今月の書評-64
さて、今からおよそ5000 年くらい前の大陸では人口が急激に増加し、その原因の一つとして、長江流域に端を発した水田稲作の成功があった、と述べました。
たぶん、間違ってないと思います。
いわゆる長江文明で有名なのが下流域の河姆渡(かぼと)文化ですが、ほぼ同時期の長江中流域には大渓(だいけい)文化があり、ここでも大規模に水田稲作が行われておりました。
前者は後のベトナム人などの祖とみなされるオーストロアジア系の人々、後者は別系統の、いわゆるミャオ族(苗族・モン族)が作り出したと考えられている文化です。
両者共に今からおよそ7000 年くらい前の文化で、大体この頃には水田稲作技法は完成の域に達していた、と考えてよいかと思います。
このような稲作技法はその後に山東半島あたりにまで伝わり、漢民族による黄河文明の一つ、龍山文化に引き継がれます(今月の書評-51を参照)。今からおよそ5000 年くらい前のことです。同時期の長江にはオーストロアジア系の良渚(りょうしょ)文化が栄え、両文化は互いに影響を及ぼしあい、人口もピークを迎えることとなります。
ところがほどなくして両文化共に衰退、人口が激減してしまいます。
何が生じたのか?
世界的規模の気候の寒冷化です!
この時代の寒冷化現象は様々な民族移動を誘発したようで、「今月の書評-55」でも述べた南ロシアの欧州系の連中の東西アジアへの拡散もまた、寒冷化による内陸アジアのステップ化と無縁ではないようです。
その結果、西からの欧州系の流入~遼河文明を作った一部のN系の人々の南下~ツングースやモンゴル系やチベット系の移動その他その他、一気に中国大陸はキナ臭くなってきました。
そのような流れの中、長江流域で水田稲作を展開していたオーストロアジア系の人々もまた移動を開始、東南アジアからインド東部に至るまで、水田稲作技法と共に、拡散して行きます。
インドにはこの時に稲作が伝わった、と考えられています。
平均的なベトナム女性の図。 ・・・と思いたい・・・。
ベトナムTTC人材株式会社HP http://ttchr.vn/ja/ より頂きました。
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