今月の書評-74

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そもそも論として、二つの異なる文化を有する民族がある一定の場所で遭遇し、両者ともその場所の領有権を主張した場合、ケンカするか、仲良くするか、あるいは住み分けるか、の三種類の対処法しかありませぬ。歴史的にも、この三種が綯い交ぜ(ないまぜ)となった状況が色々な局面で見て取れます。

ケンカして相手を一方的に打ち負かした場合、その場所を支配する言語は勝った民族の言語となるのが普通です。北米~中南米の状況が典型ですね!

ケンカが長引いて一方的な勝者が居ない場合は「住み分けが固定する」状況となります。住み分けの場合には、仲間内では自分たちの言葉を使い、相手と交渉する場合などには何らかの方法で意思の疎通を図ろうとするでしょう。
EU なんかそういうカンジ。
共通言語として、EU を離脱することを決めた第三者的言語である英語を借りております。

仲良くなった場合、どうなりますかね?人間の歴史は大概一方的に打ち負かすのが多いわけですから典型例ってすぐには思い浮かびませんが、融合する形になるのでしょうか。
その場合、人口、文化的~政治的~経済的~軍事的優越性などによって上下関係が生じ、その程度によって言語の融合の程度に差が生じる、などと仮定するのはいかがでしょうか?
こうなると、これは「仲良く」という言葉は不適切ですね!せいぜい「ケンカして傷を被るのは嫌だから妥協する」ということでしょうか。この場合は「一方的吸収」から「合意に基づいた吸収~大規模な融合~部分的融合」まで、様々な程度が想定されます。戦前の日韓併合などは典型例かもしれません。

さて、YDNA で見た場合、また、この先述べていく予定の「水田稲作」や、それに伴う文化の伝播経路で見た場合、どうあっても現在の朝鮮半島の言語、あるいはそれと密接に関連する日本語が、大きな括りで言うところの「アルタイ諸語」に属する謎を説明する必要が出てきます。



日本の歴史を振り返る時、それまでの伝統を大きく揺るがすような文化的流入が少なくとも四回生じました。

1 回目は縄文から弥生になったとき。
2 回目は天平~奈良時代の中国文化の流入。
3 回目は明治維新時の西欧文化の流入。
4 回目は第二次世界大戦の敗北によるアメリカ文化の流入。

1 回目の文化流入が最大で、この時には言語が入れ替わったと考えられます。
縄文人と弥生人との間には北米や中南米で見られたような民族殲滅戦のような状況はなかったと考えられていますので、圧倒的な文化的~経済的優位性からの圧力による言語の転換が生じた、と思われます。この問題に関してはおいおい話していきたいと思います。

特徴的なのが24 で、2 の時点では非常に多くの漢語が流入し、3 では英語~ドイツ語などが、そして4 以降は現在進行形でアメリカ語並びにアメリカ文化の流入が見られます。

注目すべきは、2 以降の文化流入において、日本語という文法体系の中に数多くの漢語とカタカナ語が取り入れられたにも関わらず、日本語は日本語としてビクともしていない、という事実です。
文化の流入はあっても、1 を除き、多くのヒトの流入が無かったのが、主要因でしょうね。

そうは言っても、明治維新時と敗戦時には、「日本語を廃止して外国語にすべきだ!」とかの議論を提唱したヒトも居たようです。
たぶん、奈良時代辺りにも、「やまと言葉を廃止して唐の言葉にすべきだ!」とか言った輩~勢力が居たかもしれません。いや、実質、その後の長きにわたって公文書の類は全て漢文で書かれた時代が続いたわけですから、そのようなメンタリティー、すなわち「superior な文化に対しては積極的にこれを取り入れる、極端には言語を含めてすっかり入れ替える」というメンタリティーは、結構、人類に普遍的に見られるものかもしれません。
当然、それに反発するメンタリティーもあるわけですから、両者の綱引き合戦の結果、今の世界がある、と言えるでしょう。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年2月24日 16:42に書いた記事です。

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