今月の書評-99

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「倭」の生業は「半農半漁」であり、「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた?

これまでの議論から、倭人と漁労とが強く結びついているのは明らかです。
で、古墳時代から大和政権あたりに登場する一群の人々の中に、「安曇氏(あずみし、あずみうじ)」というのがおります。古事記などでは阿曇氏と書かれています。長野県の安曇野の地名の元となった人々です。

この安曇氏の由来ですが、漁労に携わっていた連中の大将みたいな人々であったと考えられ、「あずみ」の言葉のそもそもは「あまつみ」、あるいは「あまみ」であると思われます。

「あまつみ」の意味にはいくつかの解釈があるようですが、個人的には「あま」は「海」あるいは「天」を意味し、「み」は「民」を意味し、「つ」は「の」に相当する言葉、すなわち「海の民」を意味する言葉だと思います。「わだつみ~わたつみ」は兄弟語です。

これに関連する言葉は日本列島には数多くあり、天草、奄美島、沖縄の「あまみきよ」伝説などがすぐに連想されます。伊豆半島の熱海も関連語です(後の時代に付けられた「漢字」に惑わされてはいけませぬ)。
多くは島や海岸部の名前ですが、安曇野などのように、北アルプスの麓にも残っています。安曇氏の影響力が科野(しなの)に及んだ結果です。

この、倭人の中の大きなパーツを構成していた「海の民」ですが、後に沖縄のお話をする際にも重要となる人々です。


さて、半農半漁の半魚人が「あまみ」であったとすれば、半農人はナント呼ばれていたのか?

ここからはセンセの妄想の嵐が吹き荒れます。


日本人の起源を言語学的観点から探る方々の一人に、以前にも紹介した金平譲司氏が居られます。氏のブログ、「日本語の意外な歴史」は相当に専門性が強いのでセンセなんぞはナカナカついて行けないのですが、氏の話の中で非常に興味深い点の一つが、「我々が普段日本語そのものであると思っている言葉の中には古代の他の言語に由来する可能性があるものが少なからず存在する」ことを明らかにしつつあるところです。これはカタカナ言葉や「漢字熟語」などの明らかな外来語を指しているのではなく、例えば「水(みず)」など、いわゆる「訓読み」の、日常的に普通に「日本語そのもの」と考えながら使っている言葉の中にも古代の他の民族の言語から転嫁した可能性があるものが多い、ということなのです。

要するに、「訓読みだから日本本来の言葉である」とは限らない、ということです。最も分かりやすい例としては、多くのヒトがすでにご存じだと思いますけど、「馬」などが挙げられます。訓読みが「うま」、音読みが「ば」、あるいは「ま」ですので、別種の言葉のように思われますが、元は同じです。


で、この伝で、センセも一つ、倭人における半農人がなんと呼ばれていたか、考えてみました。

で、結論。それは、「たみ」です!以下、狂瀾怒濤の妄察です。

「たみ」の「た」は「田」。音読みは「でん:den」。訓読みは「た:ta」。「d」と「t」はお友達。倭人はそもそも大陸で稲作を行っていた。従って、「た」は移入された言葉ではなく、「た」と「でん」は同源だ!

「たみ」の「み」は「民」。「み:mi」と「みん:min」はとっても近いお友達。

従いまして、倭人は「田民:たんみん」と「海民:あんみん」とで構成されていた。その後、「たんみん」の重要性が「あんみん」を凌駕していったので、一般民衆のことを「たんみん → たみ」と呼ぶようになった。「海民」は「あんみん → あまみん → あまみ」と変化。因みに、「あま=うみ」で、同源です。

さらに、「民衆」のことを古語で「たみくさ」というが、これは「たくさんのたんみん」のこと。同様に「あまくさ」は「たくさんのあんみん」のことを意味する。

入り組んだ「天草」の地は、今も昔も多くの漁労関係者が暮らすところである。


どうです!目からマナコでしょう!!! ← HD





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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年8月13日 17:23に書いた記事です。

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