中山博士の横顔 その-7 世田谷区豪徳寺時代-4

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いよいよ今年も押し迫ってきましたが、皆様ご機嫌いかがですか?本日は師走も30日で、明日は紅白歌合戦。なんか今年はガガだのゲゲだのギギだのとかが出るとか、、、。やっぱし三波春夫と村田英雄が出ないと紅白歌合戦じゃねえ~~~~、とTVの前で一人罵るセンセは相変わらずのワガママオヤジで御座います。

さて、今年はホントに色々ありました。本邦大地震は言うに及ばず、タイの大洪水、欧州情勢は混迷の一途を深め、さらにはオサマビン・ラーディン、カダフィー大佐、金正日と、大物が次から次へと昇天しまして、極東情勢も混沌として参りました。大物と言えば、キューバのカストロ元首相は健在ですね。旧ソビエト連邦のゴルバチョフも未だ意気軒昂。一方でセンセが大尊敬するイギリスのマーガレットサッチャー氏はアルツハイマー進行中とのこと。何と言うことでしょうか、、、。

さてさて、本日は大掃除も済み、年末年始の細々とした始末も全て完璧に終えましたので、空いた時間でブログの続きを書き足していこうかと思います。お題は、「豪徳寺時代の遊び」です。

小学生にとって、遊びは仕事です。センセは心からそう思います。全身全霊を傾けて日がな一日遊びに没頭出来る時代は、長い人生を通じてこのときしかありませぬ。また、それを社会が「良し!」とするのも小学生時代ならでは、であります。遊びを知らずに小学生時代を過ごしますと、その後の人生、ナカナカの影響が生じるかと、個人的には常日頃より思っております。従いまして、国や地方自治体は、通り一遍、かつ、お仕着せのつまらぬ「児童公園」なんぞ作らずに、もっと小学生の眼差しをもって、彼らのための遊び場を作ってやらねばなりませぬ。安全確保は大事ではありますが、それ一本槍と言うのも能がありませぬ。言うはやすし、横山きよしかも知れませんけど、、、。

さてさてさて、豪徳寺は城山小学校の小学生達は、当時の少年サンデーや少年マガジンに影響されまして、専ら「戦争ごっこ」ばっかりやっておりました。戦争ごっこにはいくつか種類がありまして、大別して(1)普通の戦争ごっこ、(2)ドロ投げ合戦、(3)空中戦、の三種類に分類する事が出来ます。

(1)の普通の戦争ごっこは他愛もないものでして、竹切れや棒きれを鉄砲に見立てて敵の背後に回り、「バン!」と声を出したら相手は「うう~~~、やられた~!」とか言って死んだと見なす、と言うだけのものです。当時の小学生は大概巨人軍やら阪神の野球帽を被っておりますが、頭にハンカチを乗せ、その上からこれらの野球帽を被りますと、あたかも南方の日本兵の様に見えますので、その様な格好をして戦う訳です。豪徳寺は井伊家の菩提寺だけに塀で囲まれた立派なお墓が多く、これらの塀の陰で待ち伏せしている敵兵の背後に回り、これを殲滅する訳です。お年玉を貰いますと早速近くの駄菓子屋に行き、「銀玉鉄砲」やら「2B弾」やら「紙巻き火薬の拳銃」やらを購入しますので、棒きれの代わりにこれらで勇ましく戦う局面もある訳です。2B弾なんぞは当然手榴弾の代わりとなる訳であります。

(2)のドロ投げ合戦はもっと過激なものでして、ドロと申しましても田んぼのドロなどでは無く、関東ローム層の赤土の土塊の事です。東京も下町になりますと、これは沖積地帯ですから、地面は田んぼの土に近く、さらにその下を掘り下げますと海砂川砂が出て参りますが、豪徳寺のある山の手は洪積時代の火山灰が主体で、これに有機物が混ざって出来た赤土で出来ております。この赤土はホクホクしておりまして、これを掘り出して手で適当な塊に分割しますと投げ易く、当たっても石の様に痛くはありませんので、両軍共にこれを相手めがけて投げ合うのが「ドロ投げ合戦」という訳です。

