今月のウクライナ-195

さて、高句麗です。
およそ 700 年にわたり(もっと長い、という説もあります)
極東の一画でナカナカの存在感を示してきた高句麗ですが、
東には粛慎(しゅくしん)~ 勿吉(もっきつ)を引き継ぐ靺鞨(まっかつ)が、
西にはモンゴル系の契丹(きったん)、室韋(しつい)、(けい)の連中が、
そして、より西方の草原地帯にはトルコ系の突厥(とっけつ)が現れ、
さらには半島の百済、新羅にも苦戦を強いられるなど、
7 世紀も半ばになると勢いに陰りが見えだします。

そんな中、581 年
北魏~拓跋部(たくばつぶ)の血を引く楊堅(ようけん)によりが起ち、
五胡十六国から南北朝の時代を経る長い国家乱立状況に

漸く終止符が打たれる形となりました。
このような、久方ぶりの統一王朝が大陸に生まれたことが
周辺諸国、特に倭を含む極東地域にも大きな影響を及ぼしたようで、
これまでの卑弥呼的な原始国家形態から律令に基づく統治を目指した
本格的な古代国家への脱皮を促すきっかけとなりました。
日出所の天子、すなわち聖徳太子が書いて送ったフレンドリー過ぎるお手紙に
隋の煬帝(ようだい)がカンカンに怒ったというお話は有名です。
で、煬帝は大軍を率いて数度に渡って高句麗に攻め上りますがいずれも大敗し、
これが隋の滅亡の主要因となってしまいます。

東アジア C2-4.jpg7 世紀ころの情勢  センセによる

隋を滅ぼしたもまた高句麗を攻めますが、
高句麗は百済と手を組んでこれに対抗します。
以前にも述べましたが、
高句麗と百済と新羅の関係は複雑で、
ある時は敵、ある時は味方となって戦いますので、
時々こんがらがってしまいます。
一応この時は唐と対抗すべく、両者は連携プレーを示しますが、
唐は「高句麗を滅ぼすにはまずは百済から!」ということで新羅と組み、
西と東から攻め込んで、660 年、百済を滅ぼしてしまいます。
当時の倭国は百済と近く、新羅とは敵対関係にありましたので、
百済の残党の求めに応じて倭国の中大兄皇子は救援軍を送りますが、
惨敗を喫したのは有名なハナシです。
その後に対馬から瀬戸内海に至るまでの各所海岸線に城壁を築き、
防人(さきもり)を置いて防御態勢を敷いたのも有名なハナシです。
ブラタモリでも紹介されてましたね。
で、ブラタモリって、ホントに終わったのか?
土曜午後の 7:30 からは TV で見るものが無いのだが・・・。

いずれにしましても、このような形で同盟軍を失った高句麗ですが、
百済の滅亡より程なく、668 年、唐により滅ぼされてしまいます。

で、高句麗やら百済やら新羅やらのイメージですが、
高松塚古墳の壁画に描かれているものを想像して頂ければ OK かと思います。
面白いブログがあったので、リンクします。
たぶん、こっちの方が詳しいかな?と・・・

遣隋使などによる中国の影響以前の倭国のイメージと言えば
これは卑弥呼や埴輪クンを思い浮かべて頂ければ OK かと思いますが、
たぶん、より古代の半島の雰囲気もまた、
韓ドラなどでブラ播かれているものとは大きく異なっていたと思います。
中国文化の影響があまりにも大きかったがために、
半島~倭国ともに似たようなカンジになっていったのだと思いますが、
少なくとも倭国においては、
ムシゴメの大化の改新以前と以後では、確かに色んな形で断絶が見て取れます。
これが平安時代になって「国の風」が吹くようになって初めて
ヤマトならぬ日本独自の文化が発展していくようになったのですね!
NHK の大河ドラマ、「光る君へ」の時代です!
見てないけど・・・。

・・・見る気も無いけど・・・。