世田谷散歩道 - 特番

世田谷散歩道?
って、いきなり何だべ???

ということでありますが、
昨晩のブラタモリで、タモリ氏と野口さんが世田谷を歩いていた!
世田谷はセンセが 4~5 歳から小学校 5 年生の前半まで生息していた場所だ!

ワ~イ ♪

ということで、今回は、
5 年前に経堂の東京農大で行われた乳酸菌学会に出席したあと
一人でブラ散歩したときにブラ撮った写真をブラ載せてお話したいと思います。

この年はコロナ直前の年でブラ OK でしたが、学会、真夏に行われたので、
めちゃくちゃ暑かった!
経堂から豪徳寺まで一駅は小田急線で行って、
豪徳寺駅から商店街を抜けて八幡様~豪徳寺~世田谷城を通って
区役所~国士舘大学を横目に見ながら梅が丘の友人の家まで歩いて行った。
暑くて暑くて汗だくで、途中、ホント死にそうだった・・・。

下の写真は豪徳寺駅から商店街を下って
我々小学生が「ケチ幡堂」と呼んでいた文具~模型店前の玉電の踏切です。
ケチ幡堂は、踏切を渡った先の写真右手角にあった。
ここで外人の若い女性が、ナンカ、小さな人形を踏切前に置いて
写真を撮っていましたが、
たぶんその後に SNS なんかに投稿するのであろう。
で、このケチ幡堂前の踏切を渡って左に折れて、まずは八幡様まで行った。


ケチ満堂前の踏切.jpgこれがケチ幡堂前の踏切。
名前の由来は大体分かると思いますが WWW。
それにしても小学生というのは、昔も今も、
あだ名をつけるにおいては天才的な才能を発揮するもので・・・。

八幡様を裏から入って表に抜けた。
奉納相撲の土俵もそのまま残り、雰囲気は昔と全く変わってなかった。


八幡様鳥居前.jpg八幡様を表から見たところ。
茅の輪くぐりがありました。


宮の坂駅前.jpg宮の坂駅の踏切。
昔と変わりません。
昔は、この踏切向こうの白い建物(たぶん右の方)は本屋で、
少年サンデーとか少年マガジンとか付録がたくさんついた月間マンガ誌とか
平積みに置かれてましたが、
センセが小学 2 年生のとき、
忘れもしない赤塚不二夫の「おそ松くん」の連載が始まりまして、
この店の前で鼻水をた垂らし垂らししながら立ち読みしつつ
ギャハハハ大笑いして読んでいたのもいい思い出です。

本屋のオヤジにとっては悪い思い出かも知れませぬが・・・。


豪徳寺山門前.jpg豪徳寺の山門前です。
センセの家は、向かって左に 10 メートルくらいのところにありました。
山門の右わきに小さなお店があり、
お参りする人々のためにお線香やお墓に手向ける花とか、
例の招き猫の人形というか猫形というか、
などを売っておりました。


豪徳寺参道.jpg山門から参道を臨みます。
今は舗装されてますが、昔は玉砂利の道でした。
向かって左側に、昨晩のブラタモリで登場した団地があります。
タモリが「団地ともお」の話をした場所です。
センセは団地ともお、って知りませんが・・・。

この団地はセンセが小学生の時からあったので、
相当古くからあることになります。
それでも戦後だとは思いますけど・・・。
たぶん、都住だと思います。

この都住の建設に関わっていたのかいないのか分かりませんが、
直ぐ近くにいわゆる「飯場(はんば)」がありました。
最近の飯場は立派なものですが、
センセの頃はもっと原始的で、
文字通りの掘っ立て小屋にアンペラを敷いたようなものでした。
昭和 40 年代くらいになって、いわゆるプレハブ形式となりました。

この飯場で働いていた一家族の息子がセンセの同級生におりまして、
センセと仲良かった。
で、一度招かれてこの飯場にお邪魔しましたが、
彼のお父さんとお母さんが大変優しくて、
ニコニコもてなしてくれたのをとてもよく覚えてます。

たぶん、彼らだと思いますが、
いわゆる「ヨイトマケ」による工事を
山門前で行っていたのを見た記憶があります。
後にも先にもこの一回限りです。
何の工事であったのかは分かりませぬ・・・。
その後は直ぐに大型機械で打ち込む方式が主流となりました。

団地から下の道に抜ける途中には、
たぶんタモリらも通ってきたと思いますが、
湾曲した坂があり、
坂の途中には貸本屋がありました。
ワチサンペイのマンガや、
水木しげるの「河童の三平」なんかを借りて呼んでました。


鐘楼前.jpg山門を入って右側に立派な鐘楼があります。
写真では木々に隠れて少し分かりづらいですが・・・。
昔は大晦日になると近くの住民が集まって鐘を突きましたが、
今でもやっているのでしょうかね?


