今月の書評-14

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続きです。

縄文人が土器を作り出した目的は、クリやドングリなどの堅果(けんか)類からデンプンを採るためだったと考えられます。

地面に穴を掘って保管すると虫に食われるので土器で保存、という考えもありますが、縄文時代初期の土器は底が丸い~尖ってるものがほとんどですので、単に保管のためでしたらかえって不便です。いくら縄文人だって、尖った底よりも平たい底の方が平らな地面に立てやすいことくらい分かっていたはずです www。
縄文時代にはすでに布は存在していたわけですから、単に保存が目的であれば、わざわざ手間暇かけて土器なんぞ作る必要もなく、ドングリなんかは布や細かい目の網などで作った袋に入れて吊るしておけばOKなわけです。

従いまして、丸底~尖底の土器の主たる目的は、保存というよりもむしろ、これらの堅果類を入れた後に水を加え、長時間煮炊きすることにあったと思われます。
この場合、尖った底を炉の灰の中、あるいは灼熱の石ころの中に突っ込んで煮炊きをしたのでしょう。熱の伝導性という意味では効率的だと考えられますし。

縄文土器 早期.jpg
ライフハックアナライザーさんからの頂き物です。
https://lifehack-analyzer.com/jomon-pottery/


この時注目すべきは、クリやドングリという堅果類の特徴です。

現在でも南洋諸島などではバナナや豚の肉、ヤムイモやタロイモやサツマイモなどを調理する場合、単に地面に手頃な穴を掘ってその中にバナナの葉で食材を包んだものを入れ、その上から熱した石ころを適当に投与して泥をかぶせて蒸し焼きにする方法がしばしば用いられますが、こうすればわざわざ土器など使う必要はありません。

けれどもこの料理法では、コメや麦など、細かで乾燥した固い食材を調理することはできません。コメや麦などの穀類を調理するためには、これらを粉にひいてパンや饅頭状にするか、あるいは何らかの「鍋的なもの」を用意し、水を加えてから加熱することが必要です。

縄文時代の日本列島にはバナナやタロイモは無かったので、石の蒸し焼き調理法は不可能でした。
初期の頃は、未だコメ、ヒエ、アワなどの雑穀は彼らの主たるメニューではなかったと思われます。
豊富にあるのはドングリ、椎の実、栃の実、そしてクリなどでした

クリや椎の実は別として、ドングリや栃の実は煮ても焼いても食えません。ことによるとドングリは煮た後に潰して焼いて食べたかもしれませんが、少なくとも栃の実は煮たり焼いたりするだけでは食べられません。煮て柔らかくした後にデンプンを採取し、そのデンプンを利用したと考えられます。

ドングリ類は秋にしか実をつけませんから、その時に一年分を大量に採取する必要があります。堅果類からのデンプン採取においては、採取後に煮立て、潰して炉の灰(にがり)を混ぜてアク抜きをし、大量の水で晒す(さらす)など、一連の大変にめんどな作業工程が必要となります。

この、堅果類からデンプンを採取する技術も、まさにエジソンおじさんの天才がなせる業です。どのようなきっかけでドングリからデンプンを採取してこれを食料として利用することとなったのか皆目分かりませんが、南洋でもサゴヤシの幹からデンプンを採取することが古くから行われてきたことを考えると、この植物質からのデンプン採取法というものは、世界の多くの場所において、スポラディックな形で発明に至ったのかも知れません。

仮に、堅果類からのデンプン採取が当時の家計の栄養の確保において欠くべからざるものであったとしたら、個人単位~家族単位ではなく、部族あげての共同作業が有利となったと思われます。そうなりますと、ドングリが豊かに実り、かつ水の豊富な「里山」周辺に部族をあげて定住することへの強い動機が生じますので、未だ本格的な農耕文化ではないにも関わらず、ここに本格的な定住文化が始まった可能性があります。

さらに、「今月の書評-2」でご紹介した「クロボク土」をもたらした「野焼き」ですが、著者の山野井氏によれば、蕨(わらび)の採取目的だったのでは?ということです。

個人的には、野焼きの目的を蕨に限定する必要はないと思います。
春の野からは様々な「菜」が採取できますし、また、秋になれば、定住生活を送るうえで必要不可欠となる住居の屋根を葺く(ふく)材料となるススキが大量に取れます。さらに、シカや野ウサギなどの中~小型の草食獣も増えると同時に、見晴らしが効くようになるわけですから、これらを仕留めやすくもなります。
一口に野山(のやま)と言いますが、縄文時代こそは、まさに野山から得られる自然の恵みを最大限に利用した時代であった(これに加えて海と川も)と考えられます。このような恵みをもたらす野焼きですが、これももちろん部族あげての大仕事とならざるを得なかったと思われます。

たぶん、旧石器時代人も炉を囲んで毎晩その日の戦果などの自慢話をしていたことと思います。従いまして、炉の熱で土が固まっているような状況は目の当たりにしていたことでしょう。けれどもそれを「容器」の状態にまで発展させたのは、やはり縄文時代のエジソンおじさんだと思います。また、相変わらずの移動式キャンプ生活であったなら、さすがのエジソンおじさんも土器の発明は無理だったでしょう。

従いまして、初めにドングリありき、その次に定住生活、最後に土器の発明、という順番だったと思います。

また、大型獣を狩ることから植物質の食材を利用することへの大変革は、土器の発明のみならず、石器技術の改革をも伴うものでした。
すなわち、マンモスを仕留めるのに便利な鋭利な細石刃の槍が使われなくなったのと時を同じくして、ドングリなどの堅果類をすりつぶすのに便利な磨製方式の調理用石器群が出現してきました。
さらには、恐らく弓矢もこの頃に発明されたと考えられます。
ちょっと考えてもらえれば分かると思いますが、マンモスやナウマンゾウなどの大型獣を弓矢で仕留めるのは困難です。
たぶん、狩りの対象が、大型獣からイノシシやシカなどの中~小型獣へと変わったことが、槍から弓矢への変革を生んだ可能性があります。
もちろん、旧石器時代から引き継がれた様々な罠(わな)の技術もまた、中~小型獣向けに改良を加えられ、より発展していったに違いありません。

細石刃技術といいデンプン採取法といい釣り針や弓矢の発明といい、我々のご先祖様はまことにあなどれません。
弥生時代や近代の産業革命、現代のAI に代表されるデジタル革命もさることながら、縄文時代の幕開けもまた、大技術革新の時代であったと言っても過言ではないと思います。



では本日はここまで!
次回からは、いよいよ縄文人のDNAを調べちゃったりします!


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このページは、喜源テクノさかき研究室が2018年4月 8日 16:14に書いた記事です。

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