今月の書評-76
「今月の書評-71」でもお話したように、遼河文明の最盛期に用いられていたのが櫛目文土器(くしめもんどき)と呼ばれる土器で、これは半島南岸を経由して九州の縄文土器にまで影響を及ぼしました。
その後の気候の寒冷化に伴ってC2 が南下、遼河流域からN の人々を駆逐し、鴨緑江を渡って半島をさらに南下して行きました。今からおよそ3500 年くらい前の頃です。
このような流れの中、土器の形式も変化します。いわゆる無文土器の形式がここら辺から始まります。
無文土器というのは、その名の通り、縄文土器のような荘厳華麗な文様を持たない、のっぺりとしたタイプの土器で、その後の弥生式土器につながるものです。この無文土器の初期のタイプとして突帯文土器(とったいもんどき)がありますが、この土器のプロトタイプは満州~沿海州地方で生まれ、その後に半島を南下していき、最終的に九州の夜臼式土器(ゆうすしきどき)につながった、と考えられています。この夜臼式土器が水田稲作の明らかな遺構を伴って板付遺跡から出土したことから、従来は縄文晩期の土器とされてきた夜臼式土器は、現在では最古の弥生式土器を代表するもの、ということになりました。(2021年1月31日:夜臼式土器が縄文式土器なのか弥生式土器なのかに関して、「今月の書評-104」でより詳しく書いてます。ご参照ください。)
突帯文土器の特徴をよく表す夜臼式土器
稲作渡来民「日本人」成立の謎に迫る よりお借りしました。
また、支石墓(しせきぼ)と呼ばれる墓の形式からも、北から南への流れが見て取れます。
支石墓は別名ドルメンとも呼ばれ、この時代の世界各地で建てられた大きな石造りのお墓です。ヨーロッパなどでも盛んに作られました。
東アジアにおいては、遼東半島から見つかった今からおよそ3500 年くらい前のものが最古であると見積もらています。
半島の支石墓は北方型と南方型とに分かれ、おおよそ北方型は漢江の北、南方型は漢江の南に分布しています。また、南方型の方が時代が新しいことから北方型が進化して南方型になったとも考えたくなりますが、研究者によれば必ずしもそうではなく、両者は独自の出自を持つものだ、とも言われています。
南方型は半島南西部に集中して数多く分布し、その数は世界一。
さらに興味深い点は、山東半島の支石墓は北方型である、という事実です。
ということは、やはり、東夷(O2 とO1b2 のハイブリッド)の半島への移住経路は一つではなく、山東半島ルートと南方ルートの少なくとも二つはあった、と考えるのが合理的です。たぶん、もっとあったと思いますけど・・・。
支石墓の状況などから言っても、当時の山東半島は、すでに北からの影響と南からの影響が相当に混じた状況であった、ことによると、アルタイ系の言語を用いる素地が移住前にすでに整っていた、そういう可能性すらあるわけです。
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