本堂.jpg豪徳寺の本堂です。
センセが幼稚園の時、ここで花祭りを行いました。
センセもお釈迦様の像に甘茶をかけたあと、甘茶を飲みました。
うす甘かったです。
因みに、当時は豪徳寺の裏の方にその名も豪徳寺幼稚園があり、
お寺の住職さまが園長先生でした。
たぶん、今では幼稚園は無いと思います。


招き猫を祭るお堂.jpg左に曲がって行くと、右手に例の招き猫のお堂があります。
写真の右側の門が入り口です。


招き猫.jpg当時も数組の外人観光客が写真を撮ってました。
現在はもっと数が増えていると思いますが・・・。
ブラタモリによれば、奉納されているネコ像は 1 万体以上だということです。
「ネコ寺」ということからでしょうが、
昔は境内にしばしば捨て猫が箱などに入れられて捨てられておりまして、
小学生のセンセはこれを可哀そうに思って拾ってきて母親に怒られる、
でも、拾って来たネコを程なくみなで可愛がりだして結局は家族となる、
というおなじみのパターンを二度繰り返しまして、
最初のネコは「ドラ」、二匹目は「チビ」と、
名前もおなじみパターンでありました・・・。


無名戦士の墓.jpgお堂の前にあるのが「無名戦士の墓」。
ナカナカおどろおどろしい建造物です。
豪徳寺界隈で、センセらは、2B 弾やら銀玉鉄砲やらを繰り出して
ドンパチドンパチ戦争ゴッコばっかしやらかしていたという・・・。
いまから思えばとんでもない罰当たり連中でした。

すんごく面白かったけど・・・。


世田谷城址公園.jpg豪徳寺を後にして、ブラタモリでもやっていた世田谷城に行きました。
写真手前は世田谷城址公園です。
ブランコもあります。
公園は、センセらが小学生の頃に作られました。
昨晩の話では、城址公園に面する道は、以前は川であったとのこと。
初めて知りました。
センセが通っていた「城山小学校」はこのすぐ近くにありますが、
城山小学校のすぐ横に川があり、これは烏山(からすやま)川で、
センセの家族が豪徳寺に移る前に住んでいた世田谷区上馬の家の
すぐ裏に通じる川でした。
いまでは暗渠となって、遊歩道みたくなっているようです。

♪ 城山の森、風さわやかに~~~・・・
城山小学校の校歌、今でも覚えてますよ~~~!!!


城址公園-2.jpg公園の階段を登って行くと、お城の曲輪(くるわ)や堀切などが出てきます。
写真のベンチにはコンビニ弁当のゴミが捨てられておりました。
世田谷住民ッ!


堀切.jpgこれは堀切。
センセら城山小学校の小学生にとって、
世田谷城はまたとない 203 高地でありました。
ここから何度突撃して討ち死にしたことやら・・・。
世田谷の土質はいわゆる関東ローム層ですので、
ポクポクした赤土で出来てます。
これが「泥投げ合戦」に打ってつけのものでしたので、
城の上から投げられてくる土くれをものともせず
吶喊(とっかん)亀くん吶喊~~~!」を繰り返して占領すれば勝ち!
という、ナカナカ荒っぽいものでした WWW。

あ、そうそう、ここら辺の事情は過去ログに詳しく書いてありますので、
よろしければ読んで下され ♪
中山博士の横顔 その-4 世田谷区豪徳寺時代」あたりから
シリーズで載ってます。
但し、行ったら戻ってこれないかも知れないので、
くれぐれもご注意を!

では、晩秋の週末を暖かくしてお過ごしください。