今月のウクライナ-79

さて、キリスト教徒となったフランクのメロヴィング朝ですが、
国土は息子たちによって分割統治する、というゲルマンの伝統のために
小分割化された国どうしで争いが絶えず、毒殺などは朝飯前!
日々、すったもんだしておりました。
一方で、8 世紀に入るとイベリア半島にイスラム教徒(ムーア人)が侵入し、
現在のスペインの地は全土を彼らに席巻されますが、
732 年、ピレネーを超えてフランク領に侵入してきたイスラム教徒を
カール・マルテルという男がトゥール・ポワティエ間の戦いで粉砕し、
イスラムをここで食い止めます。

トゥール・ポワティエ間の戦い.jpgトゥール・ポワティエ間の戦いの図  ウイキより
当時のフランク軍を彷彿とさせる絵ですね!
中央の騎士が持ってるのが
フランク族の名前の由来となったとも言われるフランキスカ(投げ斧)
でしょうか?
手前の男は遊牧民に特徴的な短弓を持ってます。
フン族に教わったのでしょうかね?
「教えてくれて、タンキュー!」と言ったとか・・・。


カール・マルテルはメロヴィング王朝の宮宰(きゅうさい)職にあった男で、
この勝利によって成り上がっていきます。
宮宰とは、宮廷の第一官吏みたいな職です。

で、彼の死後、息子の一人であるピピン三世が台頭し、
メロヴィング朝を排して自分の王朝を打ち立てるべく、画策し始めました。
彼はローマ教皇の権威を持ち出し、これを最大限に利用!
東ローマと仲の悪かったローマ教皇側としても、
フランクの王権を利用して自らを守ってもらおうという腹積もりがあり、
いわゆる win - win の関係がここに成立!
751年には神によって王に選ばれたことを示す「塗油の儀式」とやらが
教皇特使ボニファティウスによって執り行われました。

どんな儀式か知りませんが、体にアブラでも塗ったんでしょうね・・・。

ピピン三世.jpgピピン三世の像  ウイキより
油を塗ったおかげでナカナカ血色が良いです。


歴史学的には、このことによって「メロヴィング家の血を引く者」という
血統に基づく権威よりも、教皇によって任命された権威の方がエライ!
ということが示されたわけで、
以降、「ローマ教皇のお墨付き」という権威付けが専らとなってきます。
同時に、教皇側としては王権によって守られる、という形となり、
ここに典型的な中世ヨーロッパの形が出来上がりました。

で、王様となったピピン三世ですが、カール・マルテルの子孫ということで、
カロリング朝を名乗り、フランク王国も全盛期を迎えることとなります。