今月のウクライナ-167

一昨日までの、あの生暖かい日々(一部の地域では夏日!)から一転して
本格的な冬が到来!
スキーヤーやスケートボーダーなど、
冬の到来を待ち望んでいた方々も多いのでしょうが、
「一年中アロハ着ていたい!」というタイプのセンセとしては、
これからしばらくはガマンの季節となります。
ついこの前まで暑くて暑くてヒ~ヒ~言っていたのですけどね!

ガザ地区では、イスラエル軍、誤って自らの人質を射殺してしまいました。
しかも白旗を掲げていたとのことです。
ま、第三者的にとやかく言うのは簡単ですが、
実際に目の前の敵と戦っている兵隊、
特に市街戦の最中では、
あっても可笑しくはない不都合な出来事、ということでしょうが・・・。
特にその前日あたりには瓦礫の陰に身を隠して撃ってくるハマスに
多数のイスラエル兵がやられているので、
特別に気が立っていたのでしょうか・・・。
撃った兵隊、いずれは軍法会議にかけられるのでしょうが、
無罪の判決が下るかと思います。
ネタニヤフ氏にとっては困難な戦いであるのは承知しておりますが、
人質を捕られているという事実をもう少し考慮に入れて
時間をかけても良いからより慎重に行動できないものか、
センセなどは思ってしまいます。
第三者的にとやかく言うのは簡単ですが・・・。

ウクライナ前線も膠着状態が続いてます。
ロシア軍の戦い方は酷いものですが、
やられてもやられても BK の一つ覚えのごとくに攻撃を繰り返してきます。
アウディーイウカ方面では、ウクライナ軍、守りに徹することに決めたのか、
逆に自分たちの防御陣地を固め始めているようです。
南のドニエプル川の橋頭保も、拡大の兆しが全くありません。
渡河時の犠牲も多い、との情報も入ってきます。
加えてアメリカ議会での共和党の反対で、ナカナカ予算が通りません。
西ウクライナの村議会では、議場で副議長が手榴弾を破裂させたという・・・。
例の F16 やエイブラムスは、一体どこで何をしているのやら・・・。

対するロシアも決め手が無く、無駄に兵を殺しています。
おかげさまでロシアの監獄はガラガラになりつつあるとか・・・
ネパールのグルカ兵まで投入しつつあるとか・・・
運よく死なずに除隊となった元殺人犯が地元に帰って
地元住民は戦々恐々としているとか・・・
色々な与太話が飛び込んできますが、
プーチンの再選は確実です。
来年のアメリカの大統領選に仮にトランプが参入可能であるとしたら、
彼が選ばれるのも確実です。
となりますと、来年の秋以降は、
プーチン、トランプ、キンペーの、三役揃い踏みの世界となります。
NATO 軍、臍を固めつつあるようですが、日本は?
来年の秋以降の「わあ~くに」の舵取りは、
どなたがおやりになるのでしょうかね?

さて、コルドバとバグダッドの栄華の時代までお話が進んできましたが、
ここで場面は一転して極東に移り、
しばらく契丹(きったん)のお話となります。
何故かって?
この先、お話は
1)イスラムの中央アジアへの波及
2)イスラム王朝の乱立
3)イスラムのインドへの浸透
4)セルジューク・トルコ
5)十字軍
まで一気にお話する予定ですが、
このためには西遼(カラ・キタイ)についてお話する必要があるからです!
ついでにちょこっとノルマン人にも寄り道します。
で、しばらくお時間を下され!
では!

今月のウクライナ-166

イスラエル軍、とうとうトンネルに海水を注入し始める!
ひゃあ~~~っ!!!
例え争っている仲とはいえ、
武田に塩を送った謙信のように、
人道的見地から言えば、
少なくとも浮き輪と水着、できればスノーケルセットくらいは
前もって送っておくべきだと思いますっ!・・・。

さて、アブドゥル・ラフマーン1世によって復興相成った後ウマイヤ朝ですが、
ベルベル系とアラブ系との対立などで結構ゴタゴタしておりました。
孫のアブドゥル・ラフマーン3世の時代には
これらの反乱軍や北方のキリスト諸国軍を打ち破り、
さらには対岸のマグレブの地に新たに生まれたファーティマ朝のカリフに対抗し
西暦 929 年、自らカリフの称号を名乗るようになります。
ここにイスラム世界は、
アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝のそれぞれがカリフを起て、
分裂状況を呈することとなりますが、
ラフマーン3世は「イスラムの前にはみな平等」を全面的に掲げ、さらには
キリスト教徒やユダヤ教徒に対しても彼らを寛容に扱うなどして
アンダルシアをまとめ上げ、
最終的には「おれたちゃみんなアンダルシア人!」
みたいな雰囲気を作り上げることに成功したようです。
若いキリスト教徒にとっては先進的なアラブ文化にあこがれ、
アラブ風の衣装を身にまとい、アラビア語で話すなど、
いわゆる「アラビアかぶれ」の連中も数多くいたようです。
このようにアラブ化した連中のことを「モサラベ」と呼びますが、
今も昔も若い連中がその時々の主流に染まるのは世の常であるようです。
また、ユダヤ人なども寛容に扱われただけでなく、
彼らもまたこの時代のアンダルシアにおいては
特に学術の分野において大きな貢献をしたようです。
現在進行形の両者に聞かせたい話ではありますね。

