tokwar」と発音されていた可能性が指摘されてます。
tokwar ~ tokar ~ トカラ!!!
さらに、tokar ~ tuku ~ つき!!!!!

このブログで度々紹介しております言語学者の金平譲司氏も
ご自身のブログの中で度々
「日本語そのものだと思われていた訓読みの言葉の中には
古代中国語に由来するものが数多くある」
事を指摘されてます。

全く驚かされます!


さて、「今月の書評-55」の中で 1 点、誤解を招く記述がありますので、
以下、書き直します。

誤解を招く記述 →
因みに、騎乗馬の習慣はモンゴルで生まれました(wikiより)。」
書き直し → 「現在のモンゴルで出土した遺跡から、
騎乗馬の習慣はこの地まで進出していた印欧語族によって発明され、
ここから逆に西に向けて拡散していったのでは?と言う説があります。」

「今月の書評-55」の中では「今月の書評-41」がリンクされてますが、
その中でも 1 点、間違いがありますので、この場で訂正いたします。

誤りの記述 → 「クルガンと呼ばれる騎馬民族集団」
訂正 →「クルガンと呼ばれる墳墓形式を伴う騎馬民族集団」

その他、過去ログではいくつか単純ミスなどもありますが、
ほっかむり~知らんぷりして続けていきます!

「ヒッタイト」と言う言葉は、
そもそもこの地に移住した原印欧語族を表す言葉ではなかったようですが、
いつのまにやら彼らの名前として認知されてしまったようです。

アナトリアに移住した初期のヒッタイト人は
この地にあったセム系の連中の王国に傭兵として雇われていましたが、
馬を扱うことに長けていたためか、たちまち頭角を現し、
ヒッタイト帝国という強力な国家を立ち上げることに成功します。

ヒッタイト帝国最大版図.jpgヒッタイトの最大版図:紀元前 1300 年くらい前です。 ウイキより


その後、すぐ東にあったミタンニ王国と戦争に入ります。
このミタンニ王国はフリル人と呼ばれる系統不明の民族の国でしたが、
連中も印欧語族系の傭兵を雇っておりました。
彼らに関しては次回にお話する予定です。

で、ヒッタイトの連中は鉄製の武器と二頭立ての戦車を駆使し、
アナトリア全域を支配下に置き、さらにはエジプトにも侵攻するなど、
アッシリア帝国誕生前の中東の覇者となりました。

ヒッタイトの戦車.jpgこれはエジプトのレリーフに描かれたヒッタイトの戦車です。 ウイキより
二頭立ての二輪戦車に三人乗り、と言うのが良く分かります。
牡馬(おすうま)であることが明瞭ですね WWW !
しかも去勢もされていないようです。

去勢していない牡馬の二頭立て!
相当に御し難かった(ぎょしがたかった)のでは?

今月のウクライナ-31

ここに来てロシア軍、自軍の強みを漸く認識し始めたようです。
旧型だろうが何だろうが数で押していけば良い!ということです。
あらゆる砲を東部の要衝に一極集中させ、猛烈な砲撃を浴びせているようです。
もちろん通常弾で・・・。
ウクライナ軍、人員の消耗が激しいようなので、
ここは一旦撤退して、策を練り直さねばなりませぬ!

さて、ホンコの遊牧民とは
従来の半農半牧半狩猟的生活様式を捨てて大規模な遊牧化に特化した人々、
ということですので、
いわば「単一作物栽培に特化した農民」的な性格があります。
すなわち、自分たちが産するモノだけでは生活が成り立たないので、
自分たちが産するモノを自分たちが産しえないモノと交換する必要があります。
その意味で、周りの農民や都市住民との交易が重要となってきます。
周りに古代国家のような巨大消費地が存在すれば、
自分たちが産する毛皮、羊毛、肉、チーズやバターなどの需要が増します。
すなわち、遊牧民が歴史に登場するような遊牧国家を打ち立てるためには、
始めにメソポタミア、インド、中国などの古代国家ありき!
ということなのです。
その意味で、ユーラシア大陸中央部においては、
遊牧民=交易民、のニュアンスをまずは獲得することとなります。
始めから「侵略的」であったわけではないようです。

