今月のウクライナ-88

618 年李淵(高祖)によって建国相成ったですが、
中国史の中でも最も華やかな時代が唐、
と、少なくとも日本人の間では、捉えられているかと思います。
センセもそうです。
律令制度、科挙による実力主義の官僚制度、花開く長安の都、
西域からのエキゾチックな文化の影響、李白や杜甫、白楽天などの詩人、
楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス物語、宦官勢力の暗躍などなどなど、
どれもこれも日本人にもおなじみのものばかり。
未だ日本人の間では、弁髪やキョンシー、チャイナドレスなど、
直近のの時代の中国文化が中国人像に影響しているきらいもあり、
また、先の戦争や現在進行形の緊張関係なども影響して
必ずしも現行の両国関係は友好的と呼べるものではありませんが、
センセを含めて「中国史が好きだ!」という方々も数多く、
始めに述べたように、
最も中国らしい時代が唐の時代、との主張にも、
大きな違和感はないかと思います。

李淵.jpg高祖、李淵の像  ウイキより
明らかに隋の煬帝以前の像とは異なる出で立ちです。
もはや頭にすだれは乗せません。
靴はブーツ様で、胡服の影響が明らかですね!


で、高祖の李氏ですが、
鮮卑拓跋系そのもの、あるいは鮮卑化した漢族、と考えられてます。
本人たちは「我々の先祖は老子である」などと言ってますが、
何らかのコンプレックスを持っていたんでしょうね。
唐の時代は仏教と共に道教が盛んだったので
道士の祖である老子を先祖として選んだのでしょうけど、
唐という大国の祖の先祖として老子を選ぶのは
道士ても違和感がありますよね・・・。

で、鮮卑系であったためかどうかは分かりませぬが、
李氏一族、突厥などの戦闘的遊牧民の扱いに長けていたようで、
隋を滅ぼす際も東突厥とあらかじめナシを付けていたようですし、
その後も硬軟織り交ぜて上手く操縦し、
結果、「良く分かった、アンタが一番!」ということで、
東突厥からは天可汗(てんかがん:王の中の王)の尊称を送られ、
これを服従させることに成功します。

高祖の次男が李世民(りせいみん)、すなわち太宗(たいそう)です。
これがたいそうなオトコで、
貞観の治(じょうがんのち)と呼ばれる理想政治を行った人物として有名です。

李世民.jpg李世民、太宗の像  ウイキより
昔の皇帝よりもこっちの方がカッコイイですね!


彼もまた隋の煬帝と同じく長兄を殺害して王位を奪ったオトコですが、
隋末から唐初期にかけて頻発した各地の戦乱を鎮め、
混乱に乗じて長安に侵攻してきた突厥に対して一芝居を打って平伏させ、
さらには西域にも進出して
安西都護府(あんざいとごふ)と呼ばれる行政府を設置して
唐の威を拡大させただけでなく、
内政においては側近の意見を尊重し、活発に議論を行って、
民意の安定、経済の発展に大きく努めました。
このような側近たちとの意見交換を記したものが
「貞観政要」と呼ばれる書物にまとめられ、
徳川家康など、日本の武家政治家の参考書ともなったと言われてます。

対外的にも武力一辺倒というわけではなかったようで、
力を付けつつあった吐蕃(チベット)に対しては
吐蕃王のソンツェン・ガンポに対して
文成公主(ぶんせいこうしゅ)を降嫁(こうか)させて姻戚関係を結ぶなど、
対外関係の安定化に努めた結果、
おりからのイスラム勢力の伸長やソグド商人の活躍などとも相まって、
シルクロードを介した東西貿易によって
ここに、「花の都、長安」が現出するに至ります!

645 年、有名な三蔵法師と孫悟空の物語である「西遊記」の元となった
玄奘(げんじょう)三蔵の「西域記」が大ヒットとなったのも、
この時代ならではの現象であると思います。

三蔵法師.jpg三蔵法師の図  ウイキより
夏目雅子風をイメージされてたヒトにはちょと残念!
これが現実です。


太宗を継いだ高宗の時代では
隋の時代からの天敵とも言うべき朝鮮半島の高句麗を打つべく
新羅と手を結んでこれを滅ぼすことに成功しますが、
勢いに乗った新羅は半島の制圧に乗り出して天敵の百済と衝突。
百済を救援すべく、大和朝廷においては、
後の天智天皇、すなわち中大兄皇子が兵を送りますが、663 年
白村江(はくすきのえ)の海上戦において唐軍に完膚なきまでに敗れ、
とっとと尻尾を巻いて退却!
九州から瀬戸内海の海岸線に山城を築いて唐の逆攻に備えたのは有名です。

白村江の戦.jpg白村江の戦の状況  ウイキより
ここでの負け戦により、
大和朝廷は半島から完全に手を引くこととなります。
一方、百済の帰化人と共に多くの唐文化も流入する結果となりました。


このようにアジアの東西にかけて大いに威を振るった大唐国ですが、
その後、しばし、女禍の嵐に晒されることとなります。