今月の書評-50
あれほど騒がれたTK 会談もお騒がせに終わり、結局のところ何も変わらない極東の今日この頃ですが、よゐこの皆さまはいかがお過ごしですか?



この冬の坂城は例年よりも暖かく、また、杉花粉量も明らかに少なめで、センセとしては大いに助かってます。このままの穏やかな雰囲気の中で新たな時代を迎えられれば、と思います。
さて、縄文人のご先祖さまが日本列島でナウマンゾウやらマンモスを追っかけていたころ、YDNA のC タイプを持つ連中が、満州からシベリア~モンゴル高原にかけて拡散していきました。
同時に、O タイプの連中が、中国大陸のほぼ全域にわたって広がりを見せ始めました。
さらに、O から分岐したN の連中もまた、大陸を北上していきました。
当時の中国大陸には未だ数多くの大型哺乳類が存在しておりましたが、気候の変動や狩猟圧などにより数を減らし、人々は狩猟採集以外の手段を見出す必要に迫られました。
で、中国の長江(センセが子供の頃は揚子江と呼ばれていた)支流域、湖南省のおよそ1 万6000 年くらい前の遺跡から稲モミが発見され、さらに1 万4000 年前の江西省の遺跡からは、明らかに栽培されたと考えられる稲モミが見つかりました。いわゆる長江文明の始まりです。
さらに、紀元前7000 年くらい前の彭頭山遺跡(ほうとざんいせき:湖南省)から野生種よりも明らかに大きい稲モミが出土したことから、栽培種による水稲耕作が既にこの頃には始まっていたことが確実視されるようになりました。また、稲モミのDNA 分析から、栽培種としての稲の起源は長江中流域にあり(起源はスンダ~サフルランド方面である、という意見も根強いです)、ここを起点として、付帯する文化~言語を伴いつつ、西はインド方面へ、東は朝鮮~日本へと拡散していったと考えられています。
従いまして、昔、中尾佐助先生らによって盛んに唱えられていた「日本の稲作~弥生文化はヒマラヤ東部から雲南省に広がる照葉樹林帯が起源である!」との説は、現在では既にお蔵入りになったものと思われます。
その後、長江の下流域、現在の浙江省あたりに、今からおよそ7000年前から500 年くらい続いた河姆渡文化(かぼとぶんか)が生まれました。
この遺跡からは水稲のモミが大量に発見されたことから、水稲栽培が本格的かつ大規模に行われていたと考えられています。稲のほかにも、ヒョウタンやナツメ、ハス、豆などの植物を栽培し、また、ブタやイヌ、水牛などを家畜化していた証拠も見つかっています。
さらに、高床式住居、田を耕す道具、紡錘や針など大量の織物用の道具、漆器類などが見つかり、弥生文化の祖型とも言うべきものが出揃っています。
日本列島では、縄文時代の早期から前期にかけての頃です。

河姆渡遺跡から出土した炭化米 Bai百科より
ご飯の上にゴマをまぶしたもの、ではありませぬ・・・。
これらの長江文明を担った人々ですが、彼らはYDNA のO から分岐したO1b1 タイプの人々であり、その後に呉や越、あるいは楚などの国々を形成した後、春秋戦国時代の戦乱後に今のベトナム辺りまで押しやられた、いわゆるオーストロアジア語族に属する連中であったと考えられています。

ベトナムだけでなくアッサム地方にも分布 wiki より

オーストロアジア語族のきれいなお姉さん達。う~~~ん、Très bien! http://iyota.asia/uhauha/
さて、長江文明に少し遅れ、より北方の黄河流域では、長江とはちょうこうっと異なる文明が始まりました。黄河文明です。
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