今月の書評-116

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センセのところにも「新型コロナ接種に関する重要なお知らせ」が届きました。
しばらく様子を見て、ヒトのうわさや報告を聞いて、そんで大丈夫なようだったらそろそろに打ってみるべい、と考えてます。慎重派、というよりも、本当は、面倒派でして・・・。

さて、邪馬台国確定のカギを握る投馬国ですが、昔からいろいろなご意見があります。以下、地図に候補地を載せてみたいと思います。
以下は、おおよそウイキでのご意見です。このほかにももっとあります。


とうまこくの位置-4.jpg
候補地の多くは、おおむね、投馬国(TMこく)の音と不弥国(ふみこく)からの距離をもとにして推定されたものだと思います。
で、宮崎県の西都市の場合は、西都市にある都萬神社(あるいは妻神社=TM神社)の音から考え出された場所です。
丹後(たんご、TG)が音の外れが大きいですが、残りは、基本、TMに合致してます。さつま=さTM、いずも=いづも=いつも=いTM、鞆の浦=とも=TM、たじま=TM、たんば=TM、というカンジ。

また、不弥国からは水行20日ということですので、北九州、あるいは山口に比定される不弥国からは結構遠いよ!ということから、上図で記した地域は、いずれも音と距離のハードルをパスしていると言えます。

で、水行20日=結構遠い、と読みます。厳密に考える必要は全くありませぬ!
また、方位に関しても、頭を悩ませる必要はありませぬ!

で、いずれにしましても、この時点で、いわゆる「邪馬台国北九州説」は全く成り立たないと思います。

仮に北九州にあったとして、中国の使節が船でゆらゆらと宮崎県西都市か、あるいは薩摩のどっかに着いたとして、そこからさらに船に乗ってわざわざ10日も逆行して、さらに1か月(あるいは、「船で10日、または陸路で1か月」のオプションあり)陸路を歩いて北九州に戻ってようやく邪馬台国に到着ということになりますので、「いくらなんでも大切な大陸からの使者をそのようにグルグルと連れまわすのは失礼極まるであろう!」と、センセは思います。
普通はしません、そんなこと。

で、これではまずい!というので北九州説の人々は色んな奇妙キテレツな説を繰り出してきますが、あまりにもキテレツ過ぎて「キテレッツのパー」と呼ばれるセンセなんぞですら全くついて行けませぬ・・・。

と、言うことで、残りの候補を検証していきます。
手がかりとなるのは、以下の2点です。

1) 船で行くので、港があるところである。
2) 人家5万戸もあることから、当時の大国の一つである。

1) の条件から、丹後が落っこちます。少し内陸ですので。残念!

で、残りの但馬と丹波と鞆の浦ですが、特に鞆の浦なんぞは名前といいロケーションといい非常に魅力的な場所なんですけど、残念ながら、三者とも、ここで脱落です。人家5万戸ほどの大国がこれらの地にあったという証拠が文献的にも伝承的にも考古学的にも全くかすりもしないので・・・。残念!

一方、北九州説は消えたとして、南九州説は未だ生きてるのでは?

この場合、西都市近くの港、現在の細島港あたりまでが投馬国の版図であり、細島港に船が着いた後には一ツ瀬川を遡上して西都市に到着。さらに山道をえっちらおっちら一ヶ月かけて登り、到着したところが高千穂町、というシナリオが描けます。
高千穂は神話の町ですし、今後もなにかと登場する可能性の高い場所ですし、また、驚くべきことに、高千穂町と境を接する熊本の町が山都町(やまとちょう)と言う名前なのです!

現在の山都町は2004 年の町村合併の際に公募で選ばれた全く新しい名前ですのでこれを直接に関連付けるのは不適当ですが、この地域は昔は肥後国 菊池郡 山門郷と呼ばれていたので、ことによると何らかのヒントが隠されているかもしれません。さらには、魏志倭人伝によれば、卑弥呼と対立していた国に狗奴国(くぬこく、くなこく)というのがありますが、これを「熊国、くまこく=くまそこく」と読む見方があります。そして、狗奴国の偉いヒトの名前が狗古智卑狗(くこちひこ)と魏志倭人伝に記されていることから、これを「きくちひこ=菊池彦」と読む見方があります。

お隣の国との仲が悪いのは昔も今も変わらないので、これは結構インパクトのある見方だと思います。

しかしながら、日本書紀などを読んでも、その後の時代の畿内ヤマト政権と南九州の熊襲国との間には紛争が頻発していたのが明らかですし、特に仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の時には腰を据えて九州征討を行っておりますし、さらには日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお話、ホントであるか否かを問わず、そのような伝承が存在していることから、仮に邪馬台国が畿内にあったと仮定して、2 世紀後半から3 世紀前半のこの時代においても、遠く畿内から南九州に向けて討伐軍を派遣することは不自然ではない、と考えます。

さらに言うならば、魏志倭人伝で倭国の女王国とまで認められていた国が、南であろうが北であろうが、九州のどっかにあったとしたら、古事記や日本書紀においてもそれなりの言及があってしかるべきだと思いますが、全くありませぬ!
邪馬台国が本家ヤマトとは全く別の国で、かつ魏志倭人伝に書き記されているがごとき派手なふるまいをしていたとするならば、本家ヤマトはその後に討伐軍を派遣して、さっさとこれを懲罰していたことでしょう。

景行天皇の軍が肥前の国(佐賀+長崎)で海松橿媛(みるかしひめ)や八十女人(やそおみな)という名前のオンナ頭目を頭に頂く一味(土蜘蛛、つちぐも)を討伐する話が肥前国風土記に出てきますが、これらのオンナ頭目を卑弥呼に比するヒトも、すでに江戸時代から、居ります。いくらなんでもこれらのオンナ頭目が魏に使いを送って真っ当に相手してもらったはずもなく、キテレッツのパーの最たるものであると思います。

要するに、卑弥呼の時代においては、「九州のオンナ酋長」が隣国の熊襲のオトコ酋長と小競り合いを演じることに地道を上げていた時代ではすでになく、この時代においては関東から南九州に至るまでの大きなくくりの中でみな共に「倭の国」であるとの概念がすでに生じており、各個に林立~対立し、乱れていた諸国をナントか一国にまとめるべきであるとの思いが共有されていたのであり、良かれ悪しかれ、それは個々の国々の利己的な思いを超えた自然の流れであると認めていたのだ、ということだと思います。

いわゆる、Manifest Destiny 、ということです。

熊襲と蝦夷は、これを最後までナカナカ認めなかった、ということでしょう。
もちろんそれには彼らなりの正当な理由がある、と思いますが・・・。


仮にこの山門郷の地域に人家7 万戸を有する一大国家が存在し、さらには一ツ瀬川下流域地域に人家万戸を有する国家があったとするならば、やはりもう少し伝承~文献~考古学的な証拠があって欲しいと思います。
有名な西都原古墳群はも少し年代が新しくなりますし・・・。

で、残念ながらこれもボツ!

因みに、南九州説には、さらに凄まじい奄美大島邪馬台国説!なんてえのもあります!!!

あたまイテ・・・。

個人的には、南九州に関してはもっと調べてみたいと思います。
何かを訴えているような気がしますので・・・。


で、以上、そうなりますと、投馬国の候補地としては、やはり出雲地方が最有力、ということになります。

次回はなぜ出雲か、をも少し深く考え、「キテレッツのパー」なるセンセの妄想を開陳してみたいと思います。




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2021年5月 1日 10:48に書いた記事です。

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