今月の書評-107

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続きです。下図参照。

遠賀川式土器と水田稲作の伝播-3.jpg
北九州の佐賀県唐津市に端を発した水田稲作農法ですが、その後の100 年間はその辺りからあまり移動することはなかったようです。(個人的には宮崎県都城市あたりには別筋の弥生文化が根付いた、と思ってますけど・・・)

また、島根県出雲市あたりに根付いた半島式畑作穀物農法は東進し、DEEP な縄文人エリアにも侵入し、縄文文化を継承しつつも新式畑作農法を営むという、新たなライフスタイルがこの地域に生まれることとなります。

一方で、その後に生まれた本格的な弥生文化は、明らかな水田稲作農法と遠賀川式土器とを伴って、突帯文土器が伝播した西日本エリアを同じように拡散していきます。この時、板付に移住した人々と同じ文化~由来を持つ人々は、拡散先で村を構える(かまえる)際、ある場所では在来の縄文人と交じり合い、ある場所では縄文人が居ない場所に村を作るなど、様々な形で拡散していったと考えられます。

西日本においても、新式文化を受け入れるのを拒否した在来の縄文人は当然居た、とも思いますが・・・。

その結果、先に拡散した突帯文土器を使い続ける人々、新たな遠賀川式土器を使う人々、さらには両方を使う人々など、様々な形で畑作~稲作入り混じった農作文化がこの当時の西日本で生まれました。
その結果、紀元前 7 世紀ころまでには、図のように、現在の敦賀湾から伊勢湾を結ぶ線まで、遠賀川式土器を伴う水田稲作農法が到達することとなりました。

興味深い点は、この遠賀川式土器を伴った水田稲作農法もまた、突帯文土器同様に、DEEP な縄文エリアを前にして、一旦足踏みする点です。

「DEEP な縄文エリアとの境目は、日本有数の山岳地帯が始まる地域でもある。従って、水田稲作農法には適していない。だから伝播がここで一旦停止したのは自然かつ当然だ!」という議論も取り合えずは成り立つかもしれませんが、図でも示したように、日本海側では、水田稲作農法は北九州からまずは鳥取県に、その後は日本海側を北上してナ、ナント青森県まで一気に到達する一方で、広大な平野が広がる関東地方に達するのは紀元前 3 世紀ころであるという、???満載の事実です!
太平洋岸には日本海岸以上に米作りに適した平野が連なっているのですから、単純に「適す適さない」の問題だけで関東への伝播が遅れたわけではない、と思います。

やはりDEEP な縄文人たちは縄文式プライドも高かったので、少なくとも一旦は、水田稲作農法を受け入れるのを拒否したのでしょうかね?

よくよく考えてみると、水田稲作農法というのはひどく大掛かりなもので、例えば個人が引退して田舎に移住してちょいと裏庭をひっかいてニンジンやトマトやキュウリを作って「ああ楽しい!」というのは取り合えず良いかと思いますけど、同じように引退した後に裏庭に水を引いて泥田を作って畔も作って苗代も作って、そんで田植えをして女装して、じゃなくて除草して、そして秋になったら鎌をふりかざして収穫するという、あんましそんなヒト、聞きませぬ・・・。

ましてや村の生業としてこれを成り立たせるとするならば、村人全員の合意が必要なのはもちろんのこと、技術者を迎え入れ、労働力を提供し、木を伐り草を焼き、水路を作って水をひき、水の流れを計算し、土地の高低も計算し・・・・・ああ、ホント大変だわ・・・。

なるほど、水田稲作農法って、ちょっとやそっとで取り入れようという気にはならないのではなかろうか?
それを取り入れたということは、それはやはりよっぽどの利点がそこにあったからなのでしょうが、それに関する考察はいずれ程なく・・・。


どちらにしましても、そんな誇り高き東日本の縄文人ではありましたが、時が経つにつれ、従来のライフスタイルを変えていくこととなるのでした。ではっ!




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2021年2月 7日 15:54に書いた記事です。

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