昭和40年代:足立区の移り変わり-4

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当時の足立区竹の塚周辺は見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼでした。
特に足立区と埼玉を分け隔てる毛長川(けながわ)沿いの土手道から埼玉側を眺めると、農家や神社仏閣の樹林が遠景を縁取り、春ともなると見渡す限り一面のレンゲ畑が広がり、川面に寄せる春風に乗ってヒバリが空高く舞い歌う光景が繰り広げられていたものでした。

センセ達は釣り竿を担いで自転車で竹の塚から伊興町へ向かい、毛長川の岸辺で糸を垂らしたものでした。伊興町(いこうちょう)からさらに西北に向かうと舎人町(とねりちょう)に入りますが、当時、ここは地図で見るとどういう訳か舎人町が複雑に入り組んでいて、訳分からない状況となってました。一体何故そうなのか、ちょいと調べてみたところ、どうやら話は江戸時代までさかのぼるそうです。詳しくはhttp://sci-tech.jugem.jp/?eid=189に載ってます。現在ではそれなりにまとめられて分かりやすくなっている様ですが、それでも完全とは言い難い状況だそうです。

この舎人町から伊興町にかけては小さなお寺がやたらと多く、これも子供心に不思議でしたが、これは関東大震災の時に下町で焼け出されたお寺さんがここにまとめて移住させられたためだそうです。要するに、足立区って、関東大震災の影響を二次的に大きく受けており、その知識無くして足立を語る事は出来ない、と言う事が出来そうです。

さて、この様な田園風景はさらに埼玉の奥まで延々と続いておりました。東武線の西新井駅から竹の塚に近づくと突如として団地群が現れると書きましたが、さらに進んで谷塚~草加を過ぎると、今度は松原団地のマンモス団地がいきなり出現します。
松原団地駅は松原団地が出来たのでわざわざ作った駅だと思います。このことからも分かる通り、松原団地は、当時は日本有数のマンモス団地でした。ところが基本的に湿地帯である荒川沿いの関東沖積地帯に作ったものですから、梅雨時や台風が来るとたちまち近在を流れる農業用水が氾濫し、これが団地に流れ込みます。団地の地形そのものが窪地に建てたも同然の構えですので、水はナカナカ引かず、毎年のように住民からの苦情が寄せられておりました。もちろん現在ではそれなりの対策が取られ、往年の様な被害には見舞われていない様ではありますが、、、。

松原団地と言えば獨協大学のキャンパスがある場所としても有名ですが、センセが小学生だった頃は獨協大のキャンパスは未だ無く、伝右川(でんうがわ)を境にして団地の反対側は一面の田んぼ田んぼ田んぼ・・・。
釣り竿担いで竹の塚からはるばる伝右川まで自転車で遠征した事もありました。
春のレンゲが一面に広がる田んぼに一歩分け入ると、夥しい数のトノサマガエルがぴょんぴょん飛び跳ねて、これを捕まえるのも小学生の役得でした。役得と言っても捕まえてどうする訳でもないのですけどね、、、。取りあえずぴょんこぴょんこするヤツは捕まえる、と言うのが小学生の本能でして・・・。

下の図は、伝右川で釣りをしている所をフォトショップで描いたものです。竹の塚から松原団地にかけての春の光景は、本当にこの様なものでありました。

獨協大前のレンゲ畑-2.jpg


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このページは、喜源テクノさかき研究室が2015年1月 4日 10:00に書いた記事です。

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