昭和30年代の思い出:総集編-4

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と言う訳で、状況の変化に従って人々の立ち居振る舞いも変化し、それに伴って当該の立ち居振る舞いに対する世間の評価も変化する、と言う当たり前のお話でありました。引き続きまして、昭和30年代の一般的な振る舞いではあるが、現在から見れば信じられない!と言うカンジのお話を、さらに継続して行きます。

2. 昔の日本人、シモの方はどうだった?

その2です 。この項では、専らシモネタをお話致しますので、もしも小学生のよゐこのみなさんがこれをご覧の最中でしたら、お父様お母様にご相談の上、継読のご判断をお願い致します。

昭和30年代の道路は、バスなどが通る大きな道は別として、家屋が密集する市街地の道は、未だ多くが舗装されていませんでした。で、小学生が通学の途中、或いは遊んでいる最中にオシッコをしたくなれば当然そのままタチションとなる訳で、誠に極普通の光景ではありました。で、小学生の場合は許されるかもしれませんけど、では大人の場合はどうであったか?大人も普通にタチションをしておりました。

道々には木製の電信柱が立っておりまして、犬類の連中がこれ目がけて片足を挙げるのは本能の成せる技かと思いますが、万物の霊長たる人間の大人の雄もまた、これ目がけて大いに開放感に浸る訳であります。で、この様な光景を目の当たりにしても、特に違和感はありませなんだ。

それどころか、万物の霊長たる人類の雌類もまた、しばしば道ばたでいたしておりました。この場合は流石にタチションとは言いませんし、少なくとも豪徳寺界隈においては道ばたと言う訳にはいかない様ではありましたが、お寺の境内、人様の家の庭先、公園の植え込み等々、それなりに人気の少ない場所で、しばしば見かけた光景ではありました。大人の雌でもこの有様ですから、未だ色気にはほど遠い女子小学生あたりでは、これは結構普通の行為でした。

小だけでは有りませぬ。大の方も結構有りました。

現在では犬のお散歩をするときは大の方の始末をするのがマナーだそうですが、昔はそんなやかましい事は有りません。そのまんまさせて、何のお咎めも無かった訳です。で、小学生の場合、夢中で遊んでおりますと、踏んだりします。で、「くっせ~」とか仲間に囃される訳ですが、時々踏んだものの上に紙が乗っている場合がある訳です、、、犬は後始末に紙は使わないので、、、この場合は、結構、心理的ダメージには大きいモノが有りました、、、。

現在の町では、この様な光景は全く無いとは言えないでしょうけど、殆ど消滅したかと思います。今では駅にもコンビニにもスーパーにもガソリンスタンドにもパチンコ屋にもトイレが備わっており、申し入れれば快く貸してくれるでしょう。仮にこれらの施設が無く、街灯の灯りがまぶしいところであっても、いざとなれば近くの民家に駆け寄って事情を話せば、それなりに始末が足せるかと思われます。けれども事実として、昭和30年代の一般的光景は、上で述べたようなものでありました。

お話変わって、赤ん坊への授乳の光景も特に珍しいものでは無かった様に思います。余り印象は残っていないのですけれど、友達の家に遊びに行った時に友人のお母さんが妹や弟に授乳させている光景に出くわすとか、或いは常磐線あたりの電車内で赤ん坊に授乳させているのを見たような記憶が残っています。当時は兄弟姉妹の数も現在よりは多いのが普通でしたので、そんな光景も当たり前の事ではありました。

さらにお話はエスカレートし、ピンクの領域へと入ります。

これははっきり言って、昔の方があからさま、現在の方がむっつりです。昭和30年代は今と違ってメディアとしてのネットが有りませんし、新聞ラジオテレビを介しての広告にはそれなりに規制が掛かっておりますので、映画会社の宣伝方法としては、いわゆる立て看板によるものが多く見られました。嵐勘十郎の「鞍馬天狗」とか「明治天皇と日露戦争」だとかの映画の立て看板広告が、道ばたの電柱に括り付けられているのが普通でした。で、当然、ピンク系のものも時々出現する訳です。

ピンク系のもの、当時は少なくとも上半身には規制が掛かって居らず、そのまんまでした。通学路にも堂々と掲げられておりましたので、当然当時の小学生の目にも大いに触れていた訳であります。で、「事の本質」を未だ知らない小学生ではありましたが、何となくクスクスと可笑しいものに感じてはおりましたので、これらは格好のいたずらの材料となるわけです。ま、これ以上は書きませんけど、、、。

山梨に石和(いさわ)温泉という温泉街がありますが、これは昭和36年に偶然に発見され、その後に温泉街となった比較的新しい観光地です。昔、石和温泉が出来たときのドキュメンタリーフィルムを見た事がありますが、新しい温泉が湧き出たというので、近在の老若男女がこぞって湯に浸かりに来ました。未だ単に地面にお湯を満たしただけの、家屋も囲いも何もないプールの様な場所に、裸になった老若男女が集団で混浴する様(さま)には、現在では相当に驚くものがあります。さらに、この様な光景をフィルムに撮しているカメラマンの行為に対して誰も抗議の意志を示さないと言う事実にも、驚きを感じます。「山梨だから」と言う訳でも無く、その当時はこの程度にはおおらかであったと言う事かな?とも思いますが、昭和36年と言う時代を考慮に入れても、流石に東京では無理な光景ではあったかも知れません、、、。

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2013年12月30日 19:46に書いた記事です。

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