今月の書評-122

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あまりにも簡単すぎて拍子抜けしてしまうくらいですが、取り合えず、以下に理由を書いていきます。まずは、考古学的観点から。

近年の纏向周辺の発掘調査の結果から、紀元2 世紀末から4 世紀にかけて、この地が当時の列島においては稀に見る大規模都市の様相を呈していたことが分かりつつあります。発掘の規模は未だ数%程度に過ぎませんが、それでも以下の事が明らかとなってまいりました。

● 竪穴式住居跡がほとんど見られず、高床式の住居跡が多く見つかる。
● 大規模な二本の水路跡が見つかった。この水路は大和川に結びつくことから、最終的に瀬戸内海に至り、国内のみならず、海外との交易も可能な、当時としては大規模な、人工の水上交通路であった可能性がある。
● 大量の土器が出土したが、地元のみならず、列島各地から持ち込まれた土器の割合が高い。特に、伊勢~尾張などの東方からのものが目立つ。
● 大規模な祭殿跡が見つかり、しかも、何らかの宗教的な思想の元に、計画的に作られた可能性が指摘される。
● 集落全体を囲むような環濠は認められず、開かれた「都市」であった可能性が指摘される。
● その規模は、この当時の列島において唯一無二である。

以上から、この地に紀元2 世紀末~4 世紀頃に存在した大集落は、ある種の政治的意図のもとに人工的に作られたものであり、都市と呼んでも過言ではない大規模なものであった、また、広く東西からヒトが集まり、海外との交易も行われ、市が開かれ、宗教的色彩を色濃く帯びた政治がなされていた、などということが想像されます。

で、その時代とは、魏志倭人伝によれば、まさに、卑弥呼さんが「女王」として君臨していた時代を包含するのです!


纏向遺跡-2.jpg
纏向遺跡の絵。奈良県桜井市のHPより。
http://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/soumu/zeimuka/sakurai_furusato/jigyou.html

魏志倭人伝の7万戸の記載から想像すると、もっと規模が大きかったと思います。
控え目に描かれている気がしますが・・・。

次回は、日本書紀と魏志倭人伝の記載を逐一比較してみたいと思います。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2021年7月18日 09:25に書いた記事です。

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