今月のウクライナ-149

さて、メディナの人々に招かれたマホメットは、
メッカでの迫害に嫌気がさしたためか、
自分に付き従う数十人の教徒と共に、
メディナへの本格的な移住を決意します。
で、首尾よくメディナのアラブ人同士の争いを鎮めたため、
現地の人々の信頼を勝ち得ることに成功します。
ここまでは良いです。

で、メディナに拠点を構えたマホメットは、
自分が唱える宗教=すなわちイスラム教のさらなる布教のため、
メッカに対して戦さを仕掛けます。
ここがセンセには分からない所です。

世界三大宗教の中では仏教が最も平和的な宗教であると言われる通り、
仏教の布教過程において大々的に武力が用いられたという歴史的形跡は、
少なくともセンセは知りませぬ・・・。
古代インドのマウリア朝なども、
仏教を広めるためにアショカ王が武力によってインドを平定した、
というわけではありません。
逆に、インド平定に伴う自らの残虐行為を深く悔い改め、
心の平安を説くブッダの教えに帰依した、というのが本来だと思います。

こういう過程を経ての信仰心の発生というのは、
日本人にとっては分かりやすいですね!

キリスト教は布教に熱心なことで有名ですが、
ローマ帝国にキリスト教が広まっていく過程を見る限り、
これも、武力によって信仰を強制した結果としてキリスト教が広まった、
ということではありません。
ま、少し時代が下がると
フランク王が武力を用いて北方の未開蛮族の強制的な改宗を行いますが、
後に述べる予定のイスラム普及の過程は必ずしも「強制的」とは言えないので、
これとも少し異なる気がします。

さらに後の大航海の時代には
スペインやポルトガルが宗教的情熱を伴う植民地形成を行いますが、
これも宗教的動機が主、というよりもむしろ、
金儲け~領土拡張のために宗教を利用した、
というニュアンスが強い気がします。

いずれにしましても、
マホメットは自らの教団を守るため、あるいは拡大するため、
あるいは穿った見方をすれば、迫害を受けてきた復讐心からか、
メッカに向かう隊商を襲撃します。
初戦は勝利しますが、メッカの連中も反撃に転じ、
今月のウクライナ-146」で紹介した写真の場所、ウフド山で両者は対決!
両軍共に女性兵士も混じり、馬とラクダと徒歩の混成部隊。
ラクダは戦場までの交通手段として用い、
戦場においては、より機動性に勝る馬を用いて戦ったようです。
兵士とはいっても普段は商売したり畑を耕したりの普通の人々で、
軍事訓練などとは無縁の連中。
戦いぶりも、剣、槍、弓に加えて石礫(いしつぶて)の応酬で、
マホメットもこの戦いで顔面に石礫を食らって血を流し
さらには落とし穴に落ちてしまうなど、大けがをしてしまいます。

戦況はメッカ軍に有利に働きますが、
決定的な一打をマホメット率いるメディナ軍に対して加えることは叶わず、
結局彼らはメッカに引き返すこととなります。

この時にメッカ軍の騎馬隊を率いて突撃し、
メディナ軍の敗走を招いたオトコはその後にイスラム教徒となり、
マホメット軍の優秀な将軍の一人となるのですが、
この時もこの後も、
当時のイスラム軍は「軍」と呼ぶのも憚られる素人集団であり、
彼らが何ゆえにペルシャやローマの軍団を破りえたのか、謎です。
宗教的情熱の違いはあったのでしょうが、
それだけでは説明できませぬ・・・。

結局のところ、この当時のアラブ人社会は争いが日常茶飯事であり、
それらの日常的な小競り合いに勝利することが正義の証、
という感覚があったのでしょうか?
武力を含む何らかの方法によって争いをまとめ上げる、
そのような力(ちから)無くしては何を唱えても無意味、
という実力主義的な哲学がイスラムの布教に伴っていたのかな?
そして、当初は宗教的にアラブ社会をまとめ上げることが主目的であり、
ペルシャやローマと戦うことなどは夢想だにしていなかったが、
行きかけの駄賃でそうなった、
で、勝ってしまった、
ということなのかな?
とも思いますが、もちろん、本当のところは分かりませぬ・・・。

キャラバン.jpgラクダの隊商  ウイキより
いわゆるキャラバンです。
マホメットはメッカ行きの隊商を襲ってました。

イスラムって、やっぱりよく分かりませぬ・・・。