昭和30年代の思い出:総集編-3

| | トラックバック(0)

続きです。

センセが小学生の頃、世田谷の豪徳寺山門前に住んでいた事は以前にお話し致しました。現在の豪徳寺は大変立派な佇まいですが、往時のそれは今昔物語の「羅生門」にでも出てきそうな雰囲気であった事も述べました。で、当時の境内には古池があり、たくさんのヒキガエルや雷魚が居りました。現在でしたら、名刹の境内の古池にいらなくなった電気冷蔵庫や洗濯機、テレビセットなどの粗大ゴミを投げ入れて放置するなどしたら、それこそニュースで報道されて大騒ぎになるかと思いますが、当時の豪徳寺の古池には、古畳、タンスの類、下駄箱その他その他がまことに無造作に投げ捨てられて居りました。

いたずら盛りの子供にとって、古池に捨てられている古畳なぞは打って付けの冒険道具でして、ハックルベリーやトムソーヤと同じく、これらを筏(いかだ)代わりにして古池探検をする訳です。一歩間違えば、と言うカンジですけど、これが子供と言うモノです。

で、何が言いたいかと申しますと、確かに粗大ゴミのリサイクルシステムなどが無かった時代とは言え、古畳や古ダンスなど、いらなくなったとは言え、恐れ多くも徳川幕府の元大老が眠る菩提寺に知らんぷりして捨てるか、オイと言う事です。

当時の日本人などと言ってもそんなもんです。

当時の小学生達は、豪徳寺の境内で、専ら戦争ごっこをして遊びほうけていた事もお話しいたしました。真夏の盛りですと、一戦が終わると駄菓子屋に行き、お小遣いで一本5円のアイスキャンデーを買って来て境内で食べる訳です。キャンデーの棒には「アウト」とか「ホームラン」とか書いてありまして、ホームランであればもう一本ただでもらえますが、アウトだと外れですので、その場で棒を捨ててしまいます。キャンデーを包んでいた包み紙も当然その場でただ捨てます。せんべいやかりんとう、あめ玉などを買ってきても、それらの包み紙もその場で当然の様に捨てます。屑箱など有りませぬ。ただ自然に、良心の呵責もなく、当たり前のように捨てます。そんなもんです。でも当時の町中、そんなに汚い印象は有りませぬ。何故か?ここからが重要です。重要と言うほどのモノでも無いけど、、、。

まず当時は「クズ拾い」が居りました。センセが小学生の頃には既にあまり見かけなくなったのですが、それでもたまに居りました。背中に駕籠をしょって、長い竹の「トング」の様なもので捨てられた紙類を拾って行きました。それらの紙を「バタヤ部落」に持って行って一つにまとめ、古紙再生業者に売るためです。バタヤとは、今で言うところの廃品回収業者の事です。何故バタヤと言うのかは知りませぬ。豪徳寺の近くにも、玉電の宮の坂駅の向こう側にバタヤ部落があり、そこからバタヤのおじさんやおばさんがリヤカーを引いて各家庭をまわって居りました。「くずや~、おはらいっ!」とか言ってね!記憶では、古新聞や古瓶、空き缶などをバタヤさんに出す時、わずかですけどお金を貰っていたと思います。これがそのうち時代が経つにつれ「皆様毎度おなじみのちり紙交換でございます。」に変わり、小銭の代わりにチリ紙を渡す形式となり、今ではそれも無くなって、自治体が主体となって有料、或いは無料で(つまり税金で)、回収する形式に変化していった訳です。

昔のチリ紙、今のトイレットペーパーやティッシュペーパーとはずいぶん違ったものでした。現在のトイレットペーパーやティッシュペーパーにも古紙再生品がありますが、昔のものに比べると大変きれいです。値段が高いものは純粋にパルプから作りますので、きれいな上にお肌にも大変優しくなっておりますが、昔の「チリ紙」となりますと、古新聞や古雑誌を漂白もせずにそのまま再生しますので、色は灰色で、赤や青に色が付いた部分も点在し、「肌触り」ももの凄く、ナカナカのものでは有りました。知らない間におしりの粘膜もずいぶん鍛えられたかと思います。センセが小学校三年生ぐらいの時に初めてクリネックスティッシュが出てきましたが、最初はこれを使い捨てにするのが酷く罰当たりな気がして、恐れ多くてナカナカ使えませなんだ、、、。きったない話ですが、最初に水洗トイレになったときも、いちいち水を流すのがバチアタリな気がして、何回か溜めた後に流す、と言う事を個人的にしておりました。センセの後から入ってきたヒトは大変だったかと思いますが、、、。

