今月のウクライナ-160

先週は月曜から金曜までみっちりとマウスを用いての実験。
おかげで土曜~日曜は言うに及ばず、
週明けの月曜日もベッドから起きることができず、
丸三日間、文字通りへたばってた・・・。
トシだわ・・・。
で、本日火曜日になってようやく元気も回復したので、
久しぶりにブログを更新してます。

今回の実験はセンセの最後の実験となるかもしれず、
ならないかもしれず、
また、免疫系の仕事なので近交系のマウスや抗体、
さらには ELISA プレートなどを購入しての仕事となるので、
費用もかかります。
失敗は許されません。
だもんで予備実験に数か月を費やすなど
気合を十分に入れてここ一番、本番に臨みました。
で、本日、結果をざっとまとめてみたところ、
どうやら成功のようす!
期待に沿った結果が得られそうです!!!
よかったあ~~~~~♪♪♪
論文にまとめたら、ホームページで抄録を公開する予定です。

さて、センセが必死になってネズミを解剖している間にも
世界情勢は大きく動いているようです。
ロシアでは過去にプーチンを批判した空軍中将が夫婦共々ガス中毒死・・・。
プーチンを批判した人々は、不思議なことに、例外なく、
不思議な死に方をするようです。

不思議ですね!何故なんでしょうね?ちっとも分からないや・・・。

一方のウクライナ。
昨年に発生した例のノルドストリーム爆破事件ですが、
数か月前にも WSJ や NYT などで
「実はウクライナ情報機関の仕業だ!」と報道されてましたが、センセは、
「いや違うだろ。
頭下げて EU に武器援助を求めて大陸を行脚しているゼレンスキー大統領が
自分の足を引っ張るようなことを自らするはずないだろ?
また、ウクライナは、基本、内陸国だろ?
黒海なんてのは内海だわ!
連中に、
北海の冷たい海に潜っていたずらするような know-how ってあるのかしらん?」
と思ってましたが、
最近の報道によれば、ウクライナ情報機関の関与が取り沙汰されてます。
要するに、ゼレンスキーは知らなかった、ということです。
張作霖爆殺事件や満州事変などのように、
政府中枢に知らすことなく内密にことを図るような例は過去にもありましたが、
今回の件が仮に本当であるとしたら、
大問題となるのは間違いありません。
ウクライナ政府が全面的に否定しているのは当然ですが、
不思議なことに、
当のドイツ政府からの反応が、少なくとも現時点、ほとんど聞かれません。
個人的にはロシアの相変わらずの偽旗作戦だと思ってますが、
ウクライナ側も
徴兵所での賄賂の横行を含む徴兵逃れが多数発生するなど
「ウクライナ人は全て清廉潔白である」とは決して言えない現状ですので、
この件に関しても、「全くの白だ!」とも言い切れませんが・・・。

イスラエルとハマスに関しては、
ガザ地区の状況は大変悲惨なことになっていますが、
一応、人質解放に向けて短期間の停戦合意に向けて動いているようです。
合意できるかどうか、これまた現時点では分かりません。

それよりか、
今月のウクライナ-129」以降にしばしお話してきた
「応仁の乱」のイエメンですが、
乱の一方の当事者であるフーシ派の連中が
日本郵船が運航する大型輸送船を乗っ取った!
しかもヘリコプターで甲板に乗りつけて乗っ取るという大掛かりなものだ!
現代版の村上水軍みたいなもんだね!
船そのものはイギリス人所有のもので、日本もイスラエルも関係ないようだし、
船員には日本人もイスラエル人もいなかったようだが、
連中、どういうわけか、拿捕した。※
※船主の一人がイスラエル人だそうです。

フーシ派は、
先日はイスラエルに向けてロケットを発射して米軍の船に迎撃されている。
ニュースの映像を見る限り、連中の装備はナカナカのものだ。
バックにはイランがいる。
ヒズボラとフーシ派はシーア派で、ハマスはスンニ派。
前二者はイランの直接の手先と言ってもよいかと思うが、
ハマスの場合はどうなんでしょうか?
今回のハマスの攻撃は極秘裏に行われた可能性が高いので
イランのアヤトラも知らなかったと思われますが、
せっかくの機会なので、
ここぞとばかりにフーシを焚きつけてゴタゴタやらかしている、
ということでしょうかね?
ゴタゴタやらかしてはいるけどヒズボラとの連携も見られないことから
単純に反イスラエルの意思を示しました、
というだけのことなんでしょうけどね!

因みに日本郵船、センセは 10 年以上も昔に株を買ったが、
あれよあれよという間に値下がりし、
配当も無くなったので、
いつの間にか忘れて塩漬けとなっていた。
で、一昨年、唐突に配当のお知らせが送られてきたが、
その額が結構高い!
可笑しいと思い、株価を調べてみたら、ナ、ナント、
いつのまにやら爆上げしてる!
で、速攻で売ってほくほく顔していたら
その後にさらに上げること上げること!!!