但しこのような異教徒、特にキリスト教徒に対する寛容政策は、
時代が下るにつれて失われていきますが・・・。

で、ラフマーン3世は、前回お話したように、
東のバグダッドに対抗して学問や芸術にも力を注ぎ、
バグダッド政権が古代ギリシャの学問を
ことごとくアラビア語に翻訳していったように、
コルドバ政権はこれらをことごとくラテン語に翻訳していった結果、
ラテン語で書かれた古代ギリシャの学問は
ピレネー山脈を越えて欧州に流入し、
これらはその後のルネッサンスの礎(いしずえ)となっていきました。

今、ちょとふと思ったのですけど、
ローマ時代に使われていたのがラテン語ですし、
ローマ人は古代ギリシャの文化を引き継いだ連中ですから
古代ギリシャ文化がアラブ経由で欧州に還元されるのは可笑しい、
と感じるのが普通ですが、
これはやはりバチカンやビザンツによる欧州のキリスト教化によって
これらのローマ文化も自らの手でテッテ的に断裂~破壊されたため、
ということなんでしょうね。
どこぞの国の「文化大革命」とやらを思い浮かべますが・・・。

この地に西ゴートの蛮族が侵入する前はローマの統治下であったこの地は
ローマ式の農法で灌漑設備も整い、
豊かな農地が広がっていたようですが、
西ゴートの連中は木を伐り、灌漑設備を破壊し、全て草地にして
羊の飼育で生計を立てていたようです。
この点、イギリスや、あるいは
イギリス入植後のニュージーランドなどと同じです。

ゲルマンやアングロ・サクソンとは反対に、
イスラムの連中はシリアやエジプトの進歩的な農法をこの地に再導入し、
新たに網の目のような灌漑設備を整え、
オリーブはもとより砂糖、レモン、コーヒー、綿花などなど
数多くの農作物をこの地で栽培するようになりました。

因みに、アラビア語では
砂糖はスッカル、コーヒーはカフワ、レモンはリームーン、綿花はクトウヌン
と言いますが、これらは全てアラブ由来の作物です。
英語に取り入れられたアラビア語の一部、ということです。
アラブ原産というよりも、
この当時のアラブの地を通して入ってきた作物が、
その後、現在に至るまでに世界中に広がった、ということです。

興味深い話として、
敬虔なるイスラム教徒は日に 5 回の礼拝を欠かしませんが、
その都度、斎戒沐浴して身を清めるのが義務です。
もちろんいつもいつも沐浴とかできないと思いますので
一応これは「そうすべき」の話ではあると思いますが、
アンダルシアのイスラムの地には
数多くの公衆浴場が建設されたということですので、
イスラム教徒は清潔好きな人々であった(ある)のは確かなようです。
これとは対照的に、中世のキリスト教徒の間では
風呂に入って身を清めることはキリストに対して不敬にあたる
との考えが広がっていたらしく、
羊肉や豚肉を食らってただでさえ臭いのキツイ欧州人、
これが風呂に入らないとなると、これは最悪!
キリスト教徒がイスラム教徒をアンダルシアの地から追い出すようになる
いわゆる「レコンキスタ」の時代には
これらの公衆浴場はキリスト教の精神に反すると考え、
ことごとく破壊してしまったという・・・。

中世の欧州においては、この後に
黒死病が猛威を振るう時代がやってきますが、
衛生観念の違いが
このようなパンデミックの原因の一つにもなったのでしょうかね?

コルドバのメスキータ.jpgコルドバのメスキータ  ウイキより
Berthold Werner, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47616461による

メスキータとは、スペイン語でモスクのことです。
チキータとは、スペイン語で女の子のことです。
バナナや卓球でもおなじみです。
因みに、バナナもアラビア語由来の可能性が指摘されてます。
「そんなバナナ!」← 最悪



今月のウクライナ-165

前回、並びに「今月のウクライナ-159」の続きとなります。
ウマイヤ朝は北アフリカ・マグレブ地域へ怒涛の進軍を行いますが、
マグレブ総督のムーサーと部下のターリクはその勢いのままに海を渡り、
イベリア半島に上陸!
西ゴート王国を滅ぼしてしまいます。西暦 711 年のことです。
ムーサーはアラブ人、ターリクはベルベル人です。
因みにムーサーと言う名前はユダヤ教のモーゼに相当します。
実は、アラブのイスラム教徒の名前には、ユダヤ教やキリスト教と同じく、
旧約聖書から取られた名前が多いです。
ただ、発音が異なるので、ナカナカ気が付きませんが・・・。

同じ名前同士でケンカばかりしているという WWWWWW。

で、西暦 732 年、一旦「トゥール・ポワティエ間の戦い」で押し返されますが、
その後は半島の大部分を支配する時代が長らく続きます。
西ゴート征服後は、
財宝に加えて捕虜としたゴートの王侯貴族数百名を引き連れて
カリフの住まうダマスカスに凱旋したとのことです。

で、
イスラム教徒によりその大部分が支配されることとなったイベリア半島ですが、
ピレネーの南山麓一体にはキリスト教徒の小王国がいくつか残り、
イスラム国家に税金を納めるなどして何とか生きながらえておりました。