これに加え、原印欧語族による馬の家畜化が重要となってきます。
また、中東でまずは発明されたと考えられる初期の車を改良し、
スポーク付きの車輪を持つ「馬車」を発明、あるいは「進化」させたのが彼ら、
と言われてます。
さらに、騎乗による馬の制御を始めたのも中東と考えられていますが、
現代でも見られるような、ハミによる馬の制御法を開始したのは彼らです。
これらの機動的な移動法の発明により、歴史上初めて、
広大なステップをまたにかけ、羊などの家畜を管理しながら
遠距離まで自由かつ速やかに往来したのが彼ら、ということです。

シュメールの馬車.jpgシュメール時代のロバ車 スポークは未だ発明されていません。
ロバの背中に付いているのは何でしょうかね?
ねじ式のロバ、だったのでしょうか?     ウイキより


スポーク付きの車輪.jpg紀元前 1000 年より前と考えられているスポーク付き車輪 
現在のイランから出土しました。 ウイキより


彼らにはもう一つの特性があります。それは、
血縁や精神的紐帯(ちゅうたい)に基づいた強固な社会組織の形成
ということです。
容易に想像できると思いますが、
数家族単位でも数千頭は必要となる家畜を追って移動を続けるのが遊牧民、
ということですので、
当然、これらの家畜を食べさせていくには広大な土地が必要です。
で、遊牧民は彼らだけではないでしょうから、
良い土地や水場の奪い合いが生じます。

稲作農民の水争いみたいなものです。

で、相手方に対抗するためには強力な組織が必要となってきます。
相手方を蹴散らすために、馬を用いた軍事力も進化していきます。

図らずも「蹴散らす」という言葉が自然に出てきましたが・・・。

戦車、騎乗、短弓、短剣、ズボンとブーツ、そして強力な「王」と、
自らの命をもって彼に付き従う忠実なる一群の「戦士」が生まれます。

ここに漸く「戦闘的遊牧民」が完成することとなりました!






今月のウクライナ-30

原印欧語族の連中が世界史に華々しく登場するためには、
半狩猟半農半牧畜半遊牧生活なんちゅうまだるっこしい生活様式を
送っていたのではいけませぬ!
ここはやっぱり遊牧民、特に戦闘的遊牧民になってもらわねば
世界史の先生たちも困ります!

ということで、
今回は半農半牧畜から完全遊牧に移行する過程を考えてみたいと思います。

モンゴル平原.jpgモンゴル平原 China Highlights 様より 
https://www.arachina.com/inner-mongolia/


よくよく考えれば、日本という国においては、縄文~旧石器の昔から、
ただの一人も遊牧民と呼ばれる人々は存在しませんでした。
放牧を生業とする方々は、古来より日本にもたくさん居ります。
遊牧と放牧、まずはいったいどこが違うのか?

遊牧は戸外のオープンスペースで家畜を育て、
そこに自然に生えている草本類を与えて飼育し、
その結果得られる乳や毛や肉などを利用して生活する様式です。
従いまして、家畜に合わせてヒトが移動します。

放牧は、基本的に、小屋などで家畜を飼育して飼育主が餌を与え、
ときおりは、限定的ではあるが一定の広がりを持つ牧場などに家畜を放ち、
そこに自然に生えている草なども与えて育てる、
という違いでしょうか。
従いまして、放牧においては、ヒトも家畜も定住します。