ほくほく顔が泣きべそ顔になったのは言うまでもありませぬ・・・。






今月のウクライナ-159

東部の前線で部下への勲章授与式を行っていたら攻撃されて 
20 名以上が死亡したり、
キエフでは将校が自分の誕生日に同僚から送られてきた手榴弾が爆発して
死んだり、
オイオイ、キミたちたるんでおるのではないのか!?
ペシペシ!!!(往復ビンタ)
でも、クリミア南部のロシア軍造船所をミサイルで攻撃して
新造のコルベット艦に損傷を与えて就航前に廃艦にしたので
チャラにしときます。

さて、正統カリフ時代には
早くもエジプトとペルシャの全土を手中に収めたイスラム教徒でしたが、
ウマイヤ朝の時代にはさらに領土を広げていきます。
各地に遠征するイスラムの将軍たちは出先で軍事拠点を設け、
攻略した都市や町から奪った品々や金銭、
あるいは支配下の非イスラムから得られる税金などを元にして
さらに領土拡張に努めた結果、
東においては現在のパキスタンからアフガニスタンを、
西においては
リビア、アルジェリア、モロッコにまで到達して大西洋を臨んだのみならず、
ジブラルタルを渡ってイベリア半島に渡り、
さらにはピレネー山脈を越えてフランク王国に進攻!
西暦 732 年には「今月のウクライナ-79」でお話した
トゥール・ポワティエ間の戦い」に至ります。

サハラ以北のアフリカの地をマグレブ、以南の地をサヘルと呼びますが、
アラビア語です。
マグレブは西方の意味で、サヘルは岸辺という意味だそうです。
で、マグレブ地域には原住民としてベルベル人が住んでおりましたが、
この地はカルタゴ~ローマ~ヴァンダル~ゴートなどによって
コロコロと支配者が変わっていった地域です。
支配者が次々と変わってもベルベル人はベルベル人として存続し、
現在でもこの地域に幅広く居住し、
有名な砂漠の民、トゥアレグなどもベルベルの一派です。
特にアルジェリアやモロッコの山岳地帯などに数多く居住し、
9 月に発生した大地震では数多くの被災者を出したのは記憶に新しい所です。

トウアレグ族.jpgトゥアレグ族  ウイキより
Dan Lundberg - Flickr, CC 表示-継承 2.0
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3255442による


ベルベルの呼び名の由来ですが、
古代ギリシャ人が異民族に遭遇した際、彼らが話す言葉を聞いて
「ブラブラブラ・・・」としか聞こえないので、
「ブラブラ=バルバロイ=野蛮人」と名付けた。
その後にローマ人が北アフリカを植民地化した際、
「ブラブラブラ・・・」と話す野蛮人に遭遇したのでベルベル人と名付けた、
と言われてますが、
現代のベルベル人は、もちろん、野蛮人ではありませぬ。

で、「今月のウクライナ-23」でお話したように、
アラブ人、ベルベル人共に「アフロ・アジア語族」に属しますが、
もちろん、言葉が通じるわけではありません。
また、当然ながら、マグレブへのアラブの侵攻以前はイスラムではないですし、
習俗なども異なるわけですが、
基本、砂漠の民であることから、
日本人などの外部の目から見ると、似たような人々に見えます。

そもそもが
トゥアレグ族とベドウィン族を見分けられる日本人は珍しい!
と思いますが・・・。

ベドウィンの若者.jpgラクダに乗るベドウィンの若者  ウイキより
http://www.dmitrimarkine.com, CC 表示 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4400153による


で、当初、アラブの侵入に対して彼らは激しく抵抗したわけですが、
次第にイスラムの軍門に降り、
イベリア侵攻の際にはその先兵となり、
現在ではすっかりイスラム化し、
言語も、少なくとも公的には、アラビア語を話す人々が多数ということです。

ベルベル人.jpgベルベル人の男  ウイキより
CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1083270







今月のウクライナ-158

さて、正統カリフの 4 代目としてアリーという名の人物が登場しますが、
彼はマホメットの数多い従兄弟(いとこ)の一人であるだけでなく、
子供の頃はマホメット夫妻に育てられ、
さらにはマホメットの娘と結婚しますので、
義理の息子という関係でもあります。
要するに、マホメット家に非常に近い人物でした。
けれども彼をカリフとして頂くかどうかに関して
信徒の間で熾烈な内紛が生じ、
色々なゴタゴタの中で、アリーは暗殺されてしまいます。

「アリーに血統的に繋がる人々こそがイスラムの代表であり、
指導者(イマーム)である」と考える人々がシーア派ですが、
シーアという言葉はそもそも「派」の意味であり、
本来は「アリー派」と呼ばれていたわけですので、
シーア派と言えば「派・派」ということになり、可笑しいわけですが、
でも日本ではこれがすでに通称となっているので、
これはこれで構わないと思います。ハハハハ。

このような争いの中から台頭してきたのが
ウマイヤ家出身のムアーウィヤという名のオトコで、
シリアのダマスカスを根城にアラブ駐屯軍を指揮して内紛の終息に成功し、
西暦 661 年、正式にカリフとして認められます。
一応、歴史学的には、この時にウマイヤ朝が成立、ということになってます。
要するに、
その後に死期が近づいた彼は後継のカリフとして自分の息子を指名しますが、
世襲により権力の維持が図られる政体のことを「王朝」と呼びますので、
ウマイヤ朝の名が冠せられるわけです。