ええっと、さてと、、、。

みんなが紙とかそのまま捨てていてもナンかそんなに汚いカンジがしなかった理由の一つに、プラスチックの普及がまだまだ低かった事が挙げられると思います。これは結構重要な点です。

センセの個人的感覚として、町のゴミが目にも鬱陶しくなり始めたのは、丁度1980年になる頃からです。昭和も50年代半ば以降ですね。丁度その頃、コンビニと自動販売機が町中に溢れる様になりました。コンビニや大型スーパーが出現する以前は、魚野菜その他、買い物に出かける場合は必ず「買い物かご」を肘に掛け、出かけるのが常でした。サザエさんの「あれ」ですね!ところが丁度80年に差し掛かる頃から例のビニールのレジ袋が登場し、買い物をすれば無料でこれに入れてくれる様になりましたので、これは便利と言えば大変便利になりました。便利にはなりましたが、小間物一品買ってもこれに入れてくれますので、ある意味かえって邪魔になる場合もしばしばです。で、邪魔なレジ袋をそのまま道に捨てます。昔でしたら道路も舗装されて居らず、捨てられる袋も紙袋でしたので、雨が降ればそのまま流れ、ぼろぼろとなり、最終的には土に帰って殆ど目立たなくなります。けれども80年代ともなりますと、舗装も行き届き、歩道も完備され、植え込みなども整えられまして、見た目も昔に比べてずいぶんきれいになっている訳です。そういうところに白いプラスチックの袋が捨てられるわけですから、これはいつまで経っても土に帰ることもなく、きれいな緑の植え込みとは大きなコントラストとなりますので、否応なく不愉快なモノとして目立つ様になる訳です。

同じように、町中に溢れた自動販売機からは飲み干された空き缶が道に溢れ、さらにはこの時分には車の普及率も大幅に増えたため、車内で飲食されたものがレジ袋に入れられて道ばたに放置される、と言う状況も増加した訳です。即ち、日本人の本質~行動パターンは殆ど変化して居ないのだけれども、取り巻く状況が変化したために、以前と比べて町が汚くなった様に感じられているのかと思います。そして、その悪化した印象の原因について、「現在の日本人のマナーが昔に比べて悪くなったためである」と言う風に、単純に考えているのかと思います。けれども昔の事を考えますと、これには裏付けが無く、どちらかと言えば寧ろ逆であったような気がします。

ここら辺の事情は、携帯の登場から現在のスマホに至るまでの変化で説明すると分かりやすいかと思います。

携帯電話が初めて登場し、世に普及し始めた頃、大体今から十数年前の頃ですが、当時は携帯電話も文字通り電話機能しか付いて居ないので、電車内で使用する場合は、皆、会話口に耳と口を押し当てて、実際に声を出して会話する事となります。会話だけならまだしも、相手側から連絡が入ればチリリリリンやらピンポンやらチャンチャラチャンやら様々な受信音が車内で鳴り響きますので、当然、携帯の普及前とは異なって車内はうるさくなり、社会問題となったのは皆様もよくよくご記憶の事であります。当時も「若者のマナー云々」が問題視された訳ですが、程なく、会話では無くてメールによる通信に切り替わり、電車内での携帯による文字通りの会話は、現在では殆ど過去の物となっております。けれども今度は若者がいつでもどこでも携帯片手にピコピコメール送信をし始めたものですから、これを見て、「今時の若者は携帯の画面を見ながらピコピコしとる!けしからん!」と言うお話となる訳です。センセはもはや若者とは言い難い年齢ですが、それでも若者を代表して言いたいのですけど、「ど~すりゃエエネン!!!」と言うカンジでしょうか、、、。で、今度はスマホが出てきましたので、ピコピコの代わりに、何と言ったら良いんだろ、スイッチョスイッチョとか、ヒョイッヒョイッっとか言う感じで、画面を操作して居る訳です。「今時の若者は画面をスイッチョスイッチョしとる!実にけしからん!わしらが若い頃は、画面をピコピコしていたもんじゃ!」等と嘆く年配者がそのうち増えるかも知れませんのう、皆の衆、、、。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 昭和30年代の思い出:総集編-3

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.kigen-technosakaki.jp/old/mt/mt-tb.cgi/60

この記事について

このページは、喜源テクノさかき研究室が2013年12月30日 14:02に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「昭和30年代の思い出:総集編-2」です。

次の記事は「昭和30年代の思い出:総集編-4」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。