近代的な土地所有の概念の有無、というのも、
遊牧と現代の大規模な放牧事業を分ける点であるかとも思います。

ちょいと考えてみれば分かると思いますけど、
遊牧って、非常に大変な生き様です。
羊にせよ牛にせよ何にせよ、基本、これらは「元手(もとで)」です。
これを屠って(ほふって)肉として食べるのは元手を失うことを意味します。
ですので、基本、元手に手を付けるのは、
お祝いのときとかお客様が来た時とかの、特別な場合に限られます。
もちろん、余裕のあるときは肉の余剰も生まれるでしょうけど・・・。
普段は「利息」、すなわち乳や毛、ある部族の場合は「血」や「尿」も、
利息として彼らから分けてもらい、それで生活するわけです。
で、人間を一人養うために必要な家畜の数を考えると、
センセが考えたのじゃなくて専門家の方が考えたのですけど、
羊の場合で一人当たり最低 50 頭、一家族で 200 ~ 300 頭は必要で、
「も少しゆとりのある生活をしたいわ~」
と奥さんにせがまれた場合は 500 頭レベルに跳ね上がる、とのことです。

で、一家族で暮らすわけにもいかないですから、
数家族が身を寄せ合ってグループを作る場合は、
以上の数値は一気に数千頭の単位となってしまいます。
これらの数の家畜を養える土地というものがどういう場所なのか、
もうお分かりかと思われますが、ユーラシア大陸においては、
中欧ヨーロッパからウクライナを通ってモンゴル平原を抜け、
最終的に満州平原に至る、あの広大な土地しか適所はありません。

で、遊牧民だって別に遊牧しなくても良かったんじゃないのか?
と考えるのも合理的だと思います。
しかしながら、上記ユーラシアの大草原、いわゆるステップですが、
基本、降雨量が少ないので、少なくとも古代においては、
作物栽培は不利~不可能でありました。
従いまして、遊牧をするか、
従来通りの半狩猟半農半牧畜的生活を継続するか、
選択を迫られた状況があったのじゃなかろうか、と思います。

で、家畜の数だけでなく、
そもそも乳や毛や血などの利息を利用するアイデアは
「牧畜」において生まれた、と考えられています。
現代人にとって牛乳とはスーパーに行けばいつもあるものですし、
センセを含めたちょい昔の方々にとっては
「朝起きて玄関先で新聞と一緒に持ってくるもの」のイメージです。
しかしながらよくよく考えると、
お乳って、子供が生まれたら出るものです。
牛も羊もヤギも馬もヤクもラクダもヒトも、皆同じです。
ですので、
一年を通してお乳を得るためには家畜の交配に関する知識と技術が必要で、
これに加えて、生まれた子供に飲ませると自分たちの分が無くなる一方で、
子供に飲ませなければ家畜の数は増えないわけでして、
微妙な手加減が必要とされる、ジレンマの局面です。

これらの知識と技術は牧畜の発明によってまずは得られたようで、
ステップの大草原を利用してこれを大規模化したのが遊牧、
というのが正解のようです。
ですので、まずは農業が発明され、
次に麦藁(むぎわら)などの有効利用を考えた結果、牧畜が発明され、
牧畜も初めは犂(すき)や荷車を引かせるために牛やロバなどが飼われ、
次に牛やヤギの乳を飲用として利用することを考え出し、
さらには羊の毛や肉を利用し始め、
最後に、当時の農耕にはあまり適していなかったが
家畜の餌としては有効な草本類がただで無尽蔵に得られるステップにおいて、
最終的に牧畜の大規模化である遊牧が行われるようになった、
という流れが考えられます。
考古学的にも、この順番が裏付けられているようです。






今月のウクライナ-29

狩猟採集民であった原印欧語族の連中は当初は農耕~牧畜を受け入れず、
相変わらずの狩猟生活を送っていたらしいのですが、
やがてそのうち受け入れ、麦と牛を主体とした農牧生活を開始しました。
おおよそ紀元前 5000 年くらい前のこと、と考えられています。

その後、紀元前 4000~3000 年くらいになると銅器~青銅器も伝わり、
黒海北岸からウラル山脈まで広がる草原地帯は一気に文明化し始めていきます。
これがヤムナ文化と呼ばれる生活様式で、
人々は半狩猟半農半牧畜半遊牧生活という
複合的かつステップに適応した移動性に富んだ生活様式を送っていたようです。
飼育していた動物も、牛、馬、ヤギ、羊など、多岐にわたり、
出土する骨から、「オーロックスアカシカサイガオナガーイノシシ
アナグマ、カワウソ、オオカミ、キツネ、
コサックギツネノウサギ、
ビーバーを狩り、
とリクガメを獲っていた」ことが分かるとのことです。
以上、カッコはウイキからの引用です。

ヤムナ文化.jpgウクライナに訪れた初の文明です!