しかしながら、
神の使者たるマホメットの教えを紐帯として戦ってきたイスラム教団ですので、
「世襲なんぞとんでもねーだ!」という輩が現れるのも当然です。
で、各地に自称カリフが台頭して、
アラブは再び内乱の渦に巻き込まれることとなりますが、
ウマイヤ家のカリフはメッカとメディナを拠点としていたカリフ一派を攻撃し、
これを掃討することに成功!
イスラム教誕生の地であるメッカとメディナは灰燼と化し、
カーバ神殿も焼け落ちますが、
後でちゃんと建て直したことは言うまでもありません。
ウマイヤ朝は、ここに漸くアラブ統一を成し遂げ、
政治的に安定した時代が中東の地に到来しました。

マホメットから正統カリフの時代はひたすら戦いに明け暮れる日々でしたが、
ウマイヤ朝のもとで統一成ったアラブは、
もはやボロをまとった遊牧民の集合体というわけにはいきません。
征服地には数多くの異教徒もおりますし、
各地に拠点を持つイスラム軍団を束ねていかなくてはなりませんし、
税収確保のためにはさらなる領土拡張を続けていかなくてはなりません。
このような目的を達成するには、
これまでのようなイスラム教によって結びついただけの組織、
すなわち教団=共同体(ウンマ)、
でのみ通用するような単純な政治形態からの脱却が必要となります。

要するに、一気に強大となって
多くの他民族を領内に抱えることとなったイスラム国は今や「帝国」であり、
カリフは「君主」ということになりますので、
官僚制や独自通貨の発行、公用語としてのアラビア語の普及など、
領地を安定的に統治する行政手法を確立する必要性が生じてきました。
新たに生まれたイスラム帝国ですが、
ローマやペルシャという優れた「お手本」があったおかげで
まずは彼らの官僚制度を踏襲し、発展させていったようです。

ウマイヤモスク.jpgダマスカスのウマイヤ・モスク  ウイキより
Original uploader was Isam at en.wikipedia -
Transferred from en.wikipedia., CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70326による
入り口の柱に並んでいるのはコーランの自動販売機、
ではなさそうです・・・。

現在でも使用されているモスクの中で、最も古いものだそうです。
(ウイキより引用)




今月のウクライナ-157

86 歳のじいさんが拳銃を振り回しながらバイクに乗り、
家に火をつけるは病院を襲撃するは人質を取るはと大暴れ!
その衰えを知らない情熱と実行力を若いうちから他の方向に向けていれば
今頃は巨大コングロマリットの総裁にでも収まっていたことであろうに・・・。
雲一つない秋の日々が続くこの頃ですが
ブタクサの花粉症と突然の夏日による血圧低下により
せっかくの三連休も外出すらままならないセンセとしては、
ある意味うらやましくも感じられる御仁ではあります WWW。

さて、対ローマ戦を優位に進め、
ホスロー二世の時には最大版図を見たササン朝ペルシャでしたが、
その後にローマに大敗し、王朝内部のもめごとにも事欠かずで、
全体の国力は衰退しつつありました。
この機会を逃さず、アラブ軍は、
当時はペルシャ領だったメソポタミア地方に侵入していきます。
これに怒ったペルシャ皇帝、ヤズダギルド三世は大軍を送り、
現在のイラクの首都、バグダッド近郊のカーディシーヤという場所で
西暦 637 年、両軍が対峙します。

衰えつつあるとはいえ栄光のペルシャ軍 vs 新興勢力のアラブ軍ですが、
アラブの将軍は
ペルシャの首都、現在のイラクに位置するクテシフォンに使節を送り、
ペルシャ皇帝ヤズダギルド三世に向かって、例の
「イスラムに改宗するか戦うか、どちらも嫌なら税金を納めよ!」
と臆面もなく通達しますが、皇帝、
「お前らのような
かくもみすぼらしく哀れな風体の連中はこれまでに見たことがないワ WWW!
これを土産にやるからとっとと帰って農作業にでも励め!」とばかりに
ペルシャの土を詰めた袋を土産として使者に持たして追い返します。
使者が持ち帰ったペルシャの土を見たアラブの将軍は
「ペルシャの土を持ち帰る、すなわち、ペルシャの国土は我々のものじゃ!」
と将兵を鼓舞し、戦いが始まります。

鞘(さや)を投げ捨てた佐々木小次郎に対して、武蔵が
「小次郎、既に破れたり!」と言い放ったのと同じ発想ですね!

カーディシーヤの戦いでは、ペルシャ軍の総数はおよそ 10 万、
対するアラブ軍は 3 万 5 千人ほど。
しかもペルシア軍には重装備を施した象(ぞう)軍団までおり、
これにはアラブ騎馬隊も当初は苦戦したようですが、
アラブ兵は馬から降り、
弓矢で象の背に乗っている御者を狙い打ちにしたり、
長い槍で象の目や鼻を衝くなどの戦術をとった結果、
おじけづいた象はパオ~ン!とばかりに背中を見せてドドドド退却!
戦いは数日間続きましたが、
最後はペルシャの将軍は打ち取られてしまい、
アラブ側の勝利となります。

その後、アラブ軍はペルシャの首都、クテシフォンに進攻し、
これを攻め落とした結果、
ヤズダギルド三世は故地のペルシャ高原に逃亡。
繁栄を謳歌したクテシフォンはアラブの手に落ち、
アラブ軍は莫大な戦利品をも手にします。
ここを拠点としてアラブ軍はペルシャ本土にまで侵攻!
ペルシャ皇帝は捲土重来を期して再び戦いを挑みますが、
敗れ、
ヤズダギルド三世は中央アジアのホラーサンに落ち延びていきます。

