今月のウクライナ-181

まず初めに黒竜江(アムール川)流域から樺太にかけての
ツングースを主体とする連中の分布をまとめましたので、ご覧ください。
先のオロチョン族の地図と併せてみてもらうとよく分かると思います。

黒竜江沿いのC2諸部族.jpg黒竜江沿いの C2 の分布図  センセによる


オロチ族
オロチ.jpgオロチの人々  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18562809による

これも遺伝子情報が見つからなかったが、C2 主体であるのは明らか。
オロチ、オロッコ、オロチョンなどなど似た名前が多いが、
トナカイ飼育に関係する名前であるのも明らか。
そうではない、という説も一部あるけど・・・。
オロチ語はツングース諸語に属し、ウデヘ語と最も近いとされる。
ナナイ語やウリチ語からも影響を受けているとのこと。
沿海州の海沿いに住んでいるのでアザラシやトドなどの海獣や
サケ、マス、イトウなどの漁猟と同時に、
森林部ではジャコウジカ、ヘラジカ、キツネ、イタチ、クマなどの
狩猟も行う。以上、ウイキより。

このウイキの記述からはトナカイの飼育は盛んではないようなので、
昔は飼っていたけれど何らかの理由で止めたのかな?
とも考えられる。
熊の祭りを行うことからアイヌとの交流が考えられるし、
大きなカラスをトーテムとしているようなので
コリャークや北西アメリカインディアンとの関係も考えられる。
下手するとカラスはここら辺発祥で、その後に朝鮮半島に渡り、
最後は八咫烏(ヤタガラス)となって日本に来た?
神社の鳥居(とりい)とも関係する?
以上、センセの妄想。


ウリチ族
ウリチの男女.jpgウリチの男女  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18586138による

C2 69%
山丹交易(後述)で知られる山丹人はウリチに推定されている。
ウリチ語は南部ツングース諸語に属しており、
特にナナイ語の下流方言・ウィルタ語との共通性が高い。
漁猟を主体とし、狩猟は二次的である。
冬期に食用としてクマを、毛皮用にテンやリスを狩る。以上、ウイキより。

ウリチのオトコ.jpgウリチのオトコ  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106315273による
お笑い系にいるようなカンジ・・・。

山丹交易
間宮林蔵の東韃地方紀行で言及されているサンタン人(山丹人)であるが、
彼らの自称「マンゴー」とウリチの呼称の一つ「マングン」が一致する。
また、サンタン族の居住地が概ね現代のウリチのそれと一致することなどから、
ウリチは山丹人であると推定される。以上、ウイキより。

林蔵は間宮海峡までの樺太西岸部はアイヌ人に案内してもらうが、
途中、舟で海峡を渡ってきた数十人のサンタン人に襲われたので、
飯や酒でもてなして取り合えずは難を逃れている。
アイヌ人は樺太北部の他民族に対しては警戒心を持っていたようで、
それ以上は林蔵に付き合いたくない。
そこで現地のスメレンクル族を新たに案内人として
サンタン船という、アイヌの舟よりは頑丈な舟を駆って大陸に向かう。
このスメレンクル族というのが、後述するニブフ人らしい。
大陸に到着後は舟で黒竜江を遡上したり
舟を担いで陸路で上流へ向かったりと苦労し、
途中、オロッコ、スメレンクル(ニブフ)、アイヌ、サンタン、キャッカラなど
色々な連中に遭遇し(キャッカラはウデヘとオロチの共通祖先らしい)、
さらには夥しい数の蚊の襲撃を受けるなど大変苦労したが、
その後にようやく黒竜江沿いのデレンという場所に到着する。
地図で調べると、
黒竜江沿いのツイムメルマノフカという名前の町あたりに相当するようだ。
そこには交易所があり、満州の役人(清朝)が常駐し、
サンタン人やらその他、雑多の連中が毛皮などの交易を行っていた。
以上、教育社の「東韃紀行:大谷恒彦訳」より

過去ログ「今月の書評-40」に YDNAD の拡散図を載せてありますが、
黒竜江沿いの D は北海道~樺太アイヌの交易によるものか?
と考えてます。
でもよく見ると黒竜江沿いではなく、その上の森林地帯を走ってます。
また、アルタイ地方にも D が認められ、
チベットから分かれた一派によるものかとも思われますが、
縄文人に関しては mtDNA の経路から、出アフリカ以降、
海岸沿いにインドを経由して北上したセンも否定できませんので、
チベット経由なのかインド経由なのか、
よく分かりませぬ・・・。
但し最新の図ではアルタイ~黒竜江の D は描かれていないので、
やはりこちら経由は否定されつつあるのでしょうかね?