今月のウクライナ-143

アルメニア・アゼルバイジャン戦争はたった一日でアルメニアが降伏。
ナゴルノカラバフとアルメニアを繋ぐ一本の道路は、現在、
アルメニア避難民でごった返しています。
アルメニアは後ろ盾としてロシアを、
対するアゼルバイジャンはトルコを後ろ盾としていますが、
アルメニア首相は「全然頼りにならん!」とロシアを罵倒!
どんどん求心力を失うプーチンです。

さて、ササン朝の祖はアルダシール 1 世ですが、
彼の祖父がササン、あるいはサーサーンと呼ばれる人物で(諸説あります)、
ゾロアスター教の神官につながる家系であったようです。
そのせいもあって
「アケメネス朝を継ぐ正統ペルシャは我なり!」との意気高く、
そのペルシャを精神的に統合するものとして、
ゾロアスター教の国教化を図ります。

確かにササン朝はゾロアスター教の国教化を推し進めた結果、
キリスト教や仏教、マニ教などの異教を弾圧したりする時期もありますが、
寛容な時期もありで、
基本、厳格にゾロアスター教を推し進めたという印象は受けません。
あるいは逆に、これらの他の宗教との対抗上から、
従来のアーリヤ人の多神教的ごった煮状態から脱すべく、
教団は教義を整えることに務めた結果、
ようやくこの時代においてはじめてゾロアスター教という宗教体系が成立した、
と考えられています。
聖典である「アヴェスタ」なども、この時に書籍化されました。
ナンか、他の優れた宗教への対抗上、無理やり体裁を整えた、
というカンジがします。

それにしてもアヴェスタ、どっかの車の名前みたいですね!

260 年、現在のトルコに位置するエデッサという町をローマから奪取した際には
多くのキリスト教徒を抱えることとなり、
また、「今月のウクライナ-124」で述べたように、
キリスト教の異端合戦が激しくなる 6 世紀の東ローマにおいては
ギリシャのアカデミーに対する弾圧が激しくなったため、
多くの学者が大挙してペルシャに移り住んだ結果、
古代ギリシャの学問がペルシャにそのまま移築されることとなりました。
5 世紀初頭のアレキサンドリアのギリシャ系女性科学者であるヒュパティア
キリスト教の教えは迷信であり、科学的立場からこれを否定したことから、
キリスト教の過激派によって惨殺されるという事件まで発生しました。

結局のところ、古代ギリシャの学問は
まずはペルシャに、その後イスラムに、
そして最後にルネッサンス時代のイタリアに戻ってきた、
というカンジで点々と移行して行ったわけです。
その間の欧州は暗黒時代・・・。
このお話は、
現在の米国の過激なキリスト思想による進化論の否定などを彷彿とさせます。

こういう形でペルシャはこの時期に隆盛を迎え、
今月のウクライナ-133」で述べたように
ホスロー 2 世の時にはエジプトやイエメン地方まで版図に組み込みます。

一方で興味深いことに、このように中東に覇を唱えるササン朝ですが、
どういうわけか「今月のウクライナ-84」で登場した
中央アジアの遊牧民国家であるエフタルにはめっぽう弱く、
彼らに多額の税金を支払ってなだめすかしておりました。
税金の捻出のためにわざわざローマに戦を仕掛け、
今度はローマから賠償金を受け取ってこれをエフタルに支払うという・・・。
最後にはようやく突厥と同盟し、
エフタルを打ち破ることに成功しますが・・・。

ササン朝は、エフタルの他にも、フンや突厥、アヴァールなどとも、
戦ったり同盟したり、
何かと関係を持ちます。

で、7 世紀にアラブの砂漠でたちまちに起こったイスラムの連中によって
大方の予想を大きく裏切る形でササン朝は瓦解してしまいます。

アラブとペルシャの戦いは、今後、マホメット氏登場の際にお話します。

シャルプール2世.jpg4 世紀のシャルプール2世の像  ウイキより
イスラム前のペルシャ文化の一つです。