中山博士の横顔 その一

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中山博士は本名です。なかやまひろし、と読みます。

、、、、、、冗談です、、、、、、。

本名は、中山雅晴(なかやままさはる)と言います。
アメリカ軍が未だ沖縄を占領していた頃、沖縄県の石垣島で生まれました。
満で二歳の時、一家で東京に引っ越して来ました。

本日は、石垣島のお話をいたします。

中山センセは二歳までしか石垣島に居なかったのですが、いくつか思い出があります。
さすがですね!ふっふっふ。

石垣小学校の角に、昔風の赤いポストのある小さなお店がありましたが、
そこはセンセの母方の祖母のお家です。
昔ながらの赤い瓦ぶきの屋根のうちです。
そこから海に向かって坂になっていますが、坂をくだって程ない左手に生家があったそうです。

祖母の家.jpg中山センセは、その坂のことをはっきりと覚えています。
でも覚えていることはこれを含めて2~3きり。
やっぱりたいしたことありませんね。
ぶふふふふ、、、、。





以下の描写は小学校2年生の夏休みに旅行で帰った時の記憶です。

今では石垣市の道もすっかり舗装され、信号機などもあるようですが、
当時の道は真っ白な珊瑚礁をくだいて敷いてあるだけのものでした。
道の表のあちこちには、馬糞や牛糞がごろごろしていて、これらを踏まないようにして歩くのが大変でした。
当時はまだ馬や牛が仕事でも重要視されていたわけさ(沖縄ふうに発音する)。
夜になると、体中毛だらけの大きなやどかりが、これらに群がって餌にしておりました。
因みに、この当時の牛とは「水牛」のことです。

石垣島の家.jpg当時の家々はみな古い石垣で囲われ、家の周囲は
福木(ふくぎ)の深い緑でうっそうと
覆われていました。

なによりもまず当時と今と大きく異なる点は、
臭いです。

当時の町を歩くと、亜熱帯のしめった空気の中に、なにか独特の生活の臭いがあって
それが子供心にも大変心地よく、石垣の町を思い出すときにはいつもその臭いも同時に感じておりました。

ところが数年前に帰った時には、まあ道が舗装されたり信号機があったりするのは
時代の流れですから致し方のないことですが、
肝腎のあの臭いが無い!無味無臭!!

センセ、ムシュウに悲しかった、、、。

この記事について

このページは、システム管理者が2008年5月30日 21:10に書いた記事です。

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