今月の書評-102
続きです。
前回、紀元前後にはすでに現代日本語の元となる言葉が話されていた可能性を指摘しましたが、それでは菜畑遺跡や原山支石墓群が作られた紀元前1000 年頃に列島に渡ってきた倭人はどういう言葉を話していたのか?
答え:「全く分かりましえ~ん!」
日本語の言語学的位置や現代韓国語との関連などに関しては「今月の書評-73~82」にかけてお話してきましたが、今一度おさらいしておきます。
そもそも倭人はオーストロアジア系(O1b2)に属していたわけである。
従って、基本的にはベトナムなどの東南アジア系の諸言語のいくつかと
同じルーツを持つはずである。
↓
その後に漢族(O2)とハイブリッドを形成した。
また、周王朝の貴種を先祖に持つ呉国に属していたわけであるから、
この時代、公的言語としての漢語にも影響を受けたであろう。
↓
その後に朝鮮半島南部に移住した。
そこには先住者として満州系のC2とツングース系のC2が居た。
彼らの言語は、これまでの倭人が話してきた言語とは
文法体系が全く異なるものであった。
加えて、満州系言語とツングース系言語の両者も、何かと異なっていた。
一つ二つ三つという数の数え方から、
倭人は半島北部から西部にかけて話されていた
満州系の流れをくむ言語の影響を受けたと考えられる。
↓
倭人が日本列島に移住する前、半島南岸部で、
たぶん、数百年くらいは過ごしたであろう。
この地で、この時代に、根本的な言語変化が生じたと思われる。
↓
紀元前1000 年くらいに縄文人と出会って以来、
縄文人の言語も取り入れたことであろう。
但し、それが何であるか、皆目分からない。
↓
列島に拡散すると同時に、半島南岸部の橋頭保は確保し続けた。
従って、当面、半島からの影響は途絶えることはなかった。
その結果、言語も半島からの影響を受け続けた。
↓
列島での版図が拡大するにつれ、倭国は強大となっていった。
この時代ともなると、半島から一方的に影響を受けるのではなく、
逆に半島に影響力を及ぼすようになっていった。
↓
この頃、すなわち古墳時代には、
倭語は、現代日本人がほぼ理解できるほどに、確立したものとなった。
ま、本当かどうかは分かりませぬが、本人はこんなカンジで考えてます。
で、この流れで考えるならば、倭人が初めて北九州に上陸した紀元前1000 年頃には未だ流動的な倭語が話されていたと思われます。
で、半島南岸部での各種部族との交流の中で倭語の根幹が整えられ、沖縄に「あまみん」が移住する頃にはすでに明白な倭語となり、大和政権が確立される頃には現代日本人が諳んじ(そらんじ)ても意味と情緒が通じる和語となった、と考えています。
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