昭和40年代:足立区の移り変わり-3

| | トラックバック(0)
武蔵野の面影を残す山の手の世田谷区豪徳寺、「Let's 豪徳寺!」の舞台ですが、、、
知らないヒトは知らないと思いますが、、、
どうでも良いですが、、、
そこから、下町と言うよりも寧ろ埼玉から茨城の水郷に至る「関東沖積地帯」の、「本来は湿地帯であるが、それを利用して田んぼに開発した農村地帯」の辺縁と言うカンジの当時の足立区に移ったセンセにとって、その地質学的差異ももちろんながら、文化の相違には大いに衝撃的なものがありました。

これから述べる事の中には差別的な表現や足立を故意に貶める(おとしめる)様な事が書かれていると感じる方も居られるかも知れませんが、決してその様な意図をもって書くものではありませぬ。ただひたすら、当時の小学生にとって驚きであった事実をそのまま書いていくつもりです。事によると当時のクラスメイトがこのブログを読む事があるかも知れません。その時にどの様に感じるかを考えるとためらいも生じますが、クラスメイトも今では皆立派な大人ですし、「ああそうだったね!」と思っていただくことを期待して、ありのままに書いて行こうと思います。

世田谷区豪徳寺の城山小学校から足立区竹の塚の保木間小学校に5年生の時に転校したセンセでしたが、直ぐにクラスのみんなと仲良くなりました。センセの人徳ですね!HD
でも、世田谷時代と色々違うところがあり、興味津々と言おうか面食らうと言うか、同じ東京でもこんなに違うものかな、と、小学生の身ではありましたが、強く感じたものでした。

まず始めに驚いた事は、クラスの三分の一が生活保護世帯であった事です。クラスメイトの大体の構成としては、三分の一が地元の農家の子供達、三分の一が関東大震災や戦後直ぐに移り住んできた人達の子供達、残りが高度経済成長による郊外の拡張に伴って移り住んできた最も新参の世帯の子供達で、センセはこれに含まれます。地元の農家の子供達の名字には古庄、五十嵐、石鍋の姓が多く、地主でもあり、農業だけでなく、地元の色々な産業にたずさわっている家庭の子女が多かったです。センセを含む新参者の多くは団地住民であり、その子供達の多くは、当時のはやり言葉で言うところの「鍵っ子(かぎっこ)」でした。その他の子供達の大部分は、いわゆる「都住(とじゅう)」に住んでおりました。都住とは都営住宅の事で、国が主体となって作った団地とは異なり、東京都が建てた住宅群の事です。家賃も格段に安価に設定されておりました。

当初、都住は戦前に建てられた古い木造のものが多く、これらが竹の塚周辺に点在しておりました。基本的には、関東大震災後の東京大改造計画に沿って建てられたものが多かったそうです。
これらの古い木造の都住は、トイレ、水道、炊事場は共同で、お風呂などもありません。男性の小用トイレなどは単にコンクリートの壁があるだけで、溝を伝って下水に流れ落ちる仕組みでした。水道の蛇口は緑青の浮き出た真鍮製で、建物一つに付き数個しかありません。
この様な建物の基本的な構造自体はその後も中野区辺りの下宿屋などに多く見られ、珍しくも有りませんが、何しろ殆どが戦前に建てられた古いものであるのと同時に平屋建てのものも多く、朽ち果てる寸前のものもあり、これらは確かに当時の足立を特徴づけていた建物群だと思います。

一度呼ばれて友人の家に遊びに行った事があります。木造の階段を上る時の軋む(きしむ)音や、夕方になると屋根裏から飛び出す無数のコウモリが印象的でした。友人一家は六畳一間に暮らしており、驚いた事には、父親が昼間っから部屋の真ん中で酒を飲んで寝ております。母親は枕元で洗面器を抱え、父親がときどき吐き散らかす「痰」を洗面器で受けております。
友人はクラスでも優秀であり、当時の学級委員長だったので、部屋の壁には委員長の免状が額縁に入れられて飾られておりました。僭越な物言いかも知れませんが、父親にとって、何にも増して誇れるものが、自分の息子たる彼だったのかと思われます。
兎も角も上の光景は、子供心の奥底に染みこんで、未だに放れる事の無いものであります・・・。

その後、この様な古い都住は、団地と同じ様な真新しい鉄筋のビル群に建て替えられる事となります。

小学生の服装も大きく異なり、夏場の世田谷では男子は押し並べて半ズボン姿で、下手をすると冬場でも半ズボンをわざわざ「着せられた」ものでしたが、ここでは夏場でも半ズボンは少なくて長ズボン、それも中学校の制服の「黒のサージ」の長ズボンを着ている連中が多かったです。ランドセルも少なく、中学生の「白のズック」のカバンで通学する子もたくさんおりました。さらには中学生の帽子をかぶっている連中も居り、間違い無く、年長者から譲り受けたものをそのまま使っていたのだと思います。センセもそのうち雰囲気に溶け込み、「黒のサージ」の長ズボンはセンセお気に入りのアイテムと成りましたが、、、。

言葉遣いも微妙に異なり、「くんさん」付けで呼ぶことは殆ど無く、あだ名での呼び合いは良いとして、どういう訳か姓と名を一気に通して呼ぶ事が多かったです。一つにはたぶん、古庄~石鍋~五十嵐の三つの姓が多かった事が原因かと思われます。一つのクラスに古庄姓が三~四人居る事はざらでしたから、、、。
世田谷では、自分の事を言うには、男の子だったら「ボク」、女の子でしたら「ワタシ」、相手方を呼ぶには、男子は「キミ」、女子は「アナタ」が普通でしたが、足立ではそんな流儀は無く、「オレオマエ、アンタアタシ」の世界でした。下手すれば「オイラ、オメー」と言う事です。

豪徳寺時代は戦争ごっこばかりやっていたセンセ達でしたが、足立ではそんな遊びをするものは一人もおりませんでした。で、何をするかと言えば、まずは魚釣り、次に野球、後はベーゴマとか将棋とか、あまり創造性に富んだものではありませぬ・・・。世田谷時代はみんなで創意工夫を凝らしていろんな遊びを発明したものですが、ここではありふれた遊びを小規模に行うのが普通でした。一つには、まわりは見渡す限り田んぼしか無いので、工夫発明の余地が無かったのかも知れません。ドッジボールとかSケンとかもやりましたが、そう言うのは世田谷でも足立でも時折行うもので、そんなにポピュラーなものではありません。
面白い事に、世田谷では男子と女子が一緒になって遊ぶ事は、殆どと言うか100%と言おうか、ありませんでしたが、足立区竹の塚の小学生達は、結構男女一緒になって野球やドッジボールをしておりました。今から思えば不思議な気がしますが、小学生も5~6年生となっていたからなのでしょうかね?世田谷と比べて性的にも「ませた」連中が多かった気がします。たぶん、住宅事情などが関与している気がしますが、、、。

もちろんセンセなんぞは純粋無垢で、事の顛末などは全く知らない小学生ではありました・・・。wwww

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 昭和40年代:足立区の移り変わり-3

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.kigen-technosakaki.jp/old/mt/mt-tb.cgi/95

この記事について

このページは、喜源テクノさかき研究室が2015年1月 3日 16:57に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「昭和40年代:足立区の移り変わり-2」です。

次の記事は「昭和40年代:足立区の移り変わり-4」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。