その後、
今月のウクライナ-161162」でお話したアッバース革命が起こりますが、
革命の嵐を逃れたウマイヤ家のオトコ、アブドゥル・ラフマーン1世
(=アブド・アッラフマーン1世)は何とか殺戮を逃れ、
少数の部下を引き連れて北アフリカからイベリア半島に渡り、
そこで自分の勢力を築き上げて在地のイスラム勢力と戦い、これを打倒!
西暦 756 年、コルドバに入城し、自らの王朝を打ち立てることに成功します。
これを後(こう)ウマイヤ朝と呼びます。

因みに彼の母親はベルベル人であったということです。

その後は
アッバース派の反乱軍やフランク王国のカール 1 世などとも戦いますが、
これらを全て打ち破り、
コルドバは、東のバグダッドと並ぶ空前の繁栄の時代を迎えることとなります。

アブドルラフマン一世.jpgアブドゥル・ラフマーン1世の像  ウイキより
Pablogilena - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11079817による

今月のウクライナ-164

さて、イベリア半島です。現在のスペインとポルトガルの地です。
イベリア半島の最南端に位置するジブラルタルはイギリスの飛び地であり、
地中海の出口~入り口を押さえる戦略的な場所であるがゆえに
イギリス海軍の軍事施設もあり、同時に、
「最後のネアンデルタール人」の地としても、
その道の人々の間では有名な場所です。

これまでの説ではネアンデルタール人の絶滅時期は 2 万 8000 年くらい前、
と言われてましたが、最新の研究では
絶滅時期はクロマニヨン人などの現生人類が欧州に現れる時期とほぼ重なる
およそ 4 万年くらい前、との説が唱えられてます。
それでも数千年くらいは両者は共存していたようで、
ペーボ博士の研究結果から、現生人類とネアンデルタール人との間には
ある程度の交雑があったことが知られてます。
このブログでも何度かご紹介してまいりました。
現在の欧州人の間でも、
前回お話した立派な眼窩上隆起を有するヒトがしばしば見られますが、
事によると、ネアンデルタール人との交雑を示唆するものなのかも・・・。
歴史的な人物としては、
アンデルセンなんかもナカナカ結構な隆起を持ってます。

で、出アフリカ以降の数万年にわたって
欧州大陸では狩猟採集民が広く薄く点在していたようですが、
冷涼にして日光の少ないこの地において、
彼らは形質的にも段々と変化していきました。
その途次においては、これも以前のブログでお話しましたが、
黒い肌に青い目を持つ人々などもいたようです。

一応、現在の説では農業は現在のトルコの地、
いわゆるアナトリアでの発生説が主流のようですが、
ま、あまりピンポイント的に考える必要もなく、
大雑把に中東の地で生まれた、と考えておいて OK 牧場だと思います。
で、イベリア半島におそらく
初めて農業をもたらしたであろうと思われる人々がその名もイベリア人で、
彼らの起源はコーカサスあたりだったと考えられてます。
彼らは、紀元前 5000~3000 年くらいの間におそらく船を用いて移動し、
現在のイベリア半島東岸に移住~定住したようで、
現在のバスク地方に住むバスク人との関連を指摘する向きもあります。

時代が下って紀元前 1000 年代になると、
ピレネー山脈を越えて北方の地からケルト人が侵入し、
ケルトは中央から西、イベリア人は東と住み分けていたようですが、
中央部では両者の混交も生じ、
ケルティベリア人=ケルト・イベリア人となりました。

イベリア人.jpgグラナダ県バサから出土した「バサの貴婦人」と呼ばれる像  ウイキより
イベリア人の文化を表すものだそうです。
Enciclopedia Libre: Dama de Baza ampliada.jpg.
作者: Pablo Alberto Salguero Quiles., CC
表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=675067による


その後は一時的にアフリカ対岸のカルタゴの支配下に置かれますが、
カルタゴがローマに滅ぼされるとローマの支配下となり、
この地は段々とローマ化していきます。

ゲルマン人の大移動の時期、西暦 5 世紀初頭には
例のヴァンダル人に一時的に占拠されたますが、
ヴァンダルが北アフリカに移動したのちは西ゴートの連中がこの地を占め、
イスラムの侵入まで、イベリア半島は西ゴート王国の地となります。

因みに、イベリア半島南端部をアンダルシア地方、
イスラム時代の半島の支配地域全体をアル・アンダルスなどと呼びますが、
これがヴァンダルに由来するものであることはお分かりでしょう。

今月の書評-140

さて、昨晩の NHK BSで放送したタイ、マニ族の番組ですが、
半分面白かったが半分ガッカリした!
2018年の東京大学の太田教授らが発表した DNA 分析結果などから
縄文人のルーツが東南アジアに由来する可能性があることは知られてましたが、
マニ族が、出アフリカから南ルートをたどり、
最終的にスンダランドに到達した人々の末裔である可能性がある、
と、ここまでは OK です。
但し、縄文人の祖先は旧石器時代人であり、
日本列島に到達したのはおよそ 4 万年前なので、
調べた人骨が「ホアビン文化」時代のものということで、
縄文人と比較するには新しすぎるのではなかろうか?とも思います。
もちろん 4 万年以上も前の人骨を
東南アジア地域からそんなに都合よく見つけることもできないので、
これはこれでよろしいのですけど・・・。

