今月の書評-114
「あ~~も~~ヤバイよヤバイよ!オリンピック、ヤバイよ!」
というカンジの第四波ですが、ワクチン接種もようやく始まりましたし、ナントか開催できそうかな?どうでしょうか?
何とも言えませぬが、池江さんらの気持ちを考えても、ここはナントか開催できるようになって欲しい!と考えてるセンセです。
さて、方位や距離をガン無視して考えた場合、邪馬台国の所在を決定するための最大の手がかりの一つが、まさにその名を表す邪馬台(ヤマタイ)ですたい!
じゃっどん、邪馬台なのか邪馬壱なのかで早速論争が生じますですばってん!
まずは簡単に、この問題の発生原因を見てみます。
そもそも現在伝わっている魏志倭人伝中の文字は、邪馬壹国です。
この壹という文字は、常用漢字における壱に相当します。
ですから、素直に読むと、「ヤマイコク」、あるいは「ヤマイチコク」となります。
ところがその後の後漢書では壹の文字が臺に変わり、邪馬臺国と記載されます。臺の文字は、常用漢字における台に相当します。素直に読むと、「ヤマタイコク」、あるいは「ヤマトコク」となります。
以下、分かりやすく、常用漢字である台と壱に直して書いていきます。
前にも書きましたが、後漢書の倭人の項は、魏志倭人伝からおよそ150 年後に魏志倭人伝を下書きにして書かれたものです。で、ほとんどの部分で、それこそコピペでもしたかのごとく、一字一句、同じ記載です。倭人に関する記載量に大きな違いがあるだけ、と言っても過言ではありませぬ。
で、そのような後漢書ですが、わざわざ文字を直して邪馬台国と書いてます。
なぜ直したのか?
直す必要があったから、直した。
というのが、普通のヒトの合理的な感覚です。
じゃ、なぜ、陳寿さんは邪馬壱国と書いたのか?
実は、陳寿さんが本当にそのように書いたのかは分からないのです。
ただ、陳寿さんが書いた魏志倭人伝は、なが~~~い間、人の手によって「書き写された」ものが流通しておりました。印刷ではないのです!
で、これが木版印刷されたのが13 世紀くらいで、この時の印刷本の手本となった「書き写されて伝わっていた文書」の中では邪馬壱国と書かれていた。なので、そのまま印刷した、ということです。
で、書き写すヒトも当然間違えないように慎重に書き写していたに違いありませんが、神ならぬヒトの身の悲しさよ、当然写し間違いもあったであろうことよ。
さらには「取るに足りないあづまえびすの事柄」の部分においては、注意力も散漫となったであろうことよ。
ですから、ことによると、もともとの魏志倭人伝には邪馬台国と書かれており、後漢書を編纂した范曄(はんよう)さんは、これをそのまま書き写したに過ぎない、という可能性だって十分にあるわけです。
この場合は、陳寿さんの原本はその後にいつしか散逸してしまった、ということになりますね。
いずれにしましても、まずは何と言っても魏志倭人伝が書かれてからわずか150 年後の後漢書において邪馬台国と記されているという事実を考慮に入れると、仮に陳寿さんが万が一に邪馬壱国と書いていたとしても、後漢書が記載された紀元 4~5 世紀のヒトにとってすら、「これは明らかな間違いである」と認識されていた、とみて間違いないと思います。
仮に「ヤマイコク」と読んだとして、いったいこれは何処の地を指すのか、かえって途方に暮れてしまいます。
これを「ヤメイコク」と呼んで、お茶と温泉で有名な佐賀県の八女市(やめし)に比定するヒトなどもおりますが、そんなことはヤメにしたほうがよかろう、とセンセなんぞは考えます・・・。
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