今月の書評-88

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倭人がもともとは長江下流域に住んでいた連中であったことのもう一つの典拠として、唐の時代に書かれた「晋書」や「梁書」があげられます。これらには、「倭人が言うには、自分たちの祖は太伯(たいはく)である、とのことである」との記載があるそうです。太伯は周の文王の伯父にあたり、春秋時代の江南の覇者の一つである「呉」の国を興した人物であるとみなされています。以下、ウイキから引用。

周の文王の祖父にあたる古公亶父(ここうたんぽ)には長子・太伯、次子・虞仲(ぐちゅう)、末子・季歴(きれき:文王のお父さん)がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥(えんぎの良い兆候)があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮(けいばん)の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。

とのことです。
いくつか面白いことが読み取れると思います。
ここで書かれている荊蛮の人々とは野蛮人の意味ですが、これらの人々を統治したのは中央からやってきた「異民族の貴種の系譜に属する人々」であり、また、荊蛮の人々も、少なくとも良い統治が行われる限りにおいて、進んで支配下に組み込まれていった可能性が見て取れるところです。
「自分たちの祖は太伯である」という文言から、「倭人の先祖は周の支配層である」と勘違いしてはいけません。ここで言うところの「荊蛮の人々」に含まれる様々な部族の一つが倭族であった、ということでしょう。
また、わざわざ「自分たちの祖は太伯である」と言っているところをみると、自分たちが当時の大国の一つである呉に属していたことに対して強い誇りを持っていたことも明らかです。

従いまして、以上から、先の論衡(ろんこう)において倭人が越人と共に周に朝貢していたことが書かれている事実とも併せ、倭人の故郷は春秋時代の呉国の領域内にあったという可能性は相当程度に高いと考えます。
倭人は、呉の版図の中でも、専ら沿岸部に居住していた連中だと思われます。
また、以前にも述べましたが、呉国が滅びるのが紀元前473 年ですから、呉の滅亡と水稲の伝播とは無関係であるのは明らかです。


呉の最大版図-2.jpg
呉王夫差の頃の呉国最大版図:世界の歴史マップより改変


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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年4月19日 16:11に書いた記事です。

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