今月の書評-61

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つづきです。

縄文人が稲作をしていたいなかったに関しては未だに論争があるようですが、稲作をしていたと考える方がはるかに合理的だと思います。

というのは、「今月の書評-32」でも述べたように(「農!と言える縄文!」石原珍太郎著)、縄文時代は単なる狩猟採集だけに頼っていた時代ではすでになく、人工的な栗林(くりばやし)を作り出したり、大規模な野焼きを行ってそこから様々な食物を得ていた証拠があるからです。
縄文時代にはすでに、ヒエやアワ、ソバ、大豆、さらにはエゴマやヒョウタンなどが栽培されていたと考えられています。
これらに加えて、南関東以西にかけてはサトイモなどの栽培も行われていた可能性があります。サトイモなどは証拠が残りませんが、「証拠がないやってない」という図式ではつまらないブログしか書けませんので、縄文人は大いにサトイモを食べていたことにしときます。

で、稲ですが、縄文人が栽培していた稲は「熱帯ジャポニカ」と呼ばれる種類の稲で、これはいわゆる「陸稲=おかぼ」方式で栽培されていたと考えられています。証拠としては、縄文土器の土の中に見出された稲のプラントオパールが挙げられます。プラントオパールに関してはググってくだされ!

で、この稲のプラントオパールですが、6500年前の岡山の貝塚から出土した土器から発見されたものが確実視されています。
一方で、未だ疑問視はされているのですけど、最古のものは、ナント1万2000年前の鹿児島の遺跡から発見されています。

この1万2000年前の鹿児島の遺跡というのは「今月の書評-20」でお話した喜界カルデラの大噴火前の遺跡ですから、稲が列島に伝わったのは少なくとも縄文早期までさかのぼる可能性もあるわけです。確実視はされていませんが・・・。

でも、仮に、本当に稲の伝達がこの時代にまでさかのぼる可能性があれば、この1万2000年前という年代の微妙な雰囲気が引っ掛かります。要するに、スンダランドの水没と関連する?という妄想がニョキニョキと生じるわけです。

で、前ページ「今月の書評-60」でお話したように、スンダランドの水没に伴ってヒトの移動が生じたのは明らかですので、前ページの図で示したように、スンダのオジサンやオバサンは栽培稲の原種に近いものを伴って一部は日本列島に、他の一部は現在のインドネシア島嶼部に、他の一部は現在のインドシナに、そして他の一部は長江下流域に移動していった、と考えても違和感はありませぬ。

喜界カルデラ噴火前の層から出土する縄文早期の鹿児島の遺跡に関しては他の地域の縄文遺跡とは異なる独特の文化様式が指摘されており、貝殻で文様をつける形式の土器、船を作る道具、あるいは燻製品を作る工房跡など、海洋の民に由来する可能性が指摘されています。

であるとすると、朝鮮半島並びに樺太由来の縄文主流派とは別に、スンダの水没に伴って琉球弧を飛び石伝いに渡って鹿児島から紀州~関東に至る太平洋岸には、少数かもしれませんが、スンダ直系の民が列島に居ついた可能性も想像されます。
実際、関東の縄文人の遺骨から得られたmtDNA分析の結果においては他地域ではあまり見られないハプロタイプが多く検出され、その中にはB4 というハプロタイプも見出されています。
このB4 は石垣島の白保遺跡から出土したおよそ2万年前と目される人骨が持っていたタイプであり、東南アジア由来の、非常に古いタイプのハプロタイプであると考えられています。
喜界カルデラのアカホヤ火山灰下層から出土した鹿児島の縄文早期の遺跡からはDNA情報は全く得られていないと思われますが、ことによると、彼らはこのB4 を持つ人々であったのかも知れず、彼らこそが、熱帯ジャポニカのモミを列島に最初に持ち込んだ人々であったのかもしれません!

・・・妄想だけど・・・。




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年1月 4日 16:11に書いた記事です。

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