今月の書評-71

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さて、朝鮮半島と日本列島との関係ですが、およそ4 万年くらい前、半島を経由して縄文人のご先祖さまが大陸から渡ってきたのはよいとして、その後に喜界カルデラの大爆発を契機として九州の縄文人が半島に渡航した可能性については「今月の書評-20」で述べました。

で、これらは考古学的~人類学的にも実証されておりまして、例えば現在の韓国、慶尚南道統営郡の煙台島貝塚から出土した今からおよそ4000 年前の人骨は明らかに縄文系であり、外耳道骨種と呼ばれる人骨の特徴から、おそらく「海士漁(あまりょう)」に従事していた人々であった、と考えられています。
また、釜山の遺跡からは、日本でしか取れない黒曜石でできた矢じりや、あるいは各種の縄文式土器などが出土しています。

で、そもそも当時、半島ではどのような状況であったかというと、いわゆる遼河文明の時代です。時代的には紅山(こうざん)文化華やかなりし頃(今からおよそ6000 年くらい前)、と考えてよいかと思います。
で、この遼河文明を作り上げた人々は現代のフィンランド人と同じ血を有するYDNAN のヒト、というのはすでに何度も言及してきました。
彼らが使用していた土器が櫛目文(くしめもん)土器と呼ばれるもので、これは遼河周辺からフィンランドに至るまで、当時幅広く分布していた土器でした。

櫛目文土器.jpg


で、「今月の書評-26」でもお話したとおり、この形式の土器に影響を受けて、縄文人は、曽畑(そばた)式土器と呼ばれる土器を作り出します。

そばたしきどき.jpg
牛原前田(うしわらまえだ)遺跡から出土した曽畑(そばた)式土器  2003年度 文化財維持・修復事業助成 助成対象より http://www.sumitomo.or.jp/html/culja/culjalis2003.htm


で、ここで問題です。

縄文人は、直接に遼河まで出向き、N 人から櫛目文土器の作り方を教わったのか?それともN 人が朝鮮半島南部まで進出していたのか?

縄文人、はるばる漢江を渡り、さらには鴨緑江をも渡河して遼河地方まで行くことができたのか???
ま、昔来た道を反対に行くだけだから、行けたと言えば行けただろうが、そこまでして土器の作り方だけを教わって来たなら、センセとしては、「お前ら何やってんの?」と言いたくなるわけです。
だって、当時の紅山文化はすでにスキなどを用いた畑作農業を幅広く行っていたわけですから、同時に畑作も教わってこんとイカン!やり直し!!!

というわけで、このセンは無いと思います。

じゃ、N 人が朝鮮南部まで来たのか?

N が朝鮮南部まで来ていたのだとすると、列島はもはや目の前だ!
N 人は対馬海峡を渡って北九州に流入し、北九州は縄文系とフィンランド系でえらく濃い連中となったはず(冗談ですよ)!

で、現代日本人のN の割合からいって、このセンも全く考えられません。

では、この当時、遼河地方と朝鮮南部の間を埋めていた連中は誰だ?

答え:たぶん、C2 の連中だったと思います。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年2月16日 16:33に書いた記事です。

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