フィリピンを含む東南アジアには、現在でも、
「ネグリト」と呼ばれるアフリカのピグミーのような人々が点在し、
彼らが上記スンダランド人の生き残りである可能性は昔から指摘されてました。

で、マニ族が縄文人のルーツの可能性があるのならば、
マニ族の男性の YDNA は当然 D 系統であるはずですが、
調べたのか?
スンダランドのネグリトの全てが D 系統なはずもなく、
D でなければ縄文人の先祖ではない。
アンダマン諸島のオンゲ族は D であり、
縄文人と祖先を共有する連中であることが明らかです。
但し、縄文人と祖先を共有する ≠ 縄文人の祖先、でもあることに注意!
ナカナカ複雑だね。

YDNA のハプロタイプを古代人骨から推定することは困難を極めますが、
マニ族のオトコは目の前にいるのだから、調べりゃすぐ分かる。
たぶん、希少部族だということでタイ政府あたりからの制約が強いために
接触禁止なのであろうか?
マニ族は英語版のウイキに載っていたので調べたが、
遺伝子に関する記載はなかった。
確かにホアビニアンと縄文人の総 DNA 分析結果からは、
両者が近いグループに属するのは間違いない。
けれどもそれは、マニ族が縄文人の直接の祖先であるとの証明にはならない。※
もちろん特番はそんなことを言っているのではなく、
言いたかったのは、
「縄文人と繋がる可能性がある人々の末裔が現在もジャングルに住んでますよ!
こんなカンジの人々ですよ!」
ということに過ぎなかったのであろう。
※ちょとこの文章は変だね。
マニ族は現代人なんだから祖先のはずはない。
言うべきは、「直系の祖先を共有するかどうかはまだ不明」と書くべきか。

マニ族の遺伝子構成が分からないので、
取り合えず彼らの外見だけで色々考えると、
他のネグリトと同じく肌の色は黒色で髪は縮毛、小柄、
というのが共通している一方で、
非常に印象的な特徴が眼窩上隆起(がんかじょうりゅうき)だ。
一般的に言えば、
高くそびえる眼窩上隆起は古代人の証(あかし)とも言える。
しかしながら、
他のネグリトでマニ族と同じ程度の眼窩上隆起を持っている連中は
センセは見たことない(もちろん実物じゃなくて写真で!)。
アンダマン諸島の D 系の連中とも大いに異なる。
元々のアフリカの連中にも見られない。
オーストラリア原住民は高い眼窩上隆起を持っているが、
少し形態が異なるような気もする・・・。

土偶.jpg縄文時代の土偶、特にオトコの土偶には
しばしば眼窩上隆起が表現されてます。
明治初期のアイヌ人の写真からも、彼らの眼窩上隆起は印象的です。
楽天の聖徳工芸さまより。ありがとうございます!  
https://item.rakuten.co.jp/shoutokukougei/10000094/

であるとすれば、マニ族は、事によると、相当の昔に
デニソワ人と比較的多く混血した人たちなのではなかろうか?
少人数で長らく孤立して生きてきたことから、
この形質がよく維持されてきた、ということだろうが、
四の五のセンセがあれこれ推測する前に、
専門家はさっさと遺伝子を調べてキャシアス・クレイ!

YDNA の D に関しては
過去ログの「今月の書評-37」で比較的詳しくお話してますし、
アンダマン諸島人に関しては引き続き「38~39」でお話してますので、
参考にしてください。※
YDNA の D は分類がしょっちゅう変わるので、ここでは D で通します!

さて、ここまでは良いのですが、
番組では最後に古墳時代の DNA 分析を引き合いに出して
「現代日本人の遺伝子構成においては渡来人の影響が最大である!」
との結論を引き出しているのが最悪だ!!!
これは 2021 年にサイエンスに発表された金沢大学の論文結果
に基づくものですが、
この金沢大学の論文に関しては、
今月の書評-135」で徹底的にこき下ろしているので、
是非ご覧になってくだされ!
センセの批判、今から読んでも一字一句の訂正もありませぬ!

※マニ族の写真、載せたかったのは山々でしたが、
なにせ NHK ですので転載禁止!
NHK の WEB サイトにでも立ち寄って下され!


今月のウクライナ-163

イスラエル軍、とうとう南部ガザ地区に進攻開始!
ハマス、イスラエルの核関連施設に向けてロケットを打ち込むも
アイアン・ドームで撃ち落とされる!
イスラエル、ハマスのトンネルの水攻めを計画するも、
「秀吉かっ!?」の突っ込みが殺到!!!

アメリカのオースチン国防長官が
「このままではイスラエルは戦術的には勝てても戦略的には敗北する」
と発言しましたが、
その通りだと思います。
これでは世界中の世論は沸騰してハマスの思う壺だし、
そもそもトンネル内の人質はどうなるのか?
加えてヨルダン川西岸地区で
イスラエル人入植者による乱暴狼藉も報道されている。

ネタニヤフ氏、頭に血がのぼっているのは分かるが、
一旦、自らバケツの水でもかぶって出直した方がよろしかろう!

これに加えてベネズエラとミャンマーで動きが・・・。
さてさて・・・。

さて、アンダルシアのイスラムのお話をするつもりでしたが、
ちょと待っててね。
明日の夜の 9:00 から NHK BS で
過去ログでも一度お話したことのある内容の、
センセにとってはチョー興味ある番組が予定されているので
それを見てから「スペインとイスラム」のお話をします。

世田谷散歩道 - 特番

世田谷散歩道?
って、いきなり何だべ???

