昭和30年代の思い出:総集編-6

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・・・・失礼いたしました・・・・突然取り乱してしまいました・・・・。

傷痍軍人の姿から、今度は東京清瀬の昔の結核病院の雰囲気を思い出してしまいました。フェノールやクレゾールの臭いとか、とびひの治療に用いるヴァイオレットの色だとか、、、ナンか、、、メメクラゲに刺されたオトコを思い出す、、、、。

世田谷の世田谷通りには、代官屋敷というものがありました。今でも存在していると思います。この代官屋敷界隈の世田谷通りでは、昔は年末になるとボロ市と言う縁日がたち、植木や瀬戸物、古着などの出店が軒を連ね、近在の人々が集まって、大変賑やかでした。今でもあると思います。で、植木や瀬戸物類の出店に混じって、セルロイドのおもちゃ売りやカルメラ焼き、今川焼きなどの店も出て、子供達もお小遣いを貰っていそいそと出かけたものでした。

その中で、アンペラ作りの見せ物小屋なども建ちました。たぶん、ですけど、現在ではこの様なものは無いと思います。アンペラと言うのはムシロの事で、掘っ立ての木枠にアンペラを掛け、急ごしらえの見せ物小屋に仕立てる訳です。これらの見せ物小屋には、木の看板に泥絵の具で色彩も鮮やかに「蛇女」とか「ろくろっ首」だとか「象おんな」だとかの絵が描かれ、小屋の入り口に掲げられる訳です。これらの絵を一瞥しただけで小学生レベルの子供達にとってはオシッコちびりそうになりますし、親からは絶対に入ってはいけないと念を押されておりますので、センセは覗いたことはありませんが、当時中学生であったセンセの兄が、「蛇女」の見せ物を覗いてみたそうです。

で、その内容はと言うと、ナンか、女が鶏の首の羽毛をむしって、そのまま首にかじりついていた、と言う事でした、、、、、、、ナンというのか、、、、、、コメントの仕様も有りませんが、、、、。

 

 

ある年末の夜、両親にボロ市に連れて行って貰いました。相変わらずの人混みの中、ケンカがあり、ヒトが刺されたとの事でした。人混みをかき分けて現場に行くと、既に刺されたヒトは病院に担ぎ込まれた後の様でした。その場には、夥しい血が、まるでプールの様に、残っておりました。師走の寒風吹きすさぶ夜、出店のアセチレンの光が煌々と、真っ赤な血溜まりを映しておりました。この時、小学校も低学年であったセンセですが、酸化ヘモグロビンの真っ赤な色は、今でも脳裏に焼き付いて離れる事がありません。

 

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2013年12月31日 14:29に書いた記事です。

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