豪徳寺の境内には小さな小山がありまして、これを「203高地」に見立てて頂上にロシア軍、これを下から日本軍が攻める訳です。当然頂上のロシア軍が有利ですが、日本軍の方が敢闘精神が強いものですから、突撃に次ぐ突撃でこれを駆逐する訳です。当然センセが日本軍の総大将です。まずは部下が突撃しますが、頂上からはロシア軍の土つぶてが雨あられと飛んできます。先鋒は「天皇陛下万歳!」とか言ってバタバタゴロゴロ倒れていきます。その後総大将がやおら「突撃!」とか叫んで土塊を投げつけながら、勇ましく突進!ついにこれを駆逐し、竹竿にハンカチを結びつけて日の丸の代わりにして振り回し、「占領!」となります。赤土ですから石つぶてとは違ってそんなに痛くはありませんが、それでもみんな怖いので、勇気を振り絞って突撃する側が大概は勝つ仕組みになっておりました。けれども突撃の最中に近距離から顔面に命中する場合もありまして、そんなときはやはり小学生ですので、「うえ~~~ん!」とかなる場合もある訳です。そして誰かが「うえ~~~ん!」となった時点で、戦い終了となる場合もしばしばで御座りました、、、。

ドロ投げ合戦の舞台は豪徳寺が主体でありましたが、城山城址公園でもしばしば行われました。城山公園は今ではずいぶん整備されてお上品の様ですが、当時は山あり谷ありお堀ありの三拍子揃った、誠にドロ投げ合戦にうってつけの場所でした。奥の方には防空壕の様な洞穴もあり、探検場所としても格好の舞台でありました。

大体想像出来るでしょうが、ドロ投げ合戦はしばしばご近所迷惑ともなりました。

ある時、一丁目の連中と二丁目の連中とに別れ、スターリングラード攻防戦もかくやと思われるほどの市街戦を繰り広げた事があります。センセは二丁目の総大将でしたが、一丁目の連中を追い詰め、これに向かって土塊を投げつけたところ、背後の民家の窓の方にまっしぐら。「ガッシャーン!」と言う音が聞こえましたので、たちまち「総員退却!」の号令を発令する事となりました、、、。

当時、城山小学校のすぐ近くには三階建ての代々木ゼミナールの寮がありまして、その後一丁目の連中はここに立てこもりました。二丁目はこれを攻めに攻め、とうとう屋上まで追い詰めることに成功しましたが、ここで代ゼミの寮長の登場と相成ります、、、。激しい戦闘の結果、階段やら踊り場やらの戦闘の爪痕ものすごく、寮長の剣幕これにも増してものすごく、一丁目二丁目両軍ともに打ち揃って敗北感にうちひしがれ、さらに担任の先生の名前を聞かれるに及びては、一同、玉音放送を聞くが如きに、垂れた頭(こうべ)から落ちる涙は未だに語りぐさでございます、、、。

(3)の空中戦も面白く、これは自転車を飛行機に見立て、相手の背後に食らいついて五秒間「ダダダダダ!」と言えば撃墜!となるものです。これも豪徳寺が主な舞台でしたが、世田谷区役所の広場でも良く行いました。世田谷区役所は今も当時も変わらぬ佇まいで、広場にはコンクリート製のベンチがあちらこちらに存在しています。広場が太平洋、ベンチを航空母艦と見立て、米軍太平洋艦隊と日本の連合艦隊が北太平洋上に於いて一大航空戦を行う訳です。

空中戦にはもう一つ過激なヴァージョンがありまして、これは敵の自転車を足蹴りにし、文字通り倒すものです。これはさすがに地面がコンクリートの場所では行わず、専ら豪徳寺の境内が舞台となりました。このヴァージョンでは「爆撃機」も登場しまして、爆撃機の場合は自転車の荷台に後ろ向きで機関銃手が座りまして、これを背後から追撃する戦闘機に対して懐に忍ばせた土塊を投げつける訳です。ただしこれを撃墜した場合は銃撃手のダメージは相当大きいものがありましたので、あまり成り手がおりませなんだ、、、。

当時の城山小学校の小学生の守備範囲は、西が八幡様、南が馬事公苑、東が松陰神社、北が梅ヶ丘の根津山でした。と言うのも、当時漸く自転車は一人一台が当たり前の時代となり、これに加えて未だ自動車の往来はさほど激しくなく、遠出をしても余り危険が無かったからかと思います。

先日豪徳寺駅から小田急線に乗りまして、梅ヶ丘の駅を過ぎると左に根津山が見えてきますが、鬱蒼とした木立に囲まれた小山が目に入ってきまして、「?????」とした思いに駆られました。センセが小学生の頃の根津山は木々は殆ど無く、所々にコンクリートの堀を巡らしてある丘陵地でした。このコンクリートの堀を「ベトン要塞」と見立て、相変わらずの203高地へ突撃!の場所でしたが、あれだけ育った木々を目の当たりにして、年月の移ろいを確かに感じたセンセで御座いました、、、。

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2011年12月30日 15:27に書いた記事です。

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