皇帝、東の大国の唐に救援を求めますが、袖にされ、
ホラーサンのペルシャ総督にも裏切られ、
最後は一盗人の手にかかって殺されてしまい、
ここにササン朝ペルシャは滅亡してしまいます。西暦 651 年です。

因みに、彼の子供は唐に亡命し、
そこで亡命政権のようなものを立ち上げるのですが、
ペルシャ再興の夢はかなわず、
長安の都で客死することとなりました・・・。

国教であったゾロアスター教も徐々に衰退していきますが、
初期のイスラム教はアラブ人を対象とした宗教のニュアンスが強く、
ササン朝の崩壊によって
ペルシャ全土が一気にイスラム化したというわけではないようです。
「イスラムに改宗するか戦うか、どちらも嫌なら税金を納めよ!」
というのは建前で、
みんながみんなイスラム教徒になっちゃうと税金が入って来なくなるので、
一応カッコつけて啖呵を切った口の乾かぬ間もなく、
「いや、無理して教徒にならなくてもいいよ!但し税金は納めてね!」
というカンジだったんじゃないかな?


メッセージ.jpg1977 年に公開の映画、「メッセージ」のポスター  
FLICS FREAK様のブログより
https://ameblo.jp/th0529/entry-12346785419.html
ありがとうございます!

アンソニー・クインが登場するこの映画、
センセもロードショーで見ました!
主演はマホメットなので、演じる俳優はおりませぬ。
お分かりで・・・。
マホメットの目線=カメラ目線で構成されてます。
イスラムの映画ですので真面目な展開で、
ハリウッド映画のようなお定まりのロマンチックシーンなどは皆無!
全編戦闘シーンに満ち溢れて※、
すごく面白かったです!
YouTube で現在見れますので、載せました!
是非、ご覧になってください!

※ほぼ同時期に公開されて主演も同じアンソニー・クインの映画、
砂漠のライオン」のイメージが、
センセの頭の中で混在している模様です・・・。






今月のウクライナ-156

あちらでもこちらでも人質人質で大変です・・・。

さて、アラブ世界で売り出し中のマホメットですが、
イスラム教徒も増え、軍団も大きくなり、シリアに向けて進軍!
いくつかの町を攻略して帰還したのち、彼自身で初のメッカ巡礼を果たします。
待望の巡礼を終えてメディナに戻ったマホメットですが、
体の不調を訴えるようになり、西暦 632 年、60 歳で死去します。

彼に付き従ってきた教徒たちですが、後継者を選ばなくてはなりません。
この後継者のことをカリフ、あるいはハリーファと呼びます。
マホメットから 4 代続くこととなるこのカリフ時代のことを
正統カリフ時代」と呼びますが、
彼らはマホメットと苦楽を共にして戦って来た人々で、
彼の教えをリアルタイムで耳にし、実践してきた人々です。
アブー・バクルという名のオトコが最初のカリフとなりました。

マホメットが死ぬと、
新興勢力であるイスラム教団に対して反抗する連中が現れるようになりました。
彼らは「我こそが預言者である!」とか言って各地に勢力を形成しますが、
これはすなわち、
マホメットの「啓示」に続く政治的成功をまねて唱えられた称号です。
で、「真の」イスラム教団としては当然見過ごすわけにはいかないので、
アブー・バクルは彼らを「偽(にせ)預言者」として各個に撃破し、
メディナのイスラム政権はさらに強固なものとなっていきます。

で、勢いに乗ったイスラム軍は、
当時のシリアを治めていた東ローマ帝国と一戦を交える決意をします。
この時のカリフは二代目で、
アラブ側はハーリド将軍をシリアに向かわせる一方で、
ローマ皇帝側もこれを迎え撃つべく、大軍をシリアに送ります。
両軍、ヤルムーク川で対決しますが、
ナント、イスラム軍、あの強大なローマ軍団を打ち砕いてしまいます!
さらに勢いづいたイスラム軍、シリア全土を制圧するだけでなく、
南下してエジプトに進攻し、西暦 661 年
これを攻め滅ぼしてしまいます!

この頃のシリアやエジプトには、ユダヤ教徒や、
ビザンツからすれば異端と見なされていたキリスト教徒が
数多く住んでいました。
これらの異端のキリスト教徒にしてみればビザンツこそが敵であり、
税金を払いさえすれば OK 牧場!をスローガンに掲げたイスラム軍のほうが
統治者としてはより好ましかったようで、
イスラム支配の手助けをするキリスト教徒も多くいたとのことです。

イスラム帝国.jpgイスラム帝国の拡大  ウイキより
DieBuche - 次のものを使用した投稿者自身による著作物:http://guides.library.iit.edu/content.php?pid=27903&sid=322018 (archive1, archive2) (via Image:Age_of_Caliphs.png)Image:BlankMap-World6.svgThe Times Concise Atlas of World History ed. by Geoffrey Barraclough published by Times Books Ltd. ISBN 0-7230-0274-6 pp. 40-41., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10802592による

こげ茶色:モハメット下における領土拡大、622 - 632
茶色:正統カリフ時代における領土拡大、632年 - 661年
薄茶色:ウマイヤ朝時代における領土拡大、661年 - 750年

あっという間に拡大したのですね!