ということでありますが、
昨晩のブラタモリで、タモリ氏と野口さんが世田谷を歩いていた!
世田谷はセンセが 4~5 歳から小学校 5 年生の前半まで生息していた場所だ!

ワ~イ ♪

ということで、今回は、
5 年前に経堂の東京農大で行われた乳酸菌学会に出席したあと
一人でブラ散歩したときにブラ撮った写真をブラ載せてお話したいと思います。

この年はコロナ直前の年でブラ OK でしたが、学会、真夏に行われたので、
めちゃくちゃ暑かった!
経堂から豪徳寺まで一駅は小田急線で行って、
豪徳寺駅から商店街を抜けて八幡様~豪徳寺~世田谷城を通って
区役所~国士舘大学を横目に見ながら梅が丘の友人の家まで歩いて行った。
暑くて暑くて汗だくで、途中、ホント死にそうだった・・・。

下の写真は豪徳寺駅から商店街を下って
我々小学生が「ケチ幡堂」と呼んでいた文具~模型店前の玉電の踏切です。
ケチ幡堂は、踏切を渡った先の写真右手角にあった。
ここで外人の若い女性が、ナンカ、小さな人形を踏切前に置いて
写真を撮っていましたが、
たぶんその後に SNS なんかに投稿するのであろう。
で、このケチ幡堂前の踏切を渡って左に折れて、まずは八幡様まで行った。


ケチ満堂前の踏切.jpgこれがケチ幡堂前の踏切。
名前の由来は大体分かると思いますが WWW。
それにしても小学生というのは、昔も今も、
あだ名をつけるにおいては天才的な才能を発揮するもので・・・。

八幡様を裏から入って表に抜けた。
奉納相撲の土俵もそのまま残り、雰囲気は昔と全く変わってなかった。


八幡様鳥居前.jpg八幡様を表から見たところ。
茅の輪くぐりがありました。


宮の坂駅前.jpg宮の坂駅の踏切。
昔と変わりません。
昔は、この踏切向こうの白い建物(たぶん右の方)は本屋で、
少年サンデーとか少年マガジンとか付録がたくさんついた月間マンガ誌とか
平積みに置かれてましたが、
センセが小学 2 年生のとき、
忘れもしない赤塚不二夫の「おそ松くん」の連載が始まりまして、
この店の前で鼻水をた垂らし垂らししながら立ち読みしつつ
ギャハハハ大笑いして読んでいたのもいい思い出です。

本屋のオヤジにとっては悪い思い出かも知れませぬが・・・。


豪徳寺山門前.jpg豪徳寺の山門前です。
センセの家は、向かって左に 10 メートルくらいのところにありました。
山門の右わきに小さなお店があり、
お参りする人々のためにお線香やお墓に手向ける花とか、
例の招き猫の人形というか猫形というか、
などを売っておりました。


豪徳寺参道.jpg山門から参道を臨みます。
今は舗装されてますが、昔は玉砂利の道でした。
向かって左側に、昨晩のブラタモリで登場した団地があります。
タモリが「団地ともお」の話をした場所です。
センセは団地ともお、って知りませんが・・・。

この団地はセンセが小学生の時からあったので、
相当古くからあることになります。
それでも戦後だとは思いますけど・・・。
たぶん、都住だと思います。

この都住の建設に関わっていたのかいないのか分かりませんが、
直ぐ近くにいわゆる「飯場(はんば)」がありました。
最近の飯場は立派なものですが、
センセの頃はもっと原始的で、
文字通りの掘っ立て小屋にアンペラを敷いたようなものでした。
昭和 40 年代くらいになって、いわゆるプレハブ形式となりました。

この飯場で働いていた一家族の息子がセンセの同級生におりまして、
センセと仲良かった。
で、一度招かれてこの飯場にお邪魔しましたが、
彼のお父さんとお母さんが大変優しくて、
ニコニコもてなしてくれたのをとてもよく覚えてます。

たぶん、彼らだと思いますが、
いわゆる「ヨイトマケ」による工事を
山門前で行っていたのを見た記憶があります。
後にも先にもこの一回限りです。
何の工事であったのかは分かりませぬ・・・。
その後は直ぐに大型機械で打ち込む方式が主流となりました。

団地から下の道に抜ける途中には、
たぶんタモリらも通ってきたと思いますが、
湾曲した坂があり、
坂の途中には貸本屋がありました。
ワチサンペイのマンガや、
水木しげるの「河童の三平」なんかを借りて呼んでました。


鐘楼前.jpg山門を入って右側に立派な鐘楼があります。
写真では木々に隠れて少し分かりづらいですが・・・。
昔は大晦日になると近くの住民が集まって鐘を突きましたが、
今でもやっているのでしょうかね?


