今月の書評-53

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当時の大陸~半島情勢に関しては今後に述べていく予定ですが、とりあえず、弥生人のYDNA が縄文系である一方でmtDNA は大陸系である謎に関して妄想を深めていきたいと思います。

先に述べた4 つの仮説のうち、一つを外して残り三つで考えます。

1)縄文の男はこぞって弥生系の女性を女房にした。
2)縄文後期~晩期の人口停滞~減少と何らかの関連がある?
3)半島南部で縄文人と交わった連中が、その後に列島に渡ってきた。

実は、1)と2)は深く関連しています。
結論からいうと、
縄文部族社会は「族長を中心とする一夫多妻の社会であった!
ということです! 
根拠は全くありません!エヘン!

でも、たぶん、そうだと思うぞ!以下、理由。

1) 石棒や土偶、イノシシ祭り、さらには低い遺伝的多様性が示唆するように、少なくとも後期以降、縄文人は人口減少に悩んでいた。これに対処するため、強い雄が優秀な雌を多く獲得する社会制度が優位となっていたと考えられる。
2) 少なくとも人間の場合、一夫一婦制に比べて一夫多妻制は子孫を多く残すことができることが科学的に(数学的というべきかな?)証明されている。
3) 異邦人に対しては異性的興味がより増す可能性も(雑種強勢、或いは近親婚の禁忌)。

で、紀元前1000 年くらい前に北九州に初めての弥生系の人々が根付いたわけですが(今月の書評-47)、その数は決して多くはなかったことが指摘されています。また、稲作の東進の際、いくつかのいざこざが生じた可能性は当然あると思いますが、先住民大殺戮などの状況では決してなかった、という可能性も幅広く支持されています。

で、あるのなら、少なくとも初期の頃の弥生系の人々は、すでに地元に根付いていたヒゲヅラで抜歯はするわタトゥーはするわの縄文人に対して優位な立場に立っていた人々では決してなかった、とも言えるわけです。
従いまして、先に住み着いていた人々の族長に対して婚姻関係を結んで安全を保障してもらう、という状況だって大いに発生したかと思われます。
ことによると、婦女子を差し出す、ということも行われていたかもしれません。

縄文サイドとしては、コメやら新式土器やら金属器もさることながら、のっぺりした薄味の弥生オンナは、これまで慣れ親しんだ濃ゆ~いブリジット・バルドータイプの女房よりも、よっぽど新鮮に見えたに違いありません・・・。


BB.jpg
BB の B.B.  映画.com より https://eiga.com/person/64130/

さつきちゃん.jpg
さつきちゃんです https://www.youtube.com/watch?v=wI31G3meWZs


で、後々に日本書紀などで「国津神(くにつかみ)」などと呼ばれた人たちはこれら西日本の縄文族長であり、比較的短期間に技術~文化~言語を吸収すると同時に遺伝的にも融合し、列島の弥生人となり、いわゆる「倭の大乱」時代を経て最終的に大和政権誕生へと至る、というシナリオが最も自然だなあ~、と、センセは考えてます。


3)の、「半島南部で縄文人と交わった連中が、その後に列島に渡ってきた」説ですが、可能性は十分あります。ありますが、これが主体ではないと思います。
と、いうのは、篠田謙一氏のNHK の番組によれば、弥生人DNA における縄文の色合いは岩手>長崎>福岡の順で強かった、と発表されていたからです。
岩手>長崎>福岡の順に縄文人口が多かったのは明らかですので、弥生人は半島ではなく現地で混ざったのは明白です。
半島で混ざってそのまま列島に拡散し、現地での混合が無かったとするならば、列島における縄文系DNA の比率はひとしなみに同じとなるはずです。

yayoi-1.jpg
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm


ただし、半島での混合が全くなかったというのではなく、主たる混合は列島で生じた、ということです。

それでは半島、あるいは大陸では、当時、何がどうしてた?ということですが、次回にお話したいと思います。

ではっ!




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2019年3月17日 14:56に書いた記事です。

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