今月のウクライナ-155

さて、マホメットによるイスラムの布教活動を
ソ連のボルシェビズムに比してみましたが、
拡大のイメージとしてはあながち的外れではないように思えます。
マホメット時代の出来事をイメージするのはナカナカ大変ですが、
レーニン時代の出来事に関しては多くのフィルムも残っており、
より容易くイメージできます。

そもそも論ですが、マルクスが言うには、
「資本主義は自らが持つ矛盾によって必然的に瓦解し、
最終的には共産社会となる」
とのことですが、
ならばレーニンは
安全なスイスの別荘で指をくわえて見物してればよいだけのはずですが、
どういうわけか革命などという方法で自分の主張を達成しようとする・・・。
成功すれば「革命の指導者」ですが、
失敗すれば、単なる「テロリスト」です。
マホメットの場合も、彼がウフド山の戦いで石に当たって戦死していたら
イスラム教は広まることはなかったと思います。

イスラム教とは反対に、キリスト教は、
イエスが死ぬことによって広まる結果となりました。

歴史の興味深いアイロニーです。

ボルシェビキが政権を掌握後は赤軍 vs 白軍の壮絶な内戦が始まりますが、
それに打ち勝って漸くソ連邦という形で共産主義に基づく国家が成立。
これに収まらず、レーニンは、コミンテルンの指導の下に、
自分らが唱える共産主義思想を世界中に拡散しようと試みますが、
マホメットはもっと直接的に武力を用いてイスラムの布教に努めます。
有名な「コーランか剣か」ということですが、
実際には、「コーランか剣か、どっちも嫌ならば税金を納めろ!」
ということだったらしいです。

因みに、最近では「コーランじゃなくってクルアーンだ!」ということですが、
いつものようにガン無視して進めていきます。

で、実際のところ、
イスラム支配下の地域には数多くのユダヤ教徒やキリスト教徒がおり、
彼らは税金を支払っている限りは信仰の自由が認められていただけでなく、
ムスリム=イスラム教徒であれば負うべき義務も免除されるなど、
イスラム教の支配は他教徒に対して寛容であったと言われています。

共産主義者の統治は情け容赦がなかったわけですが・・・。

で、各地で起こる反イスラム勢力の制圧に成功したマホメットに対して
アラビアの多くの部族連は彼に従う形となり、
ここにマホメットとその仲間はアラブにおける一大勢力となるわけですが、
結局のところ、イスラム教の教えに積極的に魅せられて我も我もと従った、
という形には見えず、
イスラムの力が拡大するにつれて、悪く言えば「勝ち馬に乗る」、
よく言えば「いつもいつも小競り合いを繰り返していた我々であるが、
マホメット氏は実力もあるし、ナカナカ良いことを言うオトコであるから、
一同、彼の下で仕事をしてみようじゃないか!」
というカンジで集まったのではないのかな?
と思ってます。

その後、マホメットの死後、イスラムの指導者の間では
教義や指導者の出自の正当性などに関する意見の相違から
早くも今日に至るまで続く内紛が生じるわけですが、
ボルシェビキもまた同じく、思想の解釈や政策の方向性の違いなどから
血で血を洗う身内同士の争いが生じるのは、
皆さまもよくご存知のことかと思われます。

マルクス.jpgカール・マルクス  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=478722より
マルクスはユダヤ教徒の出自を持ちます。
彼自身は嫌がっていたようですが・・・。

要するに、ロシア革命は、
「マルクスの思想を借りて行われたレーニン一派のクーデター」、
と考えるのが最も分かりやすい説明かと思われます。なぜなら、
マルクス主義ではない社会主義勢力も数多くいたわけですから・・・。
これらはみんな処刑~収容所送りにされてしまいます・・・。

生き残るためにどんどん変質を遂げていった共産国家のソ連ですが、
1989 ~ 1991 年にかけて結局は崩壊してしまいます。
中国共産党は未だ生き残っておりますが、
もはやマルクス本来の共産主義基本概念のかけらもなく、
残ったのは、
「いかなる手段を用いても自らの党を守り切る!」
という意志だけのように見えます。

キムくんに至っては、
共産主義の看板を掲げた中世のお城の中で、日々、
裸の王様を演じることに余念がありません。

今月のウクライナ-154

人質交渉のためになかなかガザに突っ込まないイスラエルですが、
いずれは突っ込むと思います。
突っ込んだ後の世界情勢ですが、
この件に関してイスラム世界が一時的に団結する可能性はあり、
西側に流入した移民を含めた大規模なデモなどが頻発する可能性はありますが、
イランを含む中東イスラム諸国による武力介入はなく、
デモも一過性で終わるだろう、と考えてます。
ヒズボラによる攻撃も可能性としてはありますし、
現時点でも散発的に行われてはいるようですが、
いち早くアメリカが東地中海に空母打撃群を派遣したこともあり、
ヒズボラとしても全面的な攻勢は不可能だと思われます。

それよりも、
「アメリカは、ネタニヤフ首相に代表されるイスラエル右派に対して
より強い影響力を行使すべきだ!」
との声が西側やアメリカ内部からも上がるのではなかろうか、と考えてます。
イスラエル右派による「火遊び」が中東にいらぬ緊張をもたらしてます。
ま、このような右派の台頭には、
ハマスによるこれまでのテロ行為が大きく関与しているのですけどね!
典型的な vicious cycle、悪循環の賜物(たまもの)です。