本堂.jpg豪徳寺の本堂です。
センセが幼稚園の時、ここで花祭りを行いました。
センセもお釈迦様の像に甘茶をかけたあと、甘茶を飲みました。
うす甘かったです。
因みに、当時は豪徳寺の裏の方にその名も豪徳寺幼稚園があり、
お寺の住職さまが園長先生でした。
たぶん、今では幼稚園は無いと思います。


招き猫を祭るお堂.jpg左に曲がって行くと、右手に例の招き猫のお堂があります。
写真の右側の門が入り口です。


招き猫.jpg当時も数組の外人観光客が写真を撮ってました。
現在はもっと数が増えていると思いますが・・・。
ブラタモリによれば、奉納されているネコ像は 1 万体以上だということです。
「ネコ寺」ということからでしょうが、
昔は境内にしばしば捨て猫が箱などに入れられて捨てられておりまして、
小学生のセンセはこれを可哀そうに思って拾ってきて母親に怒られる、
でも、拾って来たネコを程なくみなで可愛がりだして結局は家族となる、
というおなじみのパターンを二度繰り返しまして、
最初のネコは「ドラ」、二匹目は「チビ」と、
名前もおなじみパターンでありました・・・。


無名戦士の墓.jpgお堂の前にあるのが「無名戦士の墓」。
ナカナカおどろおどろしい建造物です。
豪徳寺界隈で、センセらは、2B 弾やら銀玉鉄砲やらを繰り出して
ドンパチドンパチ戦争ゴッコばっかしやらかしていたという・・・。
いまから思えばとんでもない罰当たり連中でした。

すんごく面白かったけど・・・。


世田谷城址公園.jpg豪徳寺を後にして、ブラタモリでもやっていた世田谷城に行きました。
写真手前は世田谷城址公園です。
ブランコもあります。
公園は、センセらが小学生の頃に作られました。
昨晩の話では、城址公園に面する道は、以前は川であったとのこと。
初めて知りました。
センセが通っていた「城山小学校」はこのすぐ近くにありますが、
城山小学校のすぐ横に川があり、これは烏山(からすやま)川で、
センセの家族が豪徳寺に移る前に住んでいた世田谷区上馬の家の
すぐ裏に通じる川でした。
いまでは暗渠となって、遊歩道みたくなっているようです。

♪ 城山の森、風さわやかに~~~・・・
城山小学校の校歌、今でも覚えてますよ~~~!!!


城址公園-2.jpg公園の階段を登って行くと、お城の曲輪(くるわ)や堀切などが出てきます。
写真のベンチにはコンビニ弁当のゴミが捨てられておりました。
世田谷住民ッ!


堀切.jpgこれは堀切。
センセら城山小学校の小学生にとって、
世田谷城はまたとない 203 高地でありました。
ここから何度突撃して討ち死にしたことやら・・・。
世田谷の土質はいわゆる関東ローム層ですので、
ポクポクした赤土で出来てます。
これが「泥投げ合戦」に打ってつけのものでしたので、
城の上から投げられてくる土くれをものともせず
吶喊(とっかん)亀くん吶喊~~~!」を繰り返して占領すれば勝ち!
という、ナカナカ荒っぽいものでした WWW。

あ、そうそう、ここら辺の事情は過去ログに詳しく書いてありますので、
よろしければ読んで下され ♪
中山博士の横顔 その-4 世田谷区豪徳寺時代」あたりから
シリーズで載ってます。
但し、行ったら戻ってこれないかも知れないので、
くれぐれもご注意を!

では、晩秋の週末を暖かくしてお過ごしください。



今月のウクライナ-162

さて、「アラーの前ではみな平等」をスローガンに掲げて
勢力を伸ばしてきたイスラムでしたが、
ウマイヤ朝においてはアラブ人であるか否かで差別されるなど、
スローガンに偽りあり!の状況でした。
特に、
「昔の俺たちは文明人!」と思っていたであろうペルシャ人の間では、
せっかくゾロアスター教を捨ててイスラム教に改宗したのに
「昔のお前らは野蛮人!」と思っていたであろうアラブ人から差別されては
それは腹も大いに立つことであろう!

で、ペルシャの地では
今月のウクライナ-158」でお話したシーア派が勢力を伸ばしていたので、
シーア派のペルシャ人による反乱が頻発しました。
アッバースはアラブ人でしたが、
このペルシャ・シーア派の力を利用してウマイヤ朝を倒した、
というわけです。

で、ウマイヤに関係する一族を根絶やしにしてしまいますが、
ただ一人、殺戮から逃れたオトコがイベリア半島に渡り、
後(こう)ウマイヤ朝を打ち立てることに成功します。
後ウマイヤ朝に関しては、そのうちにお話したいと思います。

で、シーア派の力を借りて政権を奪取したアッバースでしたが、
アラブ人勢力を取り込む必要からスンニ派に鞍替えしてしまいます。
これに怒ったシーア派はアッバースに対しても反乱を繰り返しますが、
アッバースは「アラーの前ではみな平等」主義を徹底することによって
ペルシャ人の支持を取り付けることに成功!
ここに、旧弊を引きずる「アラブ帝国」から、
真の意味での「イスラム帝国」が誕生することとなりました。
「アッバース革命」とも呼ばれる一大改革です。

首都もウマイヤのダマスカスからバグダッドに変更され、
ペルシャの官僚機構を受け継ぎ、
アラビア語を公用語に定め、
軍隊もこれまでのベドウィンの集合体みたいなものから
給与を支払う常設軍を設けるなどして国家体制の変革を行い、
さらには紅海~地中海~中央アジアを押さえる形となったおかげで
シルクロード~インド洋~東アフリカ沿岸の要所を固め、
西は地中海諸国から東はインドを経て唐に至るまで通商を広げた結果、
世界中の富がバグダッドに集まる形となり、
バグダッドは当時の世界最大の繁栄を誇る一大都市となりました。