すでに馬への騎乗は行われていたようですが、
荷物の運搬には牛車が使われていたようで、
有名な二輪の「戦車」などは未だ発明されていなかったようです。
車輪」を付けた荷車による運搬はすでに中東で発明されていましたが、
この時代は未だ「スポーク」の無い、
頑丈な板を組み合わせて円形にしたような車輪を用いていたようです。

また、騎乗の場合も「ハミ)」による制御があったかどうか、不明です。
ハミに関しては、ググって下され!

ハミによる馬の制御が発明される以前は、
馬の背中ではなく腰の部分にまたがって
馬の鼻先をひもでねじって制御する方法がとられていたようです。
相当不安定なカンジがしますし、馬が怒って暴れたらオシマイです!

で、例のクルガン形式のお墓を築いていたヤムナ文化の連中は、その後、
黒海北岸から東西に向かって延々と広がるステップ地域において、
その機動性を生かし、拡散していきます。
ヤムナ文化の遺跡から出土した人骨から得られた DNA を分析した結果、
そのほとんどが Rb1YDNA ハプロタイプを有していたことから、
彼らが原印欧語族そのものであったことは明らかです。


今月のウクライナ-28

さて、人類の進化の歴史において、
農業~牧畜の発明が重要な役割を果たしてきたことは、自明のことであります。
野生の小麦や大麦を人工的に栽培することを考え出した人々は、
これもやはり中東のアナトリア界隈の連中でした。
大体、今から 1 万年くらい前、と考えられています。

幸いにも直ぐ東に「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる文字通り肥沃な地域があり、
まずはその地域に伝播し、これがチグリス~ユーフラテス川に沿って
ペルシャ湾に注ぐ一帯に広がって行き、
灌漑農業が営まれ、都市国家群が生まれ、メソポタミア文明が生じた、
という流れは教科書でもおなじみです。

その後、三日月地帯周辺地域でウシやヒツジなどの牧畜が生まれ、
農業~牧畜文化が周囲に拡散していきます。
紀元前 6500 年くらい前のことである、と言われてます。
このころには東アジアの長江流域で水田稲作が行われていますので、
世界各地で独自の農業が独自に生じたことになります。

アナトリア地域からバルカン半島に伝わった農業~牧畜は、
その後、西方~北方~北東地域に広がっていきます。

当時の欧州に居た連中は軒並み狩猟採集民でしたが、
たぶん、日本の縄文時代と同じく、
狩猟採集民の人口は圧倒的に少なかったはずですし、
話していた言葉も色々だったと思われます。
姿かたちも農耕民とは何かと異なっていたことでしょう。

バルカン半島を北東に向かった農耕民は、現在のモルドバ辺り、
まさに沿ドニエストル地域において、
広大なステップでシカやウマを狩ったり
黒海の浜辺でチョウザメなんかを獲っていた狩猟採集民と遭遇しました。

彼らこそが、後に欧州を席巻することとなる連中、
印欧語族のご先祖でした。原(げん)印欧語族と勝手に命名しときます。
紀元前 5000 年くらいのことと考えられてます。

農業の伝播.jpg欧州における農業と牧畜の伝播方向
だんだんウクライナが近づいてきました!