さて、メッカの多神教を打ち砕いたマホメットですが、
メディナを拠点として「イスラム政府」とでもいうべきものを作り上げます。
メッカからイスラム教に改宗する人々も多く出現し、
さらにうわさを聞いて新たに改宗した人々が
アラブ全土からメディナに集まってきます。
マホメットは、
メディナのユダヤ教徒から奪った資産の多くを自分のものとしてしまいますが、
本人としては、たぶん、
「イスラム政府」の資金として使用することを考えていたと思いますし、
また、宗教指導者としてイスラム教について語るのみならず、
日常的な悩み事その他「よろずに相談受け付けますよ!」というカンジで、
メディナの人々の相談役としても精力的に活動したようです。

このようにして人々の心をつかんだマホメットは
宗教家にして軍人であり、かつ政治家、というわけですが、
同じ宗教家ではあってもゴータマさんやイエス氏とは相当に異なる・・・。

思想家にして軍人であり、かつ政治家、と言えば
レーニンや毛沢東などが思い浮かばれますが、
なるほど、内容的には全く異なるイスラム教と共産主義ではありますが、
両者ともに「平等主義」は旗印の一つですし、
指導者としての人格には共通するものがあったのかな?
などとフッと考えたりしますが・・・さて・・・。

赤の広場のレーニン.jpg赤の広場を歩くレーニン一派  ウイキより
Smirnov_N. - Lehtikuva, Сергей Александрович Морозов. Творческая фотография. М.:Изд-во «Планета», 3-е изд., 1989, ISBN 5-85250-029-1,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20749468による
メディナの町を闊歩するマホメットの姿を彷彿とさせる写真かも・・・。

神の概念を設定するのが宗教で、設定しないのが思想、
というセンセの定義ではありますが、
社会の統治システムとしては、
イスラムと共産主義とは本質的なところで通ずるものもある、
のかも知れませんね。
もちろん異なる所は多々あるわけですが・・・。


今月のウクライナ-153

例の病院爆撃の件ですが、状況証拠がぞろぞろ出てきました。
なるほどね!というカンジです。
また、例のにやついたハマスの幹部ですが、
カタールの五つ星ホテルで優雅にイスラエル~アメリカ批判。
なんでも個人資産が数千億円あるとのことですが、
産業らしい産業のないガザでどうやって資産を形成したのでしょうかね?
大体想像できますが・・・。

それにしても、
怪しさいかがわしさがプンプンする連中に踊らされる人々の多いことよ!

パレスチナ問題で相対的に影が薄くなっているウクライナですが、
ここでも進展があります。
例のアメリカが供与した ATACMS ですが、
ロシア占領下のルガンスクとベルジャンスク郊外にある飛行場を攻撃し、
9 機の戦闘ヘリの破壊に成功したとのことです。
今回使われた ATACMS は本来のものよりも射程距離の短いものらしいですが、
弾頭に小型弾を詰めた、いわゆるクラスター型のものを相当数打ったようです。
そのうち、より射程の長いものも供与されるはずです。
また、東部ドネツク方面の戦線では、戦況図を見る限り、
ロシアがウクライナの町、アウディーイウカを包囲する構えを見せ、
実際に北と南から軍を押し込んでいるようですが、
反対にウクライナ軍のドローンを用いた巧妙な反撃により
多くのロシア兵が挽肉(ひきにく)にされているとの情報もあります。
両者ともに膠着状態にあるように見えますが、
ロシア側の損耗がより多いとの報道が多く、特に砲撃戦においては、
これまで圧倒していたロシアよりもウクライナ側が勝る状況となりつつある、
その理由は砲弾不足もさることながら、
大砲そのものを狙い撃ちにするというこれまでのウクライナの戦略が功を奏し、
ロシア砲兵隊が大砲不足に陥っているのが原因では?と考えられています。

先日、北京詣でをしたプーチンですが、
キンペー氏へのおべんちゃらたらたらで、
聞いてるこちらが恥ずかしくなるほどでした。
お付きの者が黒いカバンを持って従っている画像を
これ見よがしに流してましたが、
「ほらほらコレコレ!いつでもボクはポチっと押せるんだよ!」
とか言いたいのでしょうけど、たぶん、中には、
自分のパジャマとプーさんのぬいぐるみが入っているのだと思います。
「だってプーさん居ないと眠れないんだモン!」とか・・・。

さて、その後も何度かメッカ軍と対戦するマホメットですが、
最後はメッカと休戦条約を結んだだけでなく、これを反故とし、
今や大軍となったメディナのイスラム軍を率いて
メッカへの無血入場を果たします。
で、カーバ神殿内の数百にものぼる偶像をことごとく打ち壊し、
ここにメッカは文字通り、アラブの一神教、イスラム教のメッカとなりました。
西暦 630 年のことです。

ロシア攻撃型ヘリ ka 52.jpgロシアの攻撃型ヘリコプター、Ka-52 型  ウイキより
Alex Beltyukov - http://www.airliners.net/photo/Russia---
Air/Kamov-Ka-52/2106081/L/
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21669036による

