今月の書評-83

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本日は季節外れの大雪。
南からの湿った雪ですが、未だ(午前10:30)深々と降り続いていますので、下手すると30 cm くらいまで積もりそうなカンジです。 
でも、これでみんな外出を控えると思うので、コロナの拡散を防ぐ意味では、ことによると、恵の雪となるかもしれませぬ。


神風ならぬ神雪となるかも・・・。


さて、「稲の来た道」をもう一度おさらいします。以下。

1) 大陸を陸伝いに一旦満州方面へと伝わり、そこから朝鮮半島を南下した。
2) 山東半島から直接に黄海を渡り、まずは朝鮮半島中西部、その後に南部へと伝わった後に日本に伝わった。
3) 山東半島から長江下流域にわたる地域のどこかの沿岸から、黄海を渡り、朝鮮半島南部~北九州にほぼ同時に伝わった。
4) 長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた。

今月の書評-67」で述べたように、1)を省いてまずは2)と3)の可能性を比較し、最後に4)の可能性について考えたいと思います。

2)の「山東半島からの南下説」にはいくつかの弱点があると思います。以下、例によって箇条書き。

1) 水田稲作技術が当時の山東半島にまで到達していたのは事実だが、基本的に山東半島は乾燥しており、現代においても農作の主体は畑作である。いわんや「乾燥化により民族の移動が生じた」と考えられる当時において、わざわざ乾燥地を通過して水田稲作が伝播するのは不自然である。
2) 支石墓の形式などからも明らかなように、山東半島はむしろ北方の文化の影響をより強く受けているように思われる。
3) 水田稲作文化が山東半島から朝鮮半島を南下したのであれば北から南への水田稲作遺跡が時系列的に見られるはずであるが、事実は逆である。
4) 松菊里遺跡(しょうきくりいせき)などから出土した多くの炭化米は、年代もさることながら、陸稲の可能性が高い。
5) 石包丁などの形式から長江~山東省~朝鮮半島~半島南部の経路が指摘されるが、石包丁は水稲の穂のみを刈るものではない。
6) 以前に唱えられていた「長江下流域から直接半島南部~北九州に稲作が伝わったのであれば、当時すでに長江流域で使われていた青銅製の農具が同時に伝わったはずである。それが出土しないのは直接伝播ではないからである」という説は、紀元前1000 年の菜畠遺跡の発掘により、論破された。

稲の来た道-1.jpg


これまでに出土した朝鮮半島の水田稲作跡を時系列的に羅列すると、

オクキョン遺跡(BC1100) 
ムアラファト遺跡 (BC800
マジョルリ遺跡(BC500

となります。地図で見ると、

稲の来た道-2.jpg
ウイキペディアより改変


オクキョン遺跡とムアラファト遺跡は半島東南の蔚山市にあります。
一応、時系列的には南→北の方向性が見られますが、如何せん出土例が少なすぎるので、決定的とは言えません。特に、長江下流域から来たとすれば、当然、南西部の全羅道辺りから最古のものが出て欲しいところですが、未だ出土されていません。

南下説、北上説共に、今後の出土次第でひっくり返る可能性は十分にありますので、「水田稲作跡」のみにこだわって議論するのは、少なくとも現時点では、あまり実り多いものとは言えないかと思います。

それよりも、やはり菜畑遺跡や板付遺跡の年代の古さに注目すべきだと思います。仮に今後朝鮮半島から水田稲作の跡が見つかったとしても、両者を大きく上回る年代のものが出土する可能性は低いのではなかろうか?と考えてます。
それよりも、やはり、水稲というものの植物学的~農学的な特質に注目した場合、どうあっても半島南岸に橋頭保を築く経路が合理的であり、その後、程なく、より温暖湿潤である日本列島に新天地を見出した、そしてそこがまさに豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)=すなわち水田稲作により適した土地であることが分かった!という流れを想定する方がよろしかろうと思います。

相変わらずの妄想だけど・・・。

次回は4)の「半島を介さず直接伝播した」説について考えてみたいと思います。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年3月29日 10:22に書いた記事です。

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