今月の書評-84

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4) の、「長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた」説は農学者の佐藤洋一郎氏に多くを依拠するもので、以下、簡単にまとめます。

1) 水稲の温帯ジャポニカ種の遺伝子分析を行った結果、中国にはa からh までの8 種類の遺伝子型が存在する。一方、朝鮮にはb の遺伝子型が存在せず、日本にはab が存在する。仮に朝鮮半島から日本に伝わったとすると、日本にはb の型は存在しないはずである。
2) 朝鮮~日本共に中国から養蚕(ようさん)が伝わったが、朝鮮のカイコは華北由来の種しか存在しない一方で、日本のカイコには華北由来のものと華中~華南由来のものの二種類が存在する。
3) 鵜飼(うかい)の風習は長江流域由来であり、中国南部と日本には現存するが、朝鮮半島~台湾~沖縄にはない。

以上、長江下流域より朝鮮半島を経ずに日本列島に伝わった農事がいくつか存在することが明らかなので、水田稲作技術も同様に半島を経ずして列島に直接伝わった可能性が高い!とするものです。

で、この問題に関してはすでに多くの人々が取り上げて、ああでもないこうでもないとネット上でもかまびすしく議論されてますが、そんなに難しい問題でもなかろうと思います。

上記の一連の事実は事実であろうと思います。問題は、何も「米の a~b とカイコと鵜飼が一度に来なくてもよかろう!」ということです。

前回、菜畑遺跡や板付遺跡、あるいは長崎の支石墓群の年代の古さを見る限りにおいて、朝鮮半島南岸に橋頭保を築いた連中は、半島を北上するよりもむしろ対馬~壱岐を経て北九州に向かう方を選んだのでは?と述べました。そしてその理由として、朝鮮半島よりもよっぽど水田稲作に向いている気候に気づいたからでは?と指摘しました。

で、一旦、日本列島にも橋頭保を確保し、生活の基盤が確保され、ある程度の安全も確保できるようになれば、その後は半島を経由せずに直接に長江下流域からの往来も確保できるようになったのでは?と考えます。

今月の書評-67」で指摘したように、水田稲作技術が伝播するためには、それに特化した技術家集団が少なくとも 1 年程度の食料を保持して断固たる決意で移住する必要がありますので、これはボートピープルレベルでは務まらない所業だと思います。
例の「徐福伝説」でも繰り出してこない限り、長江下流からピンポイントで北九州沿岸に米とカイコと鵜飼の三セットを同時に持ち込むのは、センセの妄想レベルすら遥かに超えるものだと思いますが・・・。

加えて、列島に伝わったこれらの農事がその後に半島に伝播しなかった理由を考えるのも、謎を解くカギとして、逆に興味深いのでは?とも思います。

鵜飼.jpg
岐阜市漫遊より https://www.gifucvb.or.jp/sp/ukai/ 美しい写真ですね!



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年3月29日 16:16に書いた記事です。

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