今月の書評-77
さて、「今月の書評-66」でご紹介した夏王朝ですが、商の攻撃による夏王朝の滅亡と当時の東アジアの擾乱との間には、何らかの因果関係があるのではなかろうか?と考えています。
一昔~二昔前の説の中には「周により倒された商王朝の遺民が九州に渡ってきて稲作を伝えた」などというのがありましたが、この当時は放射性炭素による年代測定が未だ不正確であり、稲作開始年代が500 年くらい遅く見積もられていたため、このような説もある程度説得力を持ちました。
最新の測定値によれば、上記開始年代は紀元前1000 年あたりに見積もられますので、「商の難民説」の可能性は高いとは言えません。商が滅びるのが紀元前1046 年ですから、わずか4~50 年で一気に華北から九州へと当時の最先端技術が到達したと考えなくてはならず、また、商に関連する遺物なども全く伴わないため、現実味は極めて乏しいと思います。
そうなりますと、センセの「夏王朝崩壊説」は俄然現実味を帯びてきます。
というか、「商が夏を滅ぼした背景にあったものが当時の東アジアの擾乱をもたらし、その結果、半島の南に、後の世に韓とか倭とか呼ばれる国家群が生まれることとなった」説を提唱したいと思います。以下、例によって箇条書き。
気温の低下によってC2 が大規模に南下した。
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これに押されて商が夏を滅ぼした。
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商と東夷の確執が激しくなった。
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これを嫌気して、東夷の半島への移住が始まった。
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東夷は、先に半島に拡散していたC2 の社会に組み込まれることとなった。
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数百年かけて、C2 + O2 + O1b2 が高度にブレンドされた社会が出来上がった。
ここで当時の商王朝の政治の有り様について見ていきます。
大体、狩猟採集文化から農耕文化になって数世紀もすると、世界各地に王を頂点とする巨大文化が生まれます。ワンパターンみたいなカンジで、どれもこれも同じような経緯で生まれ、同じようなことをしでかします。すなわち、農耕と祭祀と政治の一体化です。これに天文と軍事を加えても良いかもしれません。
で、ほぼ必ずと言っていいほど、人身御供みたいなことが行われます。
たぶん、天文と気候の規則性と、それと密接に関連する農事というもの、気候変動による凶作、そして人間に生得的に備わっている因果律を感知する能力、そこから発生する「神」の概念、そして自己犠牲により神の怒りを鎮静化する試み、といったものが関連しているのだと思います。
で、商の時代、神の意向を知るために占いが多く用いられ、祭事には数多くの人身御供が捧げられました。遺跡からは、総計およそ14000 体にものぼる人身御供に捧げられた人々の人骨が発掘されています。
自己犠牲なのですから王自ら、あるいは少なくとも自分たちの代表を人身御供として捧げるのが筋だと思うのですけど、そこは都合のよい解釈をして、大概は他部族の戦争捕虜をこれに充てたようです。しばしば、戦争目的そのものが、これら人身御供用の生贄を確保することにあった、とも考えられます。
で、商の場合、生贄の多くは姜(きょう)と呼ばれる部族から得たそうですが、たぶん、足りない時なんかは東夷の連中を代わりに用いたかも・・・。
蒲焼を作る際にウナギが品薄だから代わりにアナゴを使ったりするようなもんでしょうかね?
史実としては、商と東夷の確執は長く続いたそうで、これに嫌気をさした東夷の連中が半島を目指して移住した、というシナリオは、十分あり得るかな?と思います。
で、周辺部族の怒りを買った商ですが、東夷との戦争で居城を留守にしている間に、姜族出身の太公望呂祥(たいこうぼうりょしょう)を宰相に据えた周の文王によって滅ぼされてしまいます。
・・・商もない連中だったんですね・・・
首を刎ねられた殷墟の人骨 C.P.C のサンプル画像より http://www.cpcjapan.com/china/history/iseki/photo2/inkyo_jyunshi003.html
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