従いまして、中東を出て農業と牧畜を欧州一帯に拡散していった人々は、
おそらく、アフロ・アジア語に属する言語を話していた連中だと考えられます。
彼らは古欧州人と呼ばれます。

従いまして、欧州は、まずはネアンデルタール人が居り、
次にクロマニヨンやチェダーマンのような狩猟採集民が到来し、
そこに古欧州人が住まい、
その後に色んな種類の印欧語族が猛烈に、しばしば暴力的に広がり、
歴史時代に入ると東方から中央アジア由来の連中が押し寄せ、
さらにはイベリア半島などは一時期アラブが占拠するなど、
色んな連中が長期にわたって複雑に重なり合った複雑なところなんです!
だもんで、歴史的に紛争の絶えないところなんです!
一国に色んな民族を抱えているのがごくごく普通のところなんです!
だもんで、それを解決するために色んな知恵を出し合ってきたところなんです!

さらにウクライナが近づいてきました!


今月のウクライナ-27

背中の痛みをこらえつつ、1 日中のブログ書きです。

縄文人の「過去ログ」の中で、
シベリア・バイカル湖のほとりのマリタ遺跡から
2 万 4000 年前の人骨が見つかり、
mtDNA (ミトコンドリア DNA )を解析したところ、
欧州系であることが分かったことから、
アイヌ・縄文人の中央アジア~シベリア経由説は否定された、
というお話をしました。

マリタのmtDNA U タイプで、同系に属するものが
ウクライナにほど近いロシア・ヴォロネジ州の
コステンキ遺跡から発掘された人骨からも見つかり、
これはおよそ 3 万 6000 年くらい前、と判断されました。

両者ともに、マンモスや毛サイを狩猟しながら暮らしていたようです。
マンモスの骨で作ったいわゆる「ヴィーナス像」も発掘されてますが、
両者ともにそっくりです!
コステンキ遺跡の方が古いことから、
ここからさらにシベリアに向かって移動していった人々がマリタ遺跡を残した、
と考えられます。

コステンキ遺跡.jpg
衣服を縫う「針」を発明したのが彼らであるのかどうかは知りませんが、
氷河期の真っ只中、マンモスや毛サイの皮を利用して
防寒服を作製していたのは間違いのないところです。
また、縄文人の「過去ログ」の中でもお話したように、
旧石器の中でも最新式である細石刃(さいせきじん)の技術は、たぶん、
彼らによってアイヌ人に伝えられたと個人的には考えてます。
但し、アイヌのご先祖様はマリタ人とは直接接触していないと思います。

一方で、アジア大陸の南ルートから北上し、その後にベーリング海峡を渡って
アメリカ大陸に到達した連中、いわゆるインディアンですが、
彼らとマリタの連中とでは遺伝子の混入が認められています。
従いまして、
インディアンのご先祖が未だアジアに居たころアイヌのご先祖と接触し、
その時に彼らから細石刃を教えてもらったのじゃなかろうか、
と、個人的には考えてます。

で、このマリタやコステンキの mtDNA のハプロ U ですが、
今月のウクライナ-23」で述べたアフロ・アジア語族に広く認められ、
チェダーマンも持っていたハプロタイプです。
1 万 3000 年くらい前にスイスに住んでいたクロマニヨン人も持ってました。

となりますと、以下のような経路が考えられます。

1) 北アフリカやエチオピア辺りからパレスチナ方面へ向かった連中が居た。
2) 中東で一つのたまり場ができた。
3)そこからアナトリアを通って西に向かった連中と、
コーカサスを抜けて北に向かった連中が居た。
コーカサスの山々は氷河で覆われていたが、
カスピ海の水は今よりも少なかったので、海岸線を通って行った。
4) コーカサスを抜けると、そこは見渡す限りの草原であった。
マンモスや毛サイがうじゃうじゃ居たのだ!
5) 寒いけど我慢しながら色々工夫して、マンモスを追っていった。
6)気が付けば、シベリアの最果てまで来ていた。
「思えば遠くに来たものだ・・・」と、彼は思った。
その地で、未来のインディアンとお友達にもなった。

