今月の書評-67

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さて、水田稲作技法が江南の地に生まれたのは確実ですが、これが日本列島に伝播する経路に関しては諸説あります。大別して、

1) 大陸を陸伝いに一旦満州方面へと伝わり、そこから朝鮮半島を南下した。
2) 山東半島から直接に黄海を渡り、まずは朝鮮半島中西部、その後に南部へと伝わった後に日本に伝わった。
3) 山東半島から長江下流域にわたる地域のどこかの沿岸から、黄海を渡り、朝鮮半島南部~北九州にほぼ同時に伝わった。
4) 長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた。

というカンジ。

1) の説は、もともと熱帯~亜熱帯の植物である稲の本質を考えると、最もありえない経路だと思います。また、裏付けとなる考古学的証拠も全く出ていません。
4) の説には裏付けとなる状況証拠がいくつかありまして、そのうちにお話したいと思います。

最も可能性が高いのが2) と3) の説で、考古学的証拠もしっかり存在します。
また、仮に確かな裏付けがなくとも、地図をつくづく見ていると、「この経路こそが highly likely であるなあ~」と、思わざるを得ません。以下、理由。

菜畑遺跡を嚆矢として、続く板付遺跡からさらに後の時代に至るまで、北九州から弥生時代の全てが始まっているのが明らか。仮に長江下流域から日本列島に直接至るルートがであったとするならば、天草から有明海~熊本~鹿児島あたりにも当時の水田跡がいくつか見られてしかるべきだが、全くない!
 水田耕作って、当時の最先端技術であったはず。
数人~十数人の「流れ者」がたどり着いていきなり出来る代物ではなかったはず。 しっかりと予測~計画をたて、準備万端おさおさ怠らず、各種の情報その他も手に入れ、当時最先端の土木工具を伴い、確固たる技術を持った一定数の連中が、断固とした決意のもとで渡来したはず。
 仮に首尾よく水田に適した地を見つけても、先住者が居れば耕作もできない。
仮に首尾よく水田ができたとしても、収穫までの少なくとも半年間の食料をあらかじめ確保しておかなくてはならない。従って、少なくとも最初の移住者は、最低でも半年~1年間は生き延びられるくらいの量の食料を持参した上で移住したはず。さもなければ、短期間で確実に往来できる距離の場所に移住したはず。

こう考えると、仮に他の証拠がなかったとしても、半島南岸~対馬~北九州沿岸の経路が最も現実的だ!と言えると思います。
また、「戦乱を逃れてきたボートピープルのような連中が移住したのだ!」的な発想は、以上の推論からありえない!少なくとも初期の移住とは無関係だと思います。

ただし、定着が進み、食料増産~人口増加も進んだ弥生も後の時代ともなれば、そのような戦乱を逃れてきた人々を受け入れた可能性は当然あったと思います。あるいはそれらの人々との争乱もまた、頻発した可能性すらあるわけです。

2) と3) の違いですが、現在大相撲で正代か徳勝龍かどちらが優勝するか大事な状況なので、一旦お開きといたします!・・・直ぐに戻ります。




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お待たせいたしました。ナ、ナント、徳勝龍が初優勝
幕内の中でも幕尻のベテラン古参力士が優勝!!
見れば「あ、このヒトね」レベルの、ジミ~な存在だった「あのオトコ」が優勝!!!

おまけに男泣きはするわ優勝インタビューでは笑わせるわ泣かせるわで、これは来場所から一気に人気沸騰は間違いなし!!!

ナンカ、ン年前の旭天鵬が優勝したときの雰囲気を彷彿とさせるひと時でありました。

ん~~~、今場所は、時代の交代も予感させて、ナカナカ面白かった。
ま、センセの一押しは、何と言っても「朝の山」だね!
大関どころか「ケガさえなければ」の条件付きで、「白鳳を継ぐ力士」とまで見ているが・・・・・・。

過去、押し相撲で横綱を張った力士はセンセの記憶にはないし・・・・・。

さて・・・・・・・。



弥生人ですが、大相撲の余韻に押されて来週に回します。
悪しからず・・・・・・。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年1月26日 15:41に書いた記事です。

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