中山博士の横顔: 2008年5月アーカイブ
、、、、、、冗談です、、、、、、。
本名は、中山雅晴(なかやままさはる)と言います。
アメリカ軍が未だ沖縄を占領していた頃、沖縄県の石垣島で生まれました。
満で二歳の時、一家で東京に引っ越して来ました。
本日は、石垣島のお話をいたします。
中山センセは二歳までしか石垣島に居なかったのですが、いくつか思い出があります。
さすがですね!ふっふっふ。
石垣小学校の角に、昔風の赤いポストのある小さなお店がありましたが、
そこはセンセの母方の祖母のお家です。
昔ながらの赤い瓦ぶきの屋根のうちです。
そこから海に向かって坂になっていますが、坂をくだって程ない左手に生家があったそうです。
中山センセは、その坂のことをはっきりと覚えています。
でも覚えていることはこれを含めて2~3きり。
やっぱりたいしたことありませんね。
ぶふふふふ、、、、。
以下の描写は小学校2年生の夏休みに旅行で帰った時の記憶です。
今では石垣市の道もすっかり舗装され、信号機などもあるようですが、
当時の道は真っ白な珊瑚礁をくだいて敷いてあるだけのものでした。
道の表のあちこちには、馬糞や牛糞がごろごろしていて、これらを踏まないようにして歩くのが大変でした。
当時はまだ馬や牛が仕事でも重要視されていたわけさ(沖縄ふうに発音する)。
夜になると、体中毛だらけの大きなやどかりが、これらに群がって餌にしておりました。
因みに、この当時の牛とは「水牛」のことです。
当時の家々はみな古い石垣で囲われ、家の周囲は
福木(ふくぎ)の深い緑でうっそうと
覆われていました。
なによりもまず当時と今と大きく異なる点は、
臭いです。
当時の町を歩くと、亜熱帯のしめった空気の中に、なにか独特の生活の臭いがあって
それが子供心にも大変心地よく、石垣の町を思い出すときにはいつもその臭いも同時に感じておりました。
ところが数年前に帰った時には、まあ道が舗装されたり信号機があったりするのは
時代の流れですから致し方のないことですが、
肝腎のあの臭いが無い!無味無臭!!
センセ、ムシュウに悲しかった、、、。
センセが石垣島に居たのは、満で2歳まででした。
でも、いくつかの思い出があります。
ある時、センセは生家でお昼寝をしておりました。
ふとオシッコがしたくなって、お便所に行きました。
しかし、お便所の戸を開けると、中から白い幽霊が何人も現れました。
センセはびっくりして、ちびっ子ギャングのアルファルファの様に髪の毛を逆立て、
慌てて廊下から庭に逃げようとして靴を履こうとするのですが、
黄色のチョウチョがついた青いゴムの靴がなかなかうまく履けず、
あせるばかり!
ようやく履いて庭に逃げると、センセのお母さんが庭で洗濯をしておりました。
木のたらいと洗濯板を使って、せっせと洗濯をしておりました。
それを見て、センセはとっても安心して、幽霊のことは忘れてしまいました。
・・・たぶん、夢を見ていたのでしょうね。でも、黄色のチョウチョがついた青いゴムの靴の思い出は、
今でも鮮明に覚えています。
また、この頃着ていたお気に入りの、黒地の和服のこともはっきりと覚えています。
上の夢の物語は、なんか、坪田譲治の童話の一節の様で、センセのお気に入りの思い出です。
もう一つ、石垣島時代の思い出があります。
センセが東京に来たときは、センセが2歳の時でした。
家族で東京に出る前、最後の思い出とばかりに、一家そろってハイヤーを借り、石垣島を一周しました。
そのときのことをセンセはようく覚えています。
風が猛烈に強い日で、あの当時の道は舗装などされていないものですから砂埃が舞い上がり、時々目の中にも砂が進入してきました。
センセは子供心に、
「何でこんな砂埃の強い日に観光旅行なんかしなくてはならないのだ!全く大人は常識に欠けているなあ!」
と憤っていたことを、大変鮮明に覚えています。
後々、家族兄弟にこのことを話すと、
「それは写真があるからそれで覚えているつもりになってるだけさ。」
と言われるのですが、
残念ながら、さすがの写真も、風まで撮すことは出来ません。