で、チェダーマンとは違って極寒の地に数万年も住んでいたわけですから、
さすがに色々と形質の変化も生じていた可能性があります。
で、マリタ遺跡から出土したマンモスの骨で作ったヴィーナス像があります。
もはや消されかかっている「みなしごサイト」
みたいなところから拾ってきた画像なので、
以下、著者への言及なしに載せても大丈夫だと思います。

マリタ-1.jpgマリタ-2.jpgで、これを見ると、明らかに
現代の欧州人の特徴が認められます。
特に鼻根部です!
欧州人の高くそびえる鼻っぱしら
ですが、
寒冷な空気を温める役割
指摘されてます。

この像(女性です)をよく見ると、
隆起した鼻根部と共に、
広がった鼻の先端部が共存している
ことに気づきます。
素直に解釈すれば、
現代欧州人の鼻の形成途次と見なす
こともできようかと思います。
髪型も、ドレッドみたいです。
縮毛からウエーブ~直毛への途次
かも知れません

高くそびえる鼻っぱしらと言えば北米インディアンのワシ鼻が有名ですが、
先に述べたように、インディアンとマリタ人との接触は確実です。
加えて、シベリアからベーリング海峡を渡りアラスカに至る途次において、
彼らのワシ鼻が重宝した可能性もあります。

シッティングブル.jpgカスターの第七騎兵隊を壊滅させたスー族の勇者、シッティング・ブルの写真
ワシ鼻で、赤銅色の皮膚と北東アジア人特有の高い頬骨を持つが、
蒙古皺襞(もうこしゅうへき)と突顎(とつがく)は無く、
少ない体毛と薄い唇を持つ。髪は直毛。
個人的には、台湾先住民の、とある部族の一人、を連想させます。ウイキより

※プーチンとケマール・パシャとマンネルヘイムとシッティング・ブルと、
にらめっこさせたら本当に誰が勝つかな?


で、これで問題解決か!と思いましたが、
よくよく考えると、ナカナカそんな単純なものでもなさそうです。
と言うのは、
古代中東の連中もまた立派な鼻っぱしらを持っているからです!
シュメールの数々の壁画、レリーフ、石像などの顔立ちは、
現在のご当地に住まわっている方々とあんまし変わりがありません。
アッカドの王、サルゴンの青銅像が出土してますが、
立派な髭と隆々と聳える(そびえる)鼻を有してます。

サルゴン.jpgアッカド王、サルゴン。 ウイキより
ドレッド髭の可能性あり!


モヘンジョダロの神官と呼ばれる像もそうです。
一方、同じモヘンジョダロから出土した青銅製の踊り子像は、
むしろインド先住民の特徴が現れているようにも見えます。

モヘンジョダロ 神官.jpgモヘンジョダロの神官の像 ウイキより

モヘンジョダロ 踊り子.jpgモヘンジョダロ出土の踊り子の像 ウイキより
彼女の髪も、ドレッドの可能性があります。
束ねたドレッド、です。
痩身、相対的に長い手足、ドレッドなど、
古事記や日本書紀などで描かれている「土蜘蛛」を想起させます。


古代中東~インダス文明ともに、少なくとも初期~最盛期においては、
北方から到来した印欧語族の影響はほとんどなかったはずです。
エジプトの古王朝もそうです。
中東~インダス~エジプトいずれも極寒の地とは程遠い気候ですから、
そうなりますと、「立派な鼻っぱしら」もまた、
農耕~牧畜が発明された中東地域で揺籃された形質なのでしょうか?
仮にそうであるとしたら、
咀嚼力の低下 → 顎と歯の縮小化 → 顔面の力学的変化 → 鼻根部の隆起、
という関係があるのでは?
モンゴル人に代表される東アジア人などはこの流れに乗っていませんので、
この流れに寒冷~温暖~湿潤~乾燥などの気候の影響その他が加わって、
最終的に現代人の顔立ちが形成された、ということなのかも知れませぬ。

本当に興味が尽きませんね!