今月の書評-105

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続きです。

で、半島と列島の距離から見ても北九州が半島文化流入の最主流であるのは間違いないところですが、どうやら伝播先は北九州一点張りではない可能性があることも分かってきました。

下の図は、突帯文土器と、水田稲作を含む穀物栽培の伝播のようすを描いたものです。茶色く塗った部分が突帯文土器が普及した地域です。


とつたいもん土器の限界-2.jpg
図の中の坂本遺跡は宮崎の都城市にある縄文晩期~弥生早期(紀元前1000 年くらい)と見なされる遺跡で、明らかな水田稲作遺構が見つかったところです。

都城市には、坂本遺跡以外にも黒原遺跡や黒土遺跡など、この時代の遺跡が多く出土しています。

この宮崎の地では、北九州とは異なる形式と見なされる突帯文土器が出土し、北九州とは出自が異なるのでは?と考える研究者もいます。センセも、他の証拠などからも、そう考えています。


孔列文土器.jpg
孔列文土器(こうれつもんどき) 写真は朝鮮半島から出土した孔列文土器ですが、宮崎では、これと同じ形式の土器が出土した、とのことです。
https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/search/view?relicId=2078



同様に、図の中の板屋遺跡は島根県の飯南町の遺跡で、これも同じく縄文晩期~弥生早期の遺跡です。で、ここでは水田稲作の跡は見つかっていませんが、ここで出土した前池式と呼ばれる突帯文土器からは、これまでで最古の稲籾(いなもみ)の圧痕が見つかっています(レプリカ法)。菜畑よりも古いのです。

で、土器の圧痕からは、それが「稲である」ことは分かりますが、水稲か陸稲かは区別できません。稲籾以外にもアワやキビ、ヒエなどの穀物の圧痕が検出されていることなどから、ここでは水田稲作ではなく、穀物の畑作が行われた、と考えられています。


以上の事実を考え合わせると、

1) 縄文晩期~弥生早期に伝播した半島由来の新式文化の出所は単一ではなく、いくつかのものは由来を異にする可能性がある。
2) 中でも、北九州、宮崎、出雲地方はそれぞれが共に古いと同時に、それぞれがその後の古代史に大きな足跡を残していることから、何やら非常に怪しい場所だ!

などとまとめられます。

さらに興味深いことは、初めの図を見て頂ければ分かると思いますが、突帯文土器の普及は若狭湾から愛知県と岐阜~静岡県との境でストップします。
いわゆる西日本に限られるのです!

ところが水田稲作を含む穀物栽培文化の伝播はこの境を飛び越し、図で言うところのDEEP な縄文エリア、すなわち東日本に及んでいきます。
縄文中期には人口稠密地帯であった岐阜や長野の縄文人は、今月の書評-44」で紹介した北方の縄文晩年文化である亀ヶ岡式土器の流れをくむ形式の土器を用いつつ、新式の畑作文化を積極的に取り入れていったようです。

水田稲作技法は、日本海側をとびとびに北上し、最終的には青森にまで達します。

そこらへんの事情は、いわゆる遠賀川式土器(おんががわしきどき)をご紹介しながら次回以降にお話する予定ですが、今回の話で最も興味深い点が、この時代においても、西日本と東日本でくっきりはっきりと何かが異なっていた、という点です。

それは何か?

ホント、古代史って、尽きることのない興味が満載の世界ですね!

では、くれぐれも夜遊びをお控えなすって、せいぜいお持ち帰りを利用しませう!




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2021年1月31日 16:18に書いた記事です。

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