因みにバグダッドとはペルシャ語で「神の都」という意味だそうです。

第 5 代のカリフであるハールーン・アル・ラシードと
その息子の第 7 代カリフ、アル・マアムーンの時代には文化も大いに栄え、
バグダッドに「知恵の館」と呼ばれる学問所を設け、
ササン朝ペルシャ時代にギリシャからこの地に移植された
古代ギリシャの哲学や科学はことごとくアラビア語に翻訳され、
さらにはインド哲学やインド数学も移入されるなど、
バグダッド・ルネッサンスとも呼ばれる文化の華の時代を迎えました。

今月のウクライナ-124」でお話したように、
ささいな違いによって教義の争いを繰り返していたビザンツでは
せっかくの古代ギリシャの学問を受け継ぐことができず、
この先は暗愚の時代に突入していくわけですが、
古代ギリシャの学問は、
まずはペルシャ、その後はアッバース朝へと受け継がれることとなり、
錬金術から派生した化学などもこの時代に大いに発展することとなります。
「アルカリ」などはこの時代のアラビア語です。

また、アッバース朝成立の翌年、西暦 751 年に、
中央アジアのタラス川河畔で発生したとの戦いでは唐軍を打ち破りますが、
その時に得られた捕虜の中に「紙職人」がいたおかげで
紙の製法がこの地に伝わることとなり、
これもまたイスラム文化を押し上げる重要な要因の一つとなりました。

このような「紙」に書かれたこの時代の有名な書物が「千夜一夜物語」、
いわゆる「アラビアンナイト」です。
この物語の元となったものはササン朝時代のものであったようで、
これを基にしてアッバース朝時代の話が加わり、
最終的には 18 世紀のフランス、ルイ 14 世の時代に整えられ、
新たな話も付け加わって、現在の我々が知るところのものとなったようです。

千夜一夜物語.jpgアラビア語で紙に書かれた千夜一夜物語  ウイキより
http://expositions.bnf.fr/livrarab/gros_plan/mille/mille_2.htm,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=574874による

この物語のあらすじは皆さまご存知のことでしょうが、
誰しもが知っているアリババはアラブ人、
シンドバッドはインドの商人、
物語を語るシエラザードはペルシャの娘、というように、
まさにこの時代のインターナショナルな文化の中心から生まれた物語、
と言えるかもしれません。
リムスキー・コルサコフの組曲、「シエラザード」を挙げときます。
有名な第三楽章は、 22:30 辺りから始まります。

シエラザード.jpg殺されまいと必死に語るシエラザード  ウイキより
フェルディナント・ケラー - Sotheby's London, 13.June 2006,
lot 236 via Arcadja auction results, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28397584による

ついでにこっちも載せときます。

シエラザードの妹.jpgシエラザードの妹、ドウンヤザードです。  ウイキより
ジョン・フレデリック・ルイス -
The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、
distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202.,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=153851による

個人的にはこっちが可愛いです♪
因みに、女子プロゴルファーのセキ・ユウティンの妹も激カワです♪♪♪
あくまでも、個人的な感想ですが・・・。
あ、もちろんお姉さんもカワイイです!




今月のウクライナ-161

ガザでは人質の交換が比較的スムーズに行われているようですが、
今後の成り行きには不透明な所もあります。
結局のところ、ハマスは一体何をやりたかった、
あるいはやりたいのでしょうかね?
北部ガザ地区は文字通りの焦土と化し、
休戦も一段落すれば、イスラエル軍は南部も攻撃すると言ってます。
仮に現状のままで南部攻撃に踏み切れば
さらなる数の住民が巻き添えを食う形になりますので、
世界中からの非難の声が今以上に高まること請け合いです。
ハマスはそれを狙っているのだ!としかセンセには思えない・・・。
穿った見方かもしれませんが、
身内であるガザ地区住民を人身御供に世界中の同情を喚起して、
他力本願により現状を塗り替える一助とする、
と考えているとしか思えない・・・。

紛争終了後は、確かに、ネタニヤフ政権は崩壊すると思いますが、
それ以上のことがこの地に生じるか否か、これまた不透明です。
個人的には、やはり、パレスチナ国家を作り、世界がこれを承認し、
承認された国家としての責任を彼ら自身に持たせる
という形が有効であると思いますし、
現状の占領下ラインに留まらず、両者共に安全が保障される形での
新たな線引きを行うのも有効だと思いますが、
言うはやすし横山きよし的な問題ではあるのは間違いありません。


さて、東は中央アジアから西はイベリア半島に至るまでに
イスラムの版図を広めたウマイヤ朝ですが、
平等主義を唱えるイスラム教の本来の教えとは異なり、
実質的には「アラブ人のためのイスラム教」であったり、
また、統治においてはウマイヤ家中心の身内主義を採用したりで
各地に不満が高まり、反乱が頻発するようになりました。
そんな中、中央アジアのホラーサンにおいて興った反乱を利用して
モハメットの伯父の子孫であるアッバースがウマイヤ朝を倒し、
アッバース朝を開きます。
西暦 750 年のことです。

