今月のウクライナ-155

さて、マホメットによるイスラムの布教活動を
ソ連のボルシェビズムに比してみましたが、
拡大のイメージとしてはあながち的外れではないように思えます。
マホメット時代の出来事をイメージするのはナカナカ大変ですが、
レーニン時代の出来事に関しては多くのフィルムも残っており、
より容易くイメージできます。

そもそも論ですが、マルクスが言うには、
「資本主義は自らが持つ矛盾によって必然的に瓦解し、
最終的には共産社会となる」
とのことですが、
ならばレーニンは
安全なスイスの別荘で指をくわえて見物してればよいだけのはずですが、
どういうわけか革命などという方法で自分の主張を達成しようとする・・・。
成功すれば「革命の指導者」ですが、
失敗すれば、単なる「テロリスト」です。
マホメットの場合も、彼がウフド山の戦いで石に当たって戦死していたら
イスラム教は広まることはなかったと思います。

イスラム教とは反対に、キリスト教は、
イエスが死ぬことによって広まる結果となりました。

歴史の興味深いアイロニーです。

ボルシェビキが政権を掌握後は赤軍 vs 白軍の壮絶な内戦が始まりますが、
それに打ち勝って漸くソ連邦という形で共産主義に基づく国家が成立。
これに収まらず、レーニンは、コミンテルンの指導の下に、
自分らが唱える共産主義思想を世界中に拡散しようと試みますが、
マホメットはもっと直接的に武力を用いてイスラムの布教に努めます。
有名な「コーランか剣か」ということですが、
実際には、「コーランか剣か、どっちも嫌ならば税金を納めろ!」
ということだったらしいです。

因みに、最近では「コーランじゃなくってクルアーンだ!」ということですが、
いつものようにガン無視して進めていきます。

で、実際のところ、
イスラム支配下の地域には数多くのユダヤ教徒やキリスト教徒がおり、
彼らは税金を支払っている限りは信仰の自由が認められていただけでなく、
ムスリム=イスラム教徒であれば負うべき義務も免除されるなど、
イスラム教の支配は他教徒に対して寛容であったと言われています。

共産主義者の統治は情け容赦がなかったわけですが・・・。

で、各地で起こる反イスラム勢力の制圧に成功したマホメットに対して
アラビアの多くの部族連は彼に従う形となり、
ここにマホメットとその仲間はアラブにおける一大勢力となるわけですが、
結局のところ、イスラム教の教えに積極的に魅せられて我も我もと従った、
という形には見えず、
イスラムの力が拡大するにつれて、悪く言えば「勝ち馬に乗る」、
よく言えば「いつもいつも小競り合いを繰り返していた我々であるが、
マホメット氏は実力もあるし、ナカナカ良いことを言うオトコであるから、
一同、彼の下で仕事をしてみようじゃないか!」
というカンジで集まったのではないのかな?
と思ってます。

その後、マホメットの死後、イスラムの指導者の間では
教義や指導者の出自の正当性などに関する意見の相違から
早くも今日に至るまで続く内紛が生じるわけですが、
ボルシェビキもまた同じく、思想の解釈や政策の方向性の違いなどから
血で血を洗う身内同士の争いが生じるのは、
皆さまもよくご存知のことかと思われます。

マルクス.jpgカール・マルクス  ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=478722より
マルクスはユダヤ教徒の出自を持ちます。
彼自身は嫌がっていたようですが・・・。

要するに、ロシア革命は、
「マルクスの思想を借りて行われたレーニン一派のクーデター」、
と考えるのが最も分かりやすい説明かと思われます。なぜなら、
マルクス主義ではない社会主義勢力も数多くいたわけですから・・・。
これらはみんな処刑~収容所送りにされてしまいます・・・。

生き残るためにどんどん変質を遂げていった共産国家のソ連ですが、
1989 ~ 1991 年にかけて結局は崩壊してしまいます。
中国共産党は未だ生き残っておりますが、
もはやマルクス本来の共産主義基本概念のかけらもなく、
残ったのは、
「いかなる手段を用いても自らの党を守り切る!」
という意志だけのように見えます。

キムくんに至っては、
共産主義の看板を掲げた中世のお城の中で、日々、
裸の王様を演じることに余念がありません。