愛称はロシア語で「ワニ」「アリゲーター」のこと。
NATOコードネームホーカムB とのことです。  ウイキより引用


今月のウクライナ-152

前回のブログから 1 週間近く経ちましたが、
未だイスラエルはガザへ侵攻してません。
それどころかやれ病院爆破だ!検問所爆撃だ!とかで揺れてます。
で、互いに「お前がやった!」と非難合戦してますが、
未だ確証されてません。
病院爆破に関しては、フェイク~誇張の可能性も指摘されてます。
いずれ事実が明らかになるのでしょうが、
当事者は別として、
野次馬連は事実が明らかとなったその時に騒げばよいだけで、
未確証事案に踊らされて騒ぐ輩が世界中で大発生してます。

なるほど、
専制的国家が情報を都合よく統制するのも無理からぬことではあるなあ~
と思ったりします。

中東紛争関連、特にイスラエル vs パレスチナ問題に関しては
ウクライナ戦争とは大いに異なり
どちらが正しくどちらが悪いなどと単純な色分けは困難ですし、
日本は歴史的にも地政学的にも全く無関係ですので、
人道的な支援は別として、
政治的にはどちら側にも与することなく、ひたすら傍観するのがよろしい、
とセンセは思います。
ましてや連帯などと言うものを表明してどこぞの空港で機関銃を乱射して
多くの民間人を虐殺することが正義だ!
などとはくれぐれもお考えなさらぬよう、心からお願いいたします。

さて、いつのまにやら
イスラム教 vs ユダヤ教の対立の構図となってしまったパレスチナ問題ですが、
その昔、
メディナのマホメットは当初、ユダヤ教徒に対して自分をアピールします。
当時のメディナは 1/3 がユダヤ教徒、残りがアラブ人で構成されてましたが、
マホメットはユダヤ教徒のところに行って自分の考えを述べます。すなわち、

「君たちはアブラハムの子孫だろ?ボクらアラブ人も実はそうなんだよ!
彼の息子の一人がアラブの土地に来て、そんでカーバ神殿を作ったんだ。
で、この前ボクは大天使ガブリエルにガブリ寄られ、
啓示を受けて預言者になったんだぜ!すごくね?
で、君らのユダヤ教ってのは古くてもせいぜいモーゼのころ、
たぶん、もっと新しい時代にできた宗教だろ?
キリスト教なんてのはさらに新しい宗教さ!
で、モーゼよりもよっぽど古い時代に生きていたアブラハムが
神を敬虔に信仰していたのは間違いない。
ということはさ、アブラハムは少なくともユダヤ教徒ではないってことさ!
アブラハムが信じていた神を君らはヤハウェと呼ぶけど
ボクらはアラーと呼んでいるだけさ!
で、先日ボクは大天使から啓示を受けた、つまり預言者だ!
モーゼもイエスもボクの先輩にあたる預言者ということだから、
俺たちは宗教的には同じ仲間なんだよ!
仲よくしようぜ、兄弟!」
と言ったところがユダヤ教徒からボコボコにされたという・・・。

で、この件で腹に据えかねたのかどうかは分かりませぬが、
マホメットの力が大きくなるにつれてユダヤ教徒と対立するようになり、
彼らをメディナから追放したり彼らの農地を没収したり、
さらにはメッカ軍との戦争の際には
ユダヤ教徒のグループの一つが相手方と内通していた件を咎(とが)め、
このグループに属する成人男子を皆殺し!
財産没収まで行います。

マホメットは必ずしも
ユダヤ教そのものに対して敵対的であったわけではないようですが、
彼の教団が成立の当初から戦闘的であったのは
間違いのないところだと思います。
何しろ戦わなければ潰されてしまう状況ではありましたので・・・。

また、ここで登場するユダヤ教徒の全てがユダヤ人であったかどうか、
たぶん違うと思います。
ディアスポラ後にメディナに移住してきた
ユダヤ人による共同体があったのは間違いないと思いますが、
ユダヤ教を信仰するアラブ人も当時は数多く居たはずです。

イスラエルとハマス.jpgイスラエル国防軍の軍旗とハマスの旗  ウイキより
Meronim - https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15909930による
Guilherme Paula, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2741983
による

今月のウクライナ-151

イスラエル軍は早くもガザを全面的に包囲し、
北部ガザ地区の一般住民に対して南部への退避を勧告しました。
ことによると、このブログが公開される頃には、
イスラエルの地上軍が北から怒涛の進撃を行っているかも知れません。

さて、そんなパレスチナの地ですが、過去ログのどこかで書いたように、
パレスチナ問題は本来的には領土問題であって、宗教は関係ありません。
従いまして、基本、同じアラブ人であることから
アラブ諸国がパレスチナ人に対して連帯感を共有するのは理解できますが、
どういうわけか、
いつのまにやらイランが全面的にしゃしゃり出てくるようになり、
ユダヤ教徒 vs イスラム教徒の図式が表面に出てくるようになり、
現在ではイスラエル vs イランの構図が中東最大の不安定要因となってます。

何度も述べてきたように、
イランは印欧語系のペルシャ人で、アラブとは全く関係ありませんよ!