アッバース朝.jpgアッバース朝の最大版図  ウイキより
Umayyad750ADloc.png: Gabagoolderivative work:
Bassem (talk) - Umayyad750ADloc.png, CC 表示 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15024989による
イベリア半島の深緑色は、
今後に述べる予定の後(こう)ウマイヤ朝の領地です。



今月のウクライナ-160

先週は月曜から金曜までみっちりとマウスを用いての実験。
おかげで土曜~日曜は言うに及ばず、
週明けの月曜日もベッドから起きることができず、
丸三日間、文字通りへたばってた・・・。
トシだわ・・・。
で、本日火曜日になってようやく元気も回復したので、
久しぶりにブログを更新してます。

今回の実験はセンセの最後の実験となるかもしれず、
ならないかもしれず、
また、免疫系の仕事なので近交系のマウスや抗体、
さらには ELISA プレートなどを購入しての仕事となるので、
費用もかかります。
失敗は許されません。
だもんで予備実験に数か月を費やすなど
気合を十分に入れてここ一番、本番に臨みました。
で、本日、結果をざっとまとめてみたところ、
どうやら成功のようす!
期待に沿った結果が得られそうです!!!
よかったあ~~~~~♪♪♪
論文にまとめたら、ホームページで抄録を公開する予定です。

さて、センセが必死になってネズミを解剖している間にも
世界情勢は大きく動いているようです。
ロシアでは過去にプーチンを批判した空軍中将が夫婦共々ガス中毒死・・・。
プーチンを批判した人々は、不思議なことに、例外なく、
不思議な死に方をするようです。

不思議ですね!何故なんでしょうね?ちっとも分からないや・・・。

一方のウクライナ。
昨年に発生した例のノルドストリーム爆破事件ですが、
数か月前にも WSJ や NYT などで
「実はウクライナ情報機関の仕業だ!」と報道されてましたが、センセは、
「いや違うだろ。
頭下げて EU に武器援助を求めて大陸を行脚しているゼレンスキー大統領が
自分の足を引っ張るようなことを自らするはずないだろ?
また、ウクライナは、基本、内陸国だろ?
黒海なんてのは内海だわ!
連中に、
北海の冷たい海に潜っていたずらするような know-how ってあるのかしらん?」
と思ってましたが、
最近の報道によれば、ウクライナ情報機関の関与が取り沙汰されてます。
要するに、ゼレンスキーは知らなかった、ということです。
張作霖爆殺事件や満州事変などのように、
政府中枢に知らすことなく内密にことを図るような例は過去にもありましたが、
今回の件が仮に本当であるとしたら、
大問題となるのは間違いありません。
ウクライナ政府が全面的に否定しているのは当然ですが、
不思議なことに、
当のドイツ政府からの反応が、少なくとも現時点、ほとんど聞かれません。
個人的にはロシアの相変わらずの偽旗作戦だと思ってますが、
ウクライナ側も
徴兵所での賄賂の横行を含む徴兵逃れが多数発生するなど
「ウクライナ人は全て清廉潔白である」とは決して言えない現状ですので、
この件に関しても、「全くの白だ!」とも言い切れませんが・・・。

イスラエルとハマスに関しては、
ガザ地区の状況は大変悲惨なことになっていますが、
一応、人質解放に向けて短期間の停戦合意に向けて動いているようです。
合意できるかどうか、これまた現時点では分かりません。

それよりか、
今月のウクライナ-129」以降にしばしお話してきた
「応仁の乱」のイエメンですが、
乱の一方の当事者であるフーシ派の連中が
日本郵船が運航する大型輸送船を乗っ取った!
しかもヘリコプターで甲板に乗りつけて乗っ取るという大掛かりなものだ!
現代版の村上水軍みたいなもんだね!
船そのものはイギリス人所有のもので、日本もイスラエルも関係ないようだし、
船員には日本人もイスラエル人もいなかったようだが、
連中、どういうわけか、拿捕した。※
※船主の一人がイスラエル人だそうです。

フーシ派は、
先日はイスラエルに向けてロケットを発射して米軍の船に迎撃されている。
ニュースの映像を見る限り、連中の装備はナカナカのものだ。
バックにはイランがいる。
ヒズボラとフーシ派はシーア派で、ハマスはスンニ派。
前二者はイランの直接の手先と言ってもよいかと思うが、
ハマスの場合はどうなんでしょうか?
今回のハマスの攻撃は極秘裏に行われた可能性が高いので
イランのアヤトラも知らなかったと思われますが、
せっかくの機会なので、
ここぞとばかりにフーシを焚きつけてゴタゴタやらかしている、
ということでしょうかね?
ゴタゴタやらかしてはいるけどヒズボラとの連携も見られないことから
単純に反イスラエルの意思を示しました、
というだけのことなんでしょうけどね!

因みに日本郵船、センセは 10 年以上も昔に株を買ったが、
あれよあれよという間に値下がりし、
配当も無くなったので、
いつの間にか忘れて塩漬けとなっていた。
で、一昨年、唐突に配当のお知らせが送られてきたが、
その額が結構高い!
可笑しいと思い、株価を調べてみたら、ナ、ナント、
いつのまにやら爆上げしてる!
で、速攻で売ってほくほく顔していたら
その後にさらに上げること上げること!!!

ほくほく顔が泣きべそ顔になったのは言うまでもありませぬ・・・。