昭和40年代:足立区の移り変わり-1

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皆様明けましておめでとうございます!今年も宜しくお願い致します。今年の冬は例年になく寒いですが、体調管理は大丈夫ですか?

久しぶりのブログの更新です。昨年の夏休みは引っ越しの準備で忙しく、その後も何かと忙しく、年が明けて漸く時間がとれました。昨年の今頃はSTAP細胞のお話で盛り上がっていましたが、その問題にも漸くケリが付き、落ち着くべき所に落ち着いた感がします。ただ、死亡者が出たのは返す返すも残念な事ではあります。
何もそこまで、と言う感がしますが、研究者は一般にプライドが高い人間が多いので、むべなるかなと言う気もします。

プライドだけで生きてるヒトも結構居ますしね・・・。

せっかく好きな道を歩んでいるのですから、もっと研究自体から得られる喜びに身を委ね、周りの目や評判を気にせずに生きれば良いのに・・・などとセンセなんぞは考えますが・・・。
研究者も人の子、と言う所なのでしょうね・・・。

さて、今回は実はもすこしハードな内容のものを書く予定でしたが、準備に時間がかかりそうなので、お気楽系のものを書きます。昨年冬に昭和30年代の思い出を書いたので、続編として40年代初頭の雰囲気を書いていきたいと思います。

前回、昭和30年代は基本的に戦前の日本であり、昭和40年代になって脱皮した、と書きましたが、将に昭和40年代こそは高度経済成長の時代であり、所得倍増の時代であり、サラリーマン戦士の時代であり、インフレと狂乱物価の時代であり、そして、乱開発~公害~ゲバゲバに明け暮れた時代でした。
30年代に東京都世田谷区豪徳寺で小学生時代を過ごしたセンセでしたが、昭和40年、小学校5年生の時に、同じ東京の足立区に転校しました。その足立区の変遷を紹介する事によって、30年代から40年代の急速な移り変わりの様(さま)をお知らせする事が出来るかと思います。

東京の世田谷区豪徳寺界隈は典型的な「山の手」の住宅街で、小さいながらも落ち着いたたたずまいの住居が建ち並び、名刹豪徳寺を中心として、城山、八幡神社、松陰神社、ねず山、馬事公苑などが点在し、自然史的には武蔵野の面影を色濃く反映する地域でした。文化的にも洗練されており、小学生の話し言葉にも一定の節度が保たれ、男の子は「何々くん」、女の子には「誰々さん」と、くんさん付けで呼び合うのが普通でした。もちろんあだ名のある子にはあだ名で呼んでおりましたが、、、。

世田谷区から足立区に行くには、当時はまず小田急線で新宿まで行き、そこから総武線で秋葉原まで行きます。当時の秋葉原、総武線のプラットフォームから地面に降り立つのには階段しかありませんでした。若者は良いですが、お年寄りにはさぞかし、と言う作りでした。当時はどこでもそうでしたけど、、、。
昭和40年頃には既に地下鉄と東武線は繋がっておりましたので、直接に秋葉原駅から草加方面行きの電車に乗ることが出来ました。東武線の電車はオレンジとクリームの二色トーン、一方の営団地下鉄の方はジュラルミン作りの全面銀色の車両で、ナカナカ格好良いものでした。
三ノ輪を過ぎると地上に出、南千住の駅となりますが、当時の南千住界隈は誠に戦後昭和の雰囲気に満ちており、木賃宿が密集し、ニコヨンのおっさん達が立ちんぼし、小塚っ原の回向院には首切り地蔵があり、遠景には4本建てのお化け煙突が煙をモクモクと吐き出し、東京球場の建物があり、、、、。

倍賞智恵子が歌う「下町の太陽」そのままの場所でした。

南千住から北千住にかけても似たような雰囲気で、常磐線と平行し、途中で真っ黒に汚れた隅田川を横切り、北千住を過ぎると荒川放水路を渡り、小菅刑務所を右手に見ながら常磐線と交差し、一路竹の塚を目指します。

小菅、五反野、梅島、西新井までの東武線沿いは木造家屋が密集し、基本的に南千住の延長みたいな雰囲気でしたが、西新井を過ぎると途端に景色が変わり、見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼ・・・。所々に農家とお寺が点在するだけの風景が延々と続く中を電車は緩やかに右にカーブし、程なくして速度を落とし始めると、右手にどど~んとテッコンキンクリートの「高層建築群」がいきなり現れます。
ここが竹の塚で、高層建築群(と言っても4階建てですが)は、日本住宅公団がこの時期、日本全国に大々的に建て始めた「団地」なのでした。

竹の塚の駅舎は今では立派な駅ビルとなっておりますが、当時は単なるローカル線の粗末な駅舎でした。東口に降り立つとロータリーが有り、歩道を完備した立派な道路が東に向かって一直線に伸びてますが、これは竹の塚開発のためにわざわざこしらえた道であった様です。一歩中央を外れると、両脇に農水路を備えた昔ながらの農道が縦横に走り、立派な団地群のまわりは見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼ・・・。広々とした田んぼ群の真ん中に、非常なる違和感をもって団地群が存在すると言う、それが40年代初頭の足立区竹の塚の光景でした。

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2015年1月 3日 10:36に書いた記事です。

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