現在の人々からするとイラン=イスラムは当たり前に見えるのでしょうが、
イランが現在のようなあからさまなイスラム国家となったのは
わずか半世紀ほど前の 1979 年のイスラム革命の時です。
当時のイランはパフラヴィー朝(パーレビ朝)と呼ばれる王政の時代で、
センセらの世代では、
イランと言えば「出光石油とパーレビ国王」というカンジでした。
パーレビ国王は西欧化~脱イスラム化~資本主義化を推し進めたのですが、
ナカナカ上手くいかず、逆に社会が不安定化し、とうとう内乱が勃発!
ムジャヒディン・ハルクなどの共産主義勢力も登場し、
スカーフを被った女性兵士などが実際にドンパチしておりました。
そういう中で、かの有名なホメイニ氏がイスラムの指導者として登場し、
ここに他派を押さえてイスラム革命派が勝利!
現在見られるような、
シーア派イスラム教の教えに基づく政治体制を確立することに成功しました。
当時の日本の我々から見れば、
まるで時代が逆戻りしているかのような感覚を覚えたものです。

当時の東京には、
不安定な母国から逃れて出稼ぎにきたイランの若者がたくさん居り、
上野の西郷さんに通じる階段には、
袋のようなジーンズをはいて繋がった眉毛をした多くのイラン人が
ひな壇の上をハトと一緒にたむろっておりました。

センセの M 大時代、隣の講座にイランから来た女子学生がおりまして、
常にスカーフを被って熱心に研究を行っておりましたが、
イスラムの教えにも熱心で、一日に 5 回の礼拝を欠かさず、
おかげさまで担当教授としょっちゅう揉め事を起こしておりました。
で、ある日のこと、
彼女が自分のアパートまで一緒に付き添って欲しい、家まで送って欲しい、
とセンセに頼んできました。
センセ、良からぬ期待を抱いて直ぐに OK したのはもちろんのことですが、
アパートに着いたら
「どうもありがとうございました」と日本語で言って、
そのままさっさと家の中に入って行ってしまいました・・・。
「お茶でもいかがですか?」
との言葉(あるいは more ?)を期待していたのですが WWW、
「アッラ~~~!!!」というカンジでした WWWWWW。

早い話が、女性が外出する際のイスラムの教えに従っていただけのお話です。
センセは信頼されていたのですね!
よく考えると、少し複雑な気持ちもしますが・・・。

で、革命後はやる気満々のサダムフセインとの間にイラン・イラク戦争が生じ、
同じイスラム同士でケンカするわけですが、
ほぼ同時期にはベトナムと中国が国境紛争を起こし、
少し前にはベトナムがポルポトのカンボジアに進攻するなど、
同じ宗教や共産主義を頂く国々の間での戦争が続いたことから、
当時の日本の多くのジャーナリストや思想家(大多数が左寄りの方々)が
戸惑うこと戸惑うこと!

そんな時代でした。

結局のところ、生物学や物理学その他の科学的基礎の理解無く、
単純に形而上学的な世界観の中でいくら議論を深めたところで
人間の行動を本当に理解することなど不可能ですよ!
というお話です。

で、大きく脱線してしまいましたが、
イスラエルやパレスチナとは無関係なイランが
なんでイスラエルにケンカを売りがちなのか?
一つには、そもそものイスラム革命の本質が
「アメリカ資本主義をイランから追い出したい!」
という側面が強かったことから、
アメリカ資本=ユダヤ資本という、
今でもよく耳にする陰謀論的な考えに基づき、
「憎っくきアメリカ人とユダヤ人は同じ穴のムジナじゃ!」と結論して、
イスラエルを敵と考えているフシがあります。
また一つには、
シーア派のイランの宗教指導者たちが「我こそはイスラムの盟主なり!」
と考えているからでしょうね。
要するに、スンニ派の牙城であるサウジアラビアとの宗教的な覇権争い
ということです。

初期の中東戦争のころは、
ナセル大統領率いるエジプトがアラブ~イスラムの盟主というカンジでしたが、
イスラエルに負けてばっかりで懲りたのか、
エジプトは早々にイスラエルを国家として認めるなど、
最近のアラブ連盟は「イスラエルとは事を荒立てたくない・・・」、
という想いが見え隠れします。
で、これに代わってイランがしゃしゃり出つつある、
というのが現状なのでしょうけど、
イランもどこで間違えたのか、
お友達としてロシア、中国、北朝鮮とつるむようになってしまい、
「こんなはずじゃなかったのだが・・・」
というのが本音であるような気もします。
これら三国の共通点は共産主義~元共産主義国家ということですが、
イスラムと共産主義って、相性はどうなんでしょうかね?
何しろ共産主義は無宗教主義思想ですし、
無宗教のはずが指導者崇拝という一神教ですし、
偶像否定のイスラムですが、
レーニン~スターリン~毛沢東~キムくんに至る
ビッグサイズの銅像を拝まぬ人民は速攻で強制収容所行き!
という国々でイスラム教は成り立つのでしょうかね?

ま、サダムフセインも自分の銅像を拝ませていたわけですが WWW。

中国ではイスラム教徒のウイグル族が抑圧されてますが、
イランの宗教指導者は彼らに対する連帯感は皆無のご様子。

ナカナカ都合のよろしい方々のようです。

F14.jpgパーレビ国王の時代にアメリカから購入した F-14 トムキャット  ウイキより
Shahram Sharifi - http://www.airliners.net/photo/Iran---Air/Grumman-F-14A-Tomcat/2397261/L/, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=41501421による

懐かしい可変翼の海軍機です。
イラン・イラク戦争は、略してイライラ戦争などとも呼ばれてました。
傍から見ている限り、こんなカバカバしい戦争も無いもんだ、
と皆が思ってました。