今月の書評-66
さて、「日本最初の弥生人」を語る場合、中国最初の王朝と考えられている「夏(か)王朝」の存在がナンカ怪しいんじゃないか?と、センセは考えてます。
「今月の書評-57」でご紹介した商(しょう)、いわゆる殷(いん)ですが、殷に先立つ王朝として夏王朝が実在したとの説は、たぶん、相当に確実かと思われます。
で、夏王朝存在の証拠としては、黄河中流域にある有名な二里頭(にりとう)遺跡が挙げられますが、王宮を有する都市文化であったのは良いとして、ヒエやアワなどの北方系の穀物を栽培していただけでなく、水稲栽培も行われておりました。
「今月の書評-64」でも述べたように、長江下流域のオーストロアジア系の良渚(りょうしょ)文化は、漢民族系である北方の龍山(りゅうざん)文化と相互に影響を及ぼしあった結果、前回で述べたように、この地方の住民は北方系と南方系が入り混じるハイブリッド民族を形成した可能性が高いと思います。で、そのハイブリッド人は弥生人に形質学的に瓜二つであり、さらに、抜歯の様式も共通していることなどから、基本的な弥生人の祖型はここで生まれた、と考えて間違いないと思います。ここからがハナシが面白くなるんですけどね。
で、夏王朝の時代区分ですが、今からおよそ4000 年くらい前に起こり、商によって滅ぼされたのが3600 年前です。
で、滅ぼされた夏の人々は、中原(ちゅうげん)を追われ、古巣の地域に移動して行きました。今で言うところの山東省から江蘇省~浙江省にかけての地域です。この地域の人々は、後に「東夷(とうい)」と呼ばれる人々ですが、これは「中原から見て東に住む野蛮人」という意味あいが込められた言葉です。中原を制するものが将に中華というわけで、中華自身の出自は、実はどうでもよかった、というカンジですね。
で、日本で初めての稲作の跡として認定されているのが今からおよそ3000 年前の北九州の菜畑(なばたけ)遺跡ですから、夏王朝の滅亡からはおよそ600 年の差があります。
で、この怪しい600 年の間に何があったのか?
山東省から朝鮮半島にまたがる地域で、この間、色々とあったんじゃないかなあ~、と、妄想を膨らませるセンセです。
夏王朝の版